栃木西部の武将、小山氏・皆川氏は北条に従い、佐野氏は上杉氏・佐竹氏に従い、宇都宮氏も佐竹氏に従い北条氏に対抗したという戦乱の状況があり、戦国大名に翻弄される悲哀の歴史であったといえるかもしれません。
城之山城はおそらく、田沼氏が築城した支城であって後に佐野氏に治められた歴史であったと思います。
佐野氏分流佐野重綱が下野国安蘇郡田沼村に移り住み、子孫が田沼姓を名乗ったという。
江戸時代には紀州藩士として仕えていたが、藩主徳川吉宗が征夷大将軍に就任した際、意行が吉宗に随行して幕府に仕えた。意行は小姓や小納戸頭取などをつとめ、600石の旗本となった。
田沼意次
9代将軍家重・10代将軍家治に重用され、遠江国相良5万7千石の大名となり、老中として権勢を極めたものの、のちに失脚する。ウィキペディアより
城之山城 北尾根へ
南東尾根から本丸に戻り
北尾根の大堀切
本丸北城壁を見上げています。
北尾根第二堀切
北尾根第三堀切
この先は細尾根となって断崖となります。
次回 那須氏七騎の伊王野氏の本城 伊王野城
城之山城はおそらく、田沼氏が築城した支城であって後に佐野氏に治められた歴史であったと思います。
佐野氏分流佐野重綱が下野国安蘇郡田沼村に移り住み、子孫が田沼姓を名乗ったという。
江戸時代には紀州藩士として仕えていたが、藩主徳川吉宗が征夷大将軍に就任した際、意行が吉宗に随行して幕府に仕えた。意行は小姓や小納戸頭取などをつとめ、600石の旗本となった。
田沼意次
9代将軍家重・10代将軍家治に重用され、遠江国相良5万7千石の大名となり、老中として権勢を極めたものの、のちに失脚する。ウィキペディアより
城之山城 北尾根へ
南東尾根から本丸に戻り
北尾根の大堀切
本丸北城壁を見上げています。
北尾根第二堀切
北尾根第三堀切
この先は細尾根となって断崖となります。
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