山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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尼飾城②

2016-11-27 20:11:11 | 山城ー信州
新情報 箕輪城の郭馬出に門が復元されました。今後、他の門も復元予定だそうです。


箕輪城はさらに郭馬出・木俣・稲荷曲輪・二の丸・三の丸と空堀、杉の木がすべて伐採され、曲輪がきれいになっています。訪問された方も、していない方も、是非出かけて見てください。綺麗に整備された箕輪城は後日、紹介します。

尼飾城


堀切を越えて東尾根を進みます。

曲輪7

曲輪6

堀切の先に曲輪5

空堀オ

西から空堀オを振り返って見ています。

曲輪4

曲輪3

次回 曲輪2・本丸

尼飾城について
標高780mの尼巌山に築かれた、松代周辺の土豪である東条氏の居城である。「一に春山(春山城)二に尼飾(尼飾城)三に鞍骨(鞍骨城)」と言われ近隣で堅固を誇ったと伝えられる。
弘治2年(1556年)武田信玄は真田幸隆に書状を送り、尼巌城を早く攻め落とすよう督励した。その後幸隆により東条氏は敗れて越後に逃亡した。
天正10年(1582年)上杉景勝が川中島地方の領主となると、東条信広が城主に復帰した。しかし、慶長3年(1598年)、東条氏は景勝の会津移封に同道し、尼巌城は廃城となった。 ウィキペディアより


東条信広
家系は村上氏の傍流で、村上義清に属し、また娘を義清に嫁がせている。武田信玄の北信侵攻に抵抗していたが、弘治2年(1556年)武田氏に属する真田幸隆に攻められて落城し、越後の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れた。その後の消息は不詳だが、後に一門の東条利光が上杉景勝に属して所領を回復しているが、一説にはこれは信広の事績だともいう。ウィキペディアより