諏訪山城は栃木県鹿沼市深程(旧粟野町)にあります。
諏訪山城地図
地方道37号線で鹿沼市深程に入り、バス停清州保育所入り口のすぐ先をすぐに左折し無量寿院を目指します。この寺の裏山の北尾根が諏訪山城です。
無量寿院から登れば危険もなく、寺院の裏山に段曲輪が重ねて構築されていて、あとは北尾根を登ってゆけば主郭となります。しかし、今回、地元の人に聞いたところ、沢沿いに登るよう教えられ、駐車は親切な方の庭をお借りして止めることができました。ただ、東急斜面の登りで危険をともない、お勧めしません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/f9/6e2108380c728914fa1e95c7a984121e.jpg)
とにかく教えられた東斜面を登り、落ち葉がたくさんあるので滑りやすく、急斜面をゆっくり落ち葉をどかしながら登りました。滑落すれば怪我ではすみません。なんとか登り切り尾根に着くと支尾根Eとされる尾根でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/fe/c62bbae11781cf936beabea072e54e11.jpg)
北は一段低く構えている曲輪です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/d8/14ccc95e8c166bf95b92dea9f6560f43.jpg)
西に登ってゆくと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/76/1cc269eac6f674e61856bdb0e06ea917.jpg)
峰が見えてきて、頂部は二の丸です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/5d/8c8547b6a6f09d4af04425d0da3de70d.jpg)
斜面の中腹に瘤があり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/37/7d48a1f84678940028a1b5c12c803931.jpg)
瘤の上に曲輪が控えています。瘤を迂回して登ってきた敵を狙い撃つことができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/70/d003c6e32e02b21cb37637ecf0001581.jpg)
斜面の上段、浅い空堀が見えています。おそらく木柵が構築されていたと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/50/3aa4e697867fb047cb3db2800a29eca0.jpg)
南に目を向ければ、曲輪3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/f3/80f4d80dcda95d62102379b64baa302c.jpg)
北に目を向ければ本丸城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/26/7d0d2ceaf76dd893c394127c3c974584.jpg)
曲輪3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/f8/057b8497f25e2211f5235e86063d486d.jpg)
曲輪3の南東部に空堀と壕があり、南の遺構に導いています。この先は次回に
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/5c/08b5208f6f804b50045b322fe56d449c.jpg)
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
諏訪山城についての記事は『皆川正中録』という記録に載っている。これによれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。
皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却した。 「余湖くんのお城のページ」記事より、
諏訪山城地図
地方道37号線で鹿沼市深程に入り、バス停清州保育所入り口のすぐ先をすぐに左折し無量寿院を目指します。この寺の裏山の北尾根が諏訪山城です。
無量寿院から登れば危険もなく、寺院の裏山に段曲輪が重ねて構築されていて、あとは北尾根を登ってゆけば主郭となります。しかし、今回、地元の人に聞いたところ、沢沿いに登るよう教えられ、駐車は親切な方の庭をお借りして止めることができました。ただ、東急斜面の登りで危険をともない、お勧めしません。
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とにかく教えられた東斜面を登り、落ち葉がたくさんあるので滑りやすく、急斜面をゆっくり落ち葉をどかしながら登りました。滑落すれば怪我ではすみません。なんとか登り切り尾根に着くと支尾根Eとされる尾根でした。
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北は一段低く構えている曲輪です。
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西に登ってゆくと
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峰が見えてきて、頂部は二の丸です。
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斜面の中腹に瘤があり
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瘤の上に曲輪が控えています。瘤を迂回して登ってきた敵を狙い撃つことができます。
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斜面の上段、浅い空堀が見えています。おそらく木柵が構築されていたと思います。
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南に目を向ければ、曲輪3
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北に目を向ければ本丸城壁
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曲輪3
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曲輪3の南東部に空堀と壕があり、南の遺構に導いています。この先は次回に
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縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
諏訪山城についての記事は『皆川正中録』という記録に載っている。これによれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。
皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却した。 「余湖くんのお城のページ」記事より、