下の城本丸西側下の曲輪群へ進みます。
上の城之本丸に戻って
割れている説明板を組み合わせて、辛うじて読めます。
下の城の本丸北大堀切から
西の横堀へ下りてゆきます。。
大堀切を西から見ています。
横堀は南先端部下に横堀を繋ぎ
その下に段曲輪
またもや横堀
腰曲輪
波のように曲輪が続きます。
大堀切からの竪堀がここまで下って来ています。
竪堀は祠を囲うように切ってあります。
竪堀は西側麓まで下っていて
西虎口まで繋いであります。
竪堀の南側下には100mもあるかという長い曲輪
滝尾山城は終了、次回大田原城
滝尾山城は西側の曲輪群も含めて考えますと、相当な兵力を擁していたと想像できます。
「下南摩古城跡略記」が紹介されているが、それによると次のようにある。「下南摩に高木讃岐という者がいて主家の皆川氏と不和になった。そこで赤見氏の援助を受けるために赤見内蔵介広孝を招いて城主とした。赤見氏は南摩氏と名前を変えて、滝尾山の麓に陣屋を置いた。永正7年(1510)のことであると言う。その後天正4年(1476)、滝尾山を切り開いた新城が完成したが、城主南摩秀村が病死し、それを機会にこの城は壬生氏の支配下に入った。」これが真実であるとすると、始めに麓に築かれた陣屋というのは招魂社の辺りで、それから発展していって、天正4年に全山を取り込んだ要塞として城が完成したと見るのがよさそうである。「余湖くんのお城のページ」より
壬生義雄について
父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。
一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮・多気山両城を攻撃したことから、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]。
天正15年(1587年)10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ケ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]。
義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した(『異説小田原記』などによると、皆川広照によって毒殺されたという説もある)といわれる。義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は断絶した。ウィキペディアより
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割れている説明板を組み合わせて、辛うじて読めます。
下の城の本丸北大堀切から
西の横堀へ下りてゆきます。。
大堀切を西から見ています。
横堀は南先端部下に横堀を繋ぎ
その下に段曲輪
またもや横堀
腰曲輪
波のように曲輪が続きます。
大堀切からの竪堀がここまで下って来ています。
竪堀は祠を囲うように切ってあります。
竪堀は西側麓まで下っていて
西虎口まで繋いであります。
竪堀の南側下には100mもあるかという長い曲輪
滝尾山城は終了、次回大田原城
滝尾山城は西側の曲輪群も含めて考えますと、相当な兵力を擁していたと想像できます。
「下南摩古城跡略記」が紹介されているが、それによると次のようにある。「下南摩に高木讃岐という者がいて主家の皆川氏と不和になった。そこで赤見氏の援助を受けるために赤見内蔵介広孝を招いて城主とした。赤見氏は南摩氏と名前を変えて、滝尾山の麓に陣屋を置いた。永正7年(1510)のことであると言う。その後天正4年(1476)、滝尾山を切り開いた新城が完成したが、城主南摩秀村が病死し、それを機会にこの城は壬生氏の支配下に入った。」これが真実であるとすると、始めに麓に築かれた陣屋というのは招魂社の辺りで、それから発展していって、天正4年に全山を取り込んだ要塞として城が完成したと見るのがよさそうである。「余湖くんのお城のページ」より
壬生義雄について
父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。
一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮・多気山両城を攻撃したことから、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]。
天正15年(1587年)10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ケ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]。
義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した(『異説小田原記』などによると、皆川広照によって毒殺されたという説もある)といわれる。義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は断絶した。ウィキペディアより