山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

黒羽城②

2018-01-29 22:05:20 | 山城ー野州
本丸へ

本丸の北側土塁を歩いています。

北から南を見て、神社です。

本丸は土塁を東から北・西へ廻ることができます。

本丸にあった住居図

本丸大手(入り口の左手に廻れば)

大手を南から見ています。

本丸大手の南にある水堀

本丸を南から見ています。

本丸南の大空堀

橋を渡れば中曲輪(仮に)

空堀を東から見ています。

中曲輪は東への出丸へ通じる通路があります。

出丸への通路(本丸空堀の外郭をなしています。)

芭蕉の館への通路(空堀)



三の丸にある芭蕉の館

駐車場は曲輪で水堀が西から南に配されています。

黒羽城は北の体育館が二の丸で、さらに北尾根に遺構があるようです。(杉林です)また三の丸の南にも曲輪がありますが竹林です。

次回 須賀川城(旧黒羽町 須賀川にあります。)

那須氏の家督争いと家臣の抗争②
資清の死後、その子、大田原綱清は、那須氏の宿敵、宇都宮広綱(尚綱の子)と誼を通じて、勇将の誉れ高い那須高資を千本城にて謀殺。姉の子である那須資胤を那須家の当主にして、専権を振るった。
しかし、その後、成長した那須資胤は、大田原三兄弟(大関高増、福原資孝、大田原綱清)らの専断を憎むようになった。また、大田原三兄弟も那須氏はもはや不要であると考えるようになり、大田原氏は宿敵の佐竹氏と連合して、那須資胤を排斥しようと図った。その結果、那須資胤と大田原三兄弟は合戦に及ぶなど緊迫したが、近隣の佐竹氏や宇都宮氏、蘆名氏なども那須領を虎視眈々と狙っている情勢での内部分裂は愚劣であることは明らかだったので、那須資胤の老臣の興野氏(名は不詳)や那須党の有力国人の伊王野氏の意を受けた伊王野氏の老臣稲沢氏(名は不詳)らが会談を持ち、資胤や三兄弟を説得して、ついに和平にこぎつけた。それによって、那須氏は対外的にまとまりを持つことができるようになり、那須資晴の時代には雄飛することができるようになった。
しかし、大田原氏の野望は尽きず、那須党の千本氏を謀略で滅ぼし、その領地を兄弟で分割するなど大田原氏は那須氏の癌であり続けた。
豊臣秀吉が後北条氏を攻めると、いち早く、大田原晴清は豊臣秀吉に従い、その領地を保全し、那須氏には時期尚早として秀吉に従うことの非を唱えた。そのため、那須氏は遅参したとされ改易され、大田原氏は那須氏から認められていた領土をそのままに近世大名へと脱皮を果たし、大田原藩を立藩。そのまま一度も領地を移される事無く明治維新をむかえた。ウィキペディアより