本丸へ
本丸南下の瘤
本丸西虎口
本丸
本丸北側は土塁
本丸東側から見える雄大な景色
本丸の北下に下り、本丸北城壁を見ています。
北の丸(仮に)ここから北尾根に縄張りされていますが薮です。
縄張り図は木村尚志氏「山城は語る」
加地城は佐々木氏の本城です。記事の①に本殿の写真を載せていますが家紋は四つめ結です。
佐々木氏について
佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている(#出自に関しての議論参照)。
宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。 目結紋系を持つ家系は佐々木氏族の末裔と言われる。
祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。
治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。
また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の五男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し、分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。 ウィキペディアより
本丸南下の瘤
本丸西虎口
本丸
本丸北側は土塁
本丸東側から見える雄大な景色
本丸の北下に下り、本丸北城壁を見ています。
北の丸(仮に)ここから北尾根に縄張りされていますが薮です。
縄張り図は木村尚志氏「山城は語る」
加地城は佐々木氏の本城です。記事の①に本殿の写真を載せていますが家紋は四つめ結です。
佐々木氏について
佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている(#出自に関しての議論参照)。
宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。 目結紋系を持つ家系は佐々木氏族の末裔と言われる。
祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。
治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。
また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の五男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し、分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。 ウィキペディアより