山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑧

2016-11-12 20:55:44 | 歴史資料
関東幕注文と高田小次郎
「関東八州古戦録」では上杉景虎は永禄二年に、近衛前久公とともに下られた。同二年十月中旬に平井城へ入るが、城の不備から桐生城へ移るとある。小田原の攻撃が永禄三年と四年とされ、景虎の呼びかけに応じた人々の陣幕の一覧に「関東幕注文」があるが、この幕注文の成立を永禄三年から四年と推定される。その中の上州諸将を「衆」という軍事集団単位で分類している。白井衆、惣社衆、箕輪衆、厩橋衆、沼田衆、岩下衆、足利衆、桐生衆の集団があり、高田小次郎は箕輪衆の中に入れられている。
 高田小次郎は憲頼、繁頼、信頼の三名とも小次郎と称している。「関東幕注文」に入っているのは高田大膳亮憲頼でなく、既に天文十六年の志賀城陥落の時か、その後に戦死しているからである。当然その子の高田大和守繁頼の時代であるり、上杉景虎に与した者であろう。武田信玄に降ったのが、永禄四年十一月十八日であるから、永禄三年頃にはいない。またその弟の高田兵庫介信頼は武田勝頼に従うとあるからこの人でもない。
 高田系譜
源頼政ー頼兼ー頼茂ー高園(僧)-盛員(もりかず)
源頼政は、清和源氏の中の一つの系統である多田源氏と言われている。清和天皇ー貞純親王ー源経基の子満仲は、摂津守の任が終わって摂津国河辺郡多田村に土着し、その長子頼光も摂津守として家を継ぎ、摂津源氏または多田源氏を称えた。その子孫は代々この地に居住して多田氏を称したと言われている。源頼政は、兵士追討の事が漏れて宇治平等院に遁れたが、治承四年(1180)五月二十六日、三人の子と共に奮戦自刃した。頼政の孫光国が美濃国土岐郡に住し、光国の子光信の代から土岐氏を称した。土岐氏は美濃国の守護職であり、後裔には斎藤道三に滅ぼされた土岐頼芸がいる。
 源頼政の四男頼兼の孫、武者所高田太郎盛員は美濃国から甘楽郡一宮野庄に下向し、後に妙義菅根庄の地に移り、この地を領有するようになり後裔に高田小次郎が出た。菅根庄の名は天歴四年(950)二月天沼の里、菅根の庄を菅原村と名付ける。盛員は美濃国から一宮野庄を経て、甘楽郡菅野庄高田の郷に移ってから、この地の高田を家号として高田を名乗ったと思われる。

富岡市高田地図