山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑦

2016-11-07 19:18:35 | 歴史資料
武田起請文と高田小次郎

箕輪の長野業盛(業政の嫡男)の城が落城したのは、永禄九年九月二十九日であり、信玄は西上州一帯を攻略し、武田の勢力圏に入れられた。幕下将士の武田起請文を信州の生島足島神社に捧げさせ忠誠を誓わせ、精神的結束を固めて、甲斐・信濃・西上州の一体化を図ったものである。著名には花押に添えて血判を押したものであり、信州小県の生島足島神社に奉納された。

生島足島神社地図
訪れたところ、武田起請文専用の建物があり、起請文がずらりと掲載されています。

これは武田家臣全部から徴収されたものでなく、永禄九年、十年(1567)頃信州小県方面に結集した武士に限られたものであろうと言われている。その中には甲州系諸将の多くの名が見られない。この起請文中には、高田大和守繁頼の名があり、この時には武田信玄に与していたことがわかる。
 信玄の箕輪攻略の時には、二万五千ないし一万五千の兵力で箕輪城攻撃に加わったが、これに対して箕輪勢は三千に過ぎなかったという。甲州勢は余地峠を越え、小幡勢・高田勢・丹生勢を併せ、箕輪攻略に向かったとあることから高田繁頼は当然に永禄八年頃にはすでに甲州勢に与していたのである。
 高田小次郎大和守繁頼は、小次郎大膳亮憲頼の子であり、天文十六年(1547)八月の志賀城の落城の時、或は信玄の高田領土攻撃の時も無事に切り抜けることができたばかりでなく、その後も長く武田信玄に敵対行動を続けていたが、ついに永禄四年(1561)十一月に西牧・高田・菅原の領主繁頼は信玄に降伏した。
 「加沢記」に「三年(永禄)春の条に収む、翌年(永禄四年)十一月、西上州へ出張の節、鎌原へ御書有、調略故、其許時宣可然様に候哉、本望候、此の表追日任存分候、就中昨日高田降参、今日は休馬、明日向干国峰可及行候。近日分人数、その筋へ可遣候条、弥相(いよいよ)調候様、無油断計策専一候、恐々謹言  永禄四年十一月十九日 信玄判」

この中によると高田の降参は永禄四年十一月十九日以前のことであろう。永禄四年十一月二日上州進出を図った武田信玄が松原明神に治めた祈願文には、西牧・高田・諏訪(松井田城)の三城を二十日ほどで落城することを祈願して出陣したとある。この時、信玄は内山峠を越え西牧城にて小幡憲重・信実父子と上州攻略について相談し、小幡信実に作戦を開始させた。「加沢記」にある十一月十九日の武田信玄の書状によると、前日の十八日に高田氏は降伏し、二十日には国峰城に向かい、小幡図書之助景定を追って国峰を奪還したとある。

松原明神地図
松原諏訪神社は松原湖北に下社、南に上社があります。ちなみに下社の裏山に松原城があります。