東海道本線全線全駅歩き旅 続編(45)
2022年(R4)5月22日(日) 垂井駅 ―>関ケ原駅JR営業キロ5.7Km
垂井駅から街道筋を歩いていく。


駅近くのレンガ造りの倉庫がなかなか良い形だ。



しばらく歩くと古びたビルに「53年間ありがとう」と垂れ幕がかかっていた。


旧垂井町役場の建物だった。
見るからに古くて大きな地震が来たら崩壊しそうだ。

垂井町中を歩いていくと、いかにも宿場町の雰囲気である。




関が原まで6キロメートルほどだ、関ヶ原の合戦の時はこの宿場町も戦場になったのだろうか。
ビルの壁に「街角ギャラリー」というのがある。


もう何年も不景気が続いているのでどこの町でも“町おこし”に必死なのだ。
このお宅の鬼瓦には「Water」と英語が書いてある。

形も水しぶきを表している、ずいぶんとおしゃれな感じだねえ。


この町も曳山のお祭りがあるんだな。子供歌舞伎の上演があるという。

やはり新型コロナの影響で2年連続中止になったが、2022年は開催できたらしい。
こんな渋い建物も残っている。



「大衆食堂」というのがいいな。いまならファミレスということになるのかな。
ここでも昔の旅籠を観光客用の無料休憩所にしている。



この電線と碍子がなんとも時代を感じさせてくれる。

江戸の時代にはここは油屋さんだったと説明にある。

わたしの田舎の親戚も昔は油屋だったそうだ。
かなり大きな屋敷だったと記憶している。
油屋といってもガソリンスタンドとか食用油のようなものではない。
行灯など照明用の油を商っていたのだが時代は大正から昭和に入り電灯が普及して一気に廃れてしまったようだ。







町を抜けていったところに「垂井一里塚」があった。




一里塚は道の両側に1基ずつ置かれていたのだが片側だけが残っている。

当時はどうだったのか知らないけど、草に覆われていたら気づかずに通り過ぎてしまうんじゃないかと思った。
関ケ原町のマンホールはデザインが秀逸、兜をデザインしてるのがいいな。


町の掲示板でも合戦の地「関ケ原」をアピールしている。

昔のつるべ式井戸があった。


つるべ式井戸を見たのは何年前のことだっただろうか、60年以上前のような気がするな。
ここは実際に水を汲むことができるそうだが、飲めませんと注意書きがあった。
このあたりの住宅の塀や屋根の鬼瓦はかなり凝った作りだ。





単に魔よけためというより権勢を表したり縁起物なのだろう。
いよいよ関ケ原合戦の地へと入っていく。



この松並木のやや狭い道が歴史の道なのだ。




ここまでくると「徳川家康」「常盤御前」「天武天皇」「山内一豊」などなど古代から近代まで誰でも知っている名前が出てくる。




進んでいくと自動車整備工場の壁に案内があって「自由にトイレを使ってください」とあった。


これはありがたい。古戦場巡りはトイレとの闘いでもあるからね。
このような心配りが本当の「おもてなし」だね。
日曜日だから自転車ツーリングの人もかなりいる。

こんどは関ケ原宿の町中へと入っていく。




駅はもうすぐだ。
このお店もじつにシブイ。「百貨の店」というのがすごいなあ、いまならコンビニエンスストアなのだろうか。

やっと駅が見えてきた。


今日は晴れて気温が上がったので午後4時半というのに気温が26度もある。
駅前には土産物店があり観光案内所も兼ねていた。





さすがにこの時間は客の姿はなかったが日中は込み合うんだろうな。
お菓子などだけでなく兜とか刀とか合戦場にまつわるものが多い。


観光客に楽しんでもらおうと駅の中にも額縁?がある。

今日はこの駅までだ。



今夜の宿は南彦根駅前の南彦根ステーションホテルにした。
途中の米原駅で乗り換える、JR東海はこの駅までだ。


プラットホーム向かいにキロポストを見つけたので写真を撮る。
おお!かなり神戸に近づいたぞ。
隣の線路に近江鉄道の電車が停まっていたのでそれも撮影する。


これでもけっこう忙しいのである。

南彦根駅で降りたらまずショッピングセンターへ買い物に行く。



ショッピングセンターは線路を挟んでホテルの反対側にあるので、チェックインしたら外出しなくて済むように先に買い物を済ませてしまうのだ。
まあ、例のごとく割引品ばかりを買ってしまうのだが、、

このホテルもなかなか古い。

なにしろ部屋の電話がダイヤル式なのだ。


「えーっと、、これはたしか電話だよなあ、、どうやって使うんだっけ(笑)」
わたしが小学生低学年のころ親戚の家に電話があった。

壁掛け式でダイヤルが無くて交換手に繋いでもらうタイプのものだ。
電話は屋内にあるのだが電話室(いまの電話ボックスと同じようなもの)の中にあった。
思えばわたしはこの壁掛け電話から黒電話、プッシュ式そして現在のスマートフォンまでの歴史を生きてきたんだなあ。
さらにトイレにはこのような注意書きがある。


昭和時代の後半までは水洗トイレの使い方を知らない人はかなりいたのだ。
日本人は浴槽の外で体を洗うという習慣があるので床を水浸しにする客も多かった。

で、、これである。

バスルーム前のカーペットが濡れて傷んでしまったので、その部分だけ板敷にしたんだなあ。
ホテルの保守というのも大変なんだよね。

2022年(R4)5月22日(日) 垂井駅 ―>関ケ原駅JR営業キロ5.7Km
垂井駅から街道筋を歩いていく。


駅近くのレンガ造りの倉庫がなかなか良い形だ。



しばらく歩くと古びたビルに「53年間ありがとう」と垂れ幕がかかっていた。


旧垂井町役場の建物だった。
見るからに古くて大きな地震が来たら崩壊しそうだ。

垂井町中を歩いていくと、いかにも宿場町の雰囲気である。




関が原まで6キロメートルほどだ、関ヶ原の合戦の時はこの宿場町も戦場になったのだろうか。
ビルの壁に「街角ギャラリー」というのがある。


もう何年も不景気が続いているのでどこの町でも“町おこし”に必死なのだ。
このお宅の鬼瓦には「Water」と英語が書いてある。

形も水しぶきを表している、ずいぶんとおしゃれな感じだねえ。


この町も曳山のお祭りがあるんだな。子供歌舞伎の上演があるという。

やはり新型コロナの影響で2年連続中止になったが、2022年は開催できたらしい。
こんな渋い建物も残っている。



「大衆食堂」というのがいいな。いまならファミレスということになるのかな。
ここでも昔の旅籠を観光客用の無料休憩所にしている。



この電線と碍子がなんとも時代を感じさせてくれる。

江戸の時代にはここは油屋さんだったと説明にある。

わたしの田舎の親戚も昔は油屋だったそうだ。
かなり大きな屋敷だったと記憶している。
油屋といってもガソリンスタンドとか食用油のようなものではない。
行灯など照明用の油を商っていたのだが時代は大正から昭和に入り電灯が普及して一気に廃れてしまったようだ。







町を抜けていったところに「垂井一里塚」があった。




一里塚は道の両側に1基ずつ置かれていたのだが片側だけが残っている。

当時はどうだったのか知らないけど、草に覆われていたら気づかずに通り過ぎてしまうんじゃないかと思った。
関ケ原町のマンホールはデザインが秀逸、兜をデザインしてるのがいいな。


町の掲示板でも合戦の地「関ケ原」をアピールしている。

昔のつるべ式井戸があった。


つるべ式井戸を見たのは何年前のことだっただろうか、60年以上前のような気がするな。
ここは実際に水を汲むことができるそうだが、飲めませんと注意書きがあった。
このあたりの住宅の塀や屋根の鬼瓦はかなり凝った作りだ。





単に魔よけためというより権勢を表したり縁起物なのだろう。
いよいよ関ケ原合戦の地へと入っていく。



この松並木のやや狭い道が歴史の道なのだ。




ここまでくると「徳川家康」「常盤御前」「天武天皇」「山内一豊」などなど古代から近代まで誰でも知っている名前が出てくる。




進んでいくと自動車整備工場の壁に案内があって「自由にトイレを使ってください」とあった。


これはありがたい。古戦場巡りはトイレとの闘いでもあるからね。
このような心配りが本当の「おもてなし」だね。
日曜日だから自転車ツーリングの人もかなりいる。

こんどは関ケ原宿の町中へと入っていく。




駅はもうすぐだ。
このお店もじつにシブイ。「百貨の店」というのがすごいなあ、いまならコンビニエンスストアなのだろうか。

やっと駅が見えてきた。


今日は晴れて気温が上がったので午後4時半というのに気温が26度もある。
駅前には土産物店があり観光案内所も兼ねていた。





さすがにこの時間は客の姿はなかったが日中は込み合うんだろうな。
お菓子などだけでなく兜とか刀とか合戦場にまつわるものが多い。


観光客に楽しんでもらおうと駅の中にも額縁?がある。

今日はこの駅までだ。



今夜の宿は南彦根駅前の南彦根ステーションホテルにした。
途中の米原駅で乗り換える、JR東海はこの駅までだ。


プラットホーム向かいにキロポストを見つけたので写真を撮る。
おお!かなり神戸に近づいたぞ。
隣の線路に近江鉄道の電車が停まっていたのでそれも撮影する。


これでもけっこう忙しいのである。

南彦根駅で降りたらまずショッピングセンターへ買い物に行く。



ショッピングセンターは線路を挟んでホテルの反対側にあるので、チェックインしたら外出しなくて済むように先に買い物を済ませてしまうのだ。
まあ、例のごとく割引品ばかりを買ってしまうのだが、、

このホテルもなかなか古い。

なにしろ部屋の電話がダイヤル式なのだ。


「えーっと、、これはたしか電話だよなあ、、どうやって使うんだっけ(笑)」
わたしが小学生低学年のころ親戚の家に電話があった。

壁掛け式でダイヤルが無くて交換手に繋いでもらうタイプのものだ。
電話は屋内にあるのだが電話室(いまの電話ボックスと同じようなもの)の中にあった。
思えばわたしはこの壁掛け電話から黒電話、プッシュ式そして現在のスマートフォンまでの歴史を生きてきたんだなあ。
さらにトイレにはこのような注意書きがある。


昭和時代の後半までは水洗トイレの使い方を知らない人はかなりいたのだ。
日本人は浴槽の外で体を洗うという習慣があるので床を水浸しにする客も多かった。

で、、これである。

バスルーム前のカーペットが濡れて傷んでしまったので、その部分だけ板敷にしたんだなあ。
ホテルの保守というのも大変なんだよね。
