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東北本線,東海道本線沿線 全線全駅歩き旅のブログ

旧東北本線と田沢湖線,花輪線,釜石線,八戸線,山田線、北上線、東海道本線、奈良線、大船渡線沿線歩き旅の記録。

20日目 松島駅ー仙台駅

2012年04月06日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅


2011年6月6日(月)晴れ

松島駅 午前6時20分 - 塩釜駅 午前9時50分 約11.6Km

きょうは今回の目的駅の仙台駅まで歩く予定だ。

距離はおおよそ27キロで、いままで一日で歩いた距離としてはもっとも長い。
普段スポーツで鍛えている人とは違いカウチポテト生活をしているジイさんには少々長い距離のような気がするがやってみるしかない。
さいわい快晴である。
雨より快晴の方がもちろん嬉しいが、気温も上がるので熱中症にならないように気をつけなければならない。

午前5時過ぎに起きだしてコンビニでサンドイッチとカンコーヒー、サラダを買って朝食にする。
ここのコンビニの駐車場はかなり広い。大型トラックが何台も停まっている。どうやらトラックの運転手もここで仮眠をとっているようだ。

コンビニの店内は大震災の復旧作業に向かう作業員たちで込み合っていた。
車のナンバープレートを見ると関東、関西からの車が多い。



午前6時20分。朝食を終えてさっそく歩き出す。
まだ朝の6時すぎだというのに道路は車で渋滞している。自衛隊の車両が何台も被災地へと向かっていく。





有名な「五大堂」に立ち寄ってみた。



松島の風景を見ると「ほんとうに津波があったんだろうか?」と思いたくなるほど穏やかなものだった。



だが観光船乗り場付近の様子を見ると桟橋は壊れているし、防波堤や遊歩道は浸水している。



松島や塩釜付近では陸地が地震のため70センチ以上も沈下したという。

国道45号線を仙台方面へと向かって歩くのだが歩道が無い区間があるのだ。
しかも道路の幅が狭いところなのに交通量が多い。車をよけるようにしながら歩く。



利府町へと入る。
右手に陸前浜田駅が見えたがこれは「仙石線」の駅だから写真だけ撮って立ち寄らないことにする。
この区間は仙石線と東北本線が平行して走っている。
仙石線の列車は石の森章太郎の漫画「仮面ライダー」「サイボーグ009」などのキャラクターが描かれている、マンガッタンライナーというのだそうだ。

石巻市に近づくと津波被害の惨状がそこかしこに見えてくる。

ここは真新しい歩道が整備されていた。



並行する鉄道線路は路盤も信号機なども新しいし新しかったので、地震のあとに作り直したものだろう。

歩道を歩きながらふと下を見ると海中に「カーブミラー」が立っていた。



以前はあの部分に道路があったのだろうがカーブミラーを残したままで新たに高い位置に歩道を作ったものらしい。

漁港だったところは無残な姿のままだった。復旧はまだ先のことになりそうだ。





海から道路を越えて船が流されてきている、ここも鉄道線路の路盤は新しく作り直したもののようだ。

宅配のトラックやボートが物置などと手付かずのまま放置されていた。



道路標識も津波で曲がったままだ。



いよいよ塩釜市内に入る。



国道45線を歩いているだけでは津波の被害があったとは想像できないほどだが、一歩海側へ向かうと倉庫も住宅も壊れていてる、しかも地盤沈下のため道路に海水が上がってきている。

これは鉄道の高架の橋脚だが高さ2メートルほどのところに津波の跡が残っていた。



どこを見ても津波の泥の跡が残っている。



仙石線の東塩釜駅の前にはボートがひっくり返ったまま放置されていた。

塩釜の中心部に入る。
本塩釜駅近くの鉄道線路橋の路盤は津波でえぐられている。

道路の向こう側の店舗の壁に残された傷から一階部分は完全に水没したのだということがわかる。
観光船乗り場も壊れたままだった。観光施設のマリンゲート塩釜は一部で営業を再開していたようだが観光客が戻ってくるには1年はかかるのではないだろうか。

海岸から500メートルほどの町中でもまだこのように壊れた車が置き去りにされている。



仙石線の本塩釜駅を遠くに見ながら「東北本線の塩釜駅」を目指して歩く。

カンカン照りの快晴なので気温がぐんぐんと上がってきた。
塩釜の中心部では電気が復旧していないの区域があり信号機が作動していない。
交差点では警察官が交通整理をしていた。

塩竈神社付近を通る。
このあたりは津波の影響どころか地震の影響も顕著には見られない。
道路も普段と同じような状態なので、ここでは液状化も起こらなかったようだ。
まさに「あの津波さえこなければ・・」と思ってしまう。



塩竈神社へも寄ってみたかったが暑さと、あの石段を登るのかと思いあっさりとあきらめる。



塩釜神社付近の裏道には小さな祠もあり木陰の涼しい風とともに疲れた身体を癒してくれる。



午前9時50分、やっと塩釜駅に到着。





駅前に自転車が溢れているのは都会の駅の証拠である。






塩釜駅 午前10時 - 国府多賀城駅 午前10時25分 約2.0Km

塩釜駅から国府多賀城駅までは住宅地のなかの道を歩くことになる。
家が重なり合い鉄道線路が見えなくなってしまう、とうとう道に迷ってしまった。
とおりすがりのおばあさんに道を尋ね、なんとか駅にたどり着く。



国府多賀城駅は住宅地に新しく建てられた駅という雰囲気でモダンな造りの駅舎だった。
駅に隣接して「東北歴史博物館」があるのだが見学はパスする。
そのうちゆっくり見に来よう。



国府多賀城駅 午前10時30分 - 陸前山王駅 午前10時50分 約1.6Km

国府多賀城駅を過ぎてすこし行くと瓦礫置き場があった、ものすごい量である。



どうやらここは市の公園だったところのようだが、いまでは震災の瓦礫が小山のように積み上げられている。



鉄道はいまだに一部区間が不通のままだ。線路がすっかり錆びついている。



新興住宅地と田んぼが交互に現れる道を歩く。

陸前山王駅 午前10時50分- 岩切駅 午前11時25分 約2.4Km

塩釜駅からこの岩切駅まで6キロほどしかないのだが松島駅から塩釜駅までの約11.6キロが長かったのと、暑さのせいでだんだん歩く力が無くなってきた。

気がつくとトボトボと歩いている。もう4時間半も休憩なしで歩き続けているのだから疲れるのは当然である。
私は物事を始めると休まずに一気にやってしまうという性格なのだ。
本を読むときでも読み始めると一気に最後まで読むというようなことをする。
そのため夜を徹して読み、気がついたら朝になっていた。などということが何度もある。

だがこれでは身体がもたない。岩切駅に着いたらひとやすみしよう。

やっと岩切駅に到着した。



この駅には改札の前に客が休めるようにベンチがあった。
これはとてもありがたい、さっそくひとやすみすることにした。
となりのコンビニでコーヒーとワッフルを買ってベンチで食べながらしばらく休む。

靴を脱いで足を投げ出して座っていると、隣にいた女性が白い目で見る。だが少しでも足の疲労を回復させたいのだ。

ここでは30分休憩をして、また歩き出す。

岩切駅 午前11時50分 -(昼食)- 東仙台駅 午後1時50分 4.7Km

岩切駅を出発してしばらく行くとまた道に迷ってしまった。
市街地だと線路が住宅やビルに隠れてしまうし、方向感覚を失いがちになるのだ。
なんども地図を見ながら現在位置を確認する。

屋根瓦の壊れた家、壁の剥がれ落ちた家はあちこちで見かけた。



途中で昼食タイム、味噌タンメン780円なり。ここで昼食休憩を40分。
歩いていてまたもや駅の方角が分からなくなり、人に聞きながらなんとか東仙台駅にたどりつく。



東仙台駅 午後2時 - 仙台駅 午後3時10分 約4.5Km

東仙台駅を出てから仙台駅に着くまでもけっこう大変だった。
仙台は過去に何度も訪れているので土地勘はあるつもりだったが、車で走るのと歩くのでは大違いだった。
仙台市内の詳細な地図とコンパスを持ってくるんだったと痛感した。



だが間違いなく仙台の中心に向かって歩いているのだ。
日差しはますます強くなってくるし道は分からないしだが、なんとか駅の方向を示す看板を発見。



おやここも地震で破壊されたのかと一瞬思ったが、これは道路拡張工事だった。
遠くに見える高層ビル「おお! 大都会だ」



午後3時15分 やっと仙台駅に到着。



駅の大時計にカメラを向けてシャッターを押す。



温度計を見るときょうの最高気温27.6度とある、6月としては暑いほうだろう。

これで今回は岩手県境から仙台駅までを歩きとおしたわけである。
仙台駅から東京駅までの距離は350キロほどだ、次回はこの区間を2-3回に分けて歩こうと思う。

さて電車で松島駅まで戻ってあとは自宅へ帰るだけだ。
だがその前に汗を流してさっぱりしたい。

国道45号線を北上すると道の駅に併設されている「ふたごの湯」の看板を発見。さっそく汗を流す。



疲れも消え、盛岡へ向かって車を走らせる。








19日目 松山町駅ー松島駅

2012年04月02日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅
19日目

2011年6月5日(日)晴れ

松山町駅 08:20 - 鹿島台駅 09:45 約5.2Km

昨夜は温泉でゆっくりできたことと駐車場が静かで良く眠れたこともありつい朝寝坊してしまった。

今日の出発駅である松山町駅へ行く途中でコンビニに寄り朝食にサンドイッチと缶コーヒーを買う。

鳴瀬川の川原に車を停めて朝食タイム。
と、見ると「氾濫注意」の看板がある。



この川もたびたびの氾濫に悩まされてきたのだろう。

松山町駅の近くに大震災のときの瓦礫置き場があった。
壊れた家具や冷蔵庫などの家電品が小山のようになっている。
被災地の沿岸から運ばれて来たものだろうがすごい量だ。

瓦礫置き場近くの空き地に車を置いて歩き出す。

歩きながらマンホールを見かけるとシャッターを切る。







夢中になって車道へ出て行って写真を撮ろうとしたりするので、夢中になると危ないなあと反省する。

「松島は直進」の看板が元気の元になる。
このあたりはかなりゆれが強かったようで屋根瓦の落ちた家、裏山が崩れかかっている場所などがあちこちにある。

道路のひび割れ、マンホールの浮き上がりもいちいち数えていられないほどある。





松山町と鹿島台町の町境までやってきた。



この道は歩道が無いので車が来たら出来るだけ道端に寄るようにしながら歩いた。
車を運転しているときは気にならなかったが車が高速で脇を通り過ぎるのは歩行者には恐怖である。

ここを歩いて通学している小中学生とか自転車通学の高校生もいるだろうから歩道を造ってほしいものだ。

大崎市民病院鹿島台分院の前の歩道橋を渡ろうと交差点を見ると、「●●家 葬儀」の案内看板が何枚もあった。
この葬儀案内の看板はかなりあったが、まさか震災の犠牲者のではないとは思うがわからない。
歩道橋を渡る前に東北本線の誇線橋を見ると、ものすごい段差が出来ていた。



道路のひび割れもすごいがこの段差は大きい、簡単な補修がしてあるが段差は30センチ以上はあるだろう。



歩道橋もこのような状態だった。揺れで歩道橋のタイルが剥がれてしまっているのだ。



3ヶ月たってもそのままということは、被害が大きくて補修に手が回らないということだろう。

鹿島台駅に到着。



駅舎の外見は昔ながらの小さな駅なのだが中はキオスクもあるし仙台圏内というこで自動改札になっている。
ここでは駅舎の写真を撮っただけで歩き続ける。

鹿島台駅 09:50 - 品井沼駅 11:25 約6.8Km

鹿島台駅前を離れてしばらく歩くと今は営業していないようだがオーディオ専門店があった。



わたしは若いころにはオーディオに凝ったものだから、思わず懐かしさもありシャッターを押した。
JBL、TANNOY、そういえばナカミチのヘッドフォンも買ったものだ。
マクセル録音テープの看板が泣かせる。今の若い人たちはカセットテープは知っていてもオープンリールテープなんて知らないだろうなあ。
5インチとか7インチとかリールに巻いてあってテープデッキにかけて音楽を楽しんだものだった。
スピーカーの自作もしたものだが、私がオーディオに情熱を燃やしていた時代から30年以上もたってしまったのだ。
と、郷愁に浸りながらも歩き続ける。

鹿島台の町を抜けて吉田川に向かう道はものすごく広い田んぼの中を通る、距離は5、6キロ程だろうか。
田んぼの向こうがかすんで見える。



この道はまっすぐなので快適に歩けそうに思えるが歩いてみると逆につらかった。



歩いても歩いても同じ景色というのはしんどいものだ。

吉田川に架かる品井沼大橋を渡ったところで堤防に座って一休みする。



品井沼駅の案内標識が見えてきた。

11時25分に品井沼駅に到着。



こじんまりとした田舎の駅の風情だ。
ここは無人駅ではなくおばさんが切符を売っている。



プラットホームも昔のまま、駅舎の前の水飲み場など昭和の駅の面影が色濃く残っている。


品井沼駅 11:30- 愛宕駅 13:05 約4.7Km

休憩を取らずに歩き出す。

ところがまた道を間違えてしまった。
東北本線に沿って道があるはずなのにどっちを見ても線路が見えないのだ。

なんと行きたい方向とは逆方向に歩いていたのだった。
国道346号線に出てしまってから道を間違えたことに気がついた。
引き返すわけにもいかず国道をひたすら歩く。

この国道は川を挟んで旧道があったのだが持っている道路地図ではそこの部分が良く分からない。
歩き終えたあとでこの旧道の方が木陰が多く快適に歩けると分かったのだった。
アップダウンのある国道をひたすら歩く、道を間違えたことで気分的にも疲れた。

おまけに道路地図に載っていたドライブインは閉店していて昼食はおあづけになってしまうし散々である。
ここには品井沼明治排水路のトンネルがある。





観光名所というほどのものでもないが整備されている。


やっと三陸自動車道の松島北インターチェンジまで来た。



地震のために電柱が大きく傾いている。

今日の目的駅である松島駅はもうすぐだ。
海が近いので津波の影響が見られる。
小船がひっくり返ったまま放置されていた。

愛宕駅に到着。



プラットホームだけの駅だがこのような駅を見ると「都会っぽいなあ」と思ってしまう。
駅そのものは見るべきこともないので写真だけ撮って歩き出す。

愛宕駅 13:10-(昼食)- 松島駅 14:40 約2.3Km

駅近くの松島中学校前の「津波避難場所」の案内板。
いつかは地震が来る、津波も来るとわかっていたとしても、まさかあのような大震災が襲うとは思っていなかった。



海が近くなるにしたがって川には転覆した漁船が目立ってきた。



そして災害派遣の自衛隊の車両も多くみかける。



日本全国から復旧のために駆けつけてくれているわけで、ありがたいことである。

仙台まで29キロの標識があった。今回の最終目的地がなんとか射程距離内に入ってきた。

お腹がすいているので昼食休憩。
ものすごく込み合っていて店員さんがあとから入ってきた客に「混んでいるので・・」断っていた。
わたしは注文したものが出てくるのに時間がかかるほうがゆっくり休めるので助る。



親子丼の昼食、「すきっ腹にまずいものなし」である。



もう松島駅は目の前だ。

モダンな松島駅舎。



さすがに駅構内もプラットホームも広くて日本有数の観光地の駅という雰囲気だ。

午後3時前と時間的には早いが今日はここまでにして松山町駅まで電車で戻る。



歩けば7時間ほどかかる距離を電車は20分ほどで走り抜け松山駅に到着。

そして車に乗って松島駅近くまで行く。
同じルートを徒歩、電車、車で都合3回も通るわけでムダといえばムダ。
松島市内のガソリンスタンドで満タンにする。1リットル150円とかなり高いのだが仕方が無い。

歩き終えたらお風呂に入りたい。さいわい松島は大きな温泉ホテルがたくさんある。
「新富亭」というホテルの日帰り温泉で身体を癒す。入浴料500円なり。



地震の影響で観光客はいないようだ、復興事業関係者だけが泊まっているようである。
松島は地震も津波の被害は少なかったほうだが震災後3ヶ月なので観光客はいないようだった。

コンビニの駐車場で今夜もインスタントラーメンと缶詰だけの夕食を食べて、明日に備えて早めに寝てしまう。





18日目 新田駅ー松山町駅

2012年03月30日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅
18日目

2011年6月4日(土)晴れ

新田駅 07:15 - 梅ヶ沢駅 08:15 約5.2Km

昨夜はウシガエルの鳴き声のせいでキャンプ地を移動してから、狭い車内で足を伸ばすこともままならないままなんとか眠った。

朝6時半に目が覚めた。

きのう花泉駅前のスーパーで買ったパンと缶コーヒーで朝食にする。
ペットボトルの水はあるが水は貴重なので顔は洗わず歯磨きだけした。
汗をかいたのに風呂に入らず寝たのでさぞかし臭うだろうなと思う。
車はそのまま同じところに置いたままにしてさっそく梅ヶ沢駅に向かって歩き出す。


新田駅近くの郵便局の屋根には大きな白鳥のモニュメントがあった。



さすがは伊豆沼の町である。

途中の踏み切りには東京から414Kmとある。



まだ朝が早いので空気がすがすがしい、農家が点在する道を歩く。

道路があちこちひび割れている、車で通るときはかなり注意が必要だ。
ときどき犬の散歩をさせている人とすれ違う。

山間の道を行くと民家がぽつぽつとあらわれてきた、そこから瀬峰駅への細い道があった。



典型的な無人駅だけど駅舎もプラットホームも掃除がされていてきれいである。
駅舎の中には「梅ヶ沢文庫」と書かれた本棚があってコミックやら文庫本が並んでいた。
ここのベンチで15分間休憩する。

客の姿のない静かな駅をあとに瀬峰駅に向かって歩き出す。

梅ヶ沢駅 08:30 - 瀬峰駅 09:25 約4.5Km

梅ヶ沢の町は歩いている人はいないし車もまったく通らなくて眠っているかのようだった。



緑が多いけど狭い道を歩いていくといつの間にか瀬峰に入ったようだ。
町中を歩いたり国道のような車の交通量の多い道を歩くのに比べると緑の多い細道を歩くほうが疲れがずっと少ないように感じる。

途中「五輪堂山公園」の脇を通る。



ちょうど「藤祭り」というのをやっていたが見物していると先へ進めなくなるので看板だけ撮影して歩く、瀬峰駅はもうすぐだ。



瀬峰駅は大きめの駅で三面のプラットホームがあり誇線橋もある、だがここも駅前は閑散としていた。

駅のベンチで10分間の休憩をしてから歩き出す。

瀬峰駅 09:35 - 田尻駅 11:20 約7.3Km

駅の裏手に「仙北鉄道瀬峰駅跡」の石碑があった、ここにも私鉄が走っていたのだ。



少し歩くと「仙北鉄道登米線跡」の石碑もあった。
その向かい側には天保の飢饉供養の石碑というのもある。



わたしの住む岩手の田舎町にも飢饉による餓死者供養の塔があるが、こんにちこのように豊かな水田が広がるこの地でも過去に凶作にみまわれたことがあったのだ。

まっすぐに伸びた線路脇の道を田んぼを見ながら歩く。



陽が高くなり暑さが厳しい。
雨に降られるのがイヤで天気予報を見ながら日程を決めたのだが予報よりも気温が高くなっているようだ。

やっと田尻の町中へ入る。

「おおっ! ローソンがある」と山道と田んぼの中を歩き続けたせいか、つい感激してしまう。コンビニがあるということは「大きな町」ということなのだ。



田尻駅前にはこんなオブジェ?があった。
ソフトクリームと団子の組合せかな?と思いつつ駅前まで行くと、観光案内板にあれは埴輪と加護坊山をモチーフにした「ストリート・ファニチャー」であると書いてあった。

「ストリート・ファニチャーか、うーむ直訳したら『道路家具』かな、なんだか意味がわからないな」と独り言。

ファニチャーという英語の意味を家具としてしか知らなかったので、どんな意味なのかと帰宅してから辞書をひいてみたが
1・家具 2・調度 3・什器 4・建具 などしか出てこない。
まあ、あれは「道路の調度品」であると解釈することにした。



田尻駅 11:30-(昼食)- 小牛田駅 14:15 約6.8Km


田尻駅では写真を撮っただけで歩き出す。
このまちは遮光式土偶が名物?らしくマンホールの蓋にも土偶が描かれている。





しばらく歩くと大沢街道踏切に差し掛かる、基点から400K733mとなっている。



東北本線の東京から盛岡までの営業キロは575.7Kmとなっているからなのでこれまで歩いた距離は約175Kmだ。
まだ全体の30パーセントしか歩いていないのだ。
一日平均20Km歩いたとしてあと20日はかかる計算だ。

「昔の人は歩いて江戸まで行ったのだからオレだって出来るはずだ」と思うのだが、それにしても遠い。



両側に広い田んぼの広がるよく整備された道を小牛田方面へ歩いていると、オート三輪車が走ってきたので急いでデジカメを取り出し撮影した。





わたしが子供のころはオート三輪車はどこでも見られたものだが、実際に走っているのを見るのは30年ぶりくらいだ。
錆び付いたり汚れたりしていないから大事に使われているのだろう。

小牛田橋を渡る。



出来て間もない橋のようできれいなままだった、ここにも土偶の絵が描かれている。

小牛田駅まで1.4Kmの案内が見えてきた。



駅が近くなると大手スーパーや回転寿司、ファミレスが並んでいる、「おお、大都会だあ」と思わず声が出る。
コンビニがあれば[大きな町]でファミレスがあれば[大都会]とはあまりにも単純な考えだが、田んぼと山だけ見ているとそう思ってしまうのだ。

午後1時を過ぎていたのでここで昼食休憩とする。



選んだのはわたしのお気に入りのレストラン「南部屋敷」。
この店の前のマンホールも地震の液状化でかなり浮き上がっていたが、さいわい店舗には被害がなかったようだ。
奮発して980円のソースかつ重セットを食べる。
カップ麺とパンだけで2日間歩き続けるのはしんどい、やはり栄養をつけねば。

食べ終わって店を出ると午後2時10分だった、そこから歩いて5分のところに小牛田駅はあった。



駅は大きく駅舎も立派だがここも駅前は人通りもなく寂しい。
通勤時間帯ではないので人が少なかったのだろうか。



小牛田駅 14:20 - 松山町駅 15:30 約4.5Km

小牛田駅を後にして松山町駅に向かって歩く。
ところが小牛田の町中で道に迷い西へ向うべきところを逆方向に歩いていることに気が付いた。
町中を歩くと民家やビルにさえぎられ線路が見えなくなり方向感覚を失ってしまったのだ。

これで30分ほどロスをしてしまった。
あちこちの屋根瓦が壊れている、ブロック塀の修理をしている民家も見かけた。
この辺は震度6強か震度7だったのではないだろうか。
鳴瀬川に架かる野田橋を渡る、ここも橋の端部分に大きな段差が出来ていた。
また広い田んぼの中の舗装されていない道を歩く、こういう道のほうが暑さも感じないようだ。



まもなく松山町に入り、今日の目的地である松山町駅に到着。




駅前の写真を撮ってからきっぷを買って電車で新田駅まで戻る。




新田駅に戻り車に乗り込み「加護坊温泉」へと車を走らせる。



歩いているときに「加護坊温泉さくらの湯」の看板を見かけて場所の確認もしておいたのだ。
歩けば駅から1時間はかかりそうなところだが車なら数分で着いてしまう。
ここは公園にもなっているようだが、地震のボランティアの人たちの基地になっていてテントがたくさん張ってあった。

温泉にも若者たちが多かった。
もうすぐ3月11日の地震から3ヶ月だというのに復旧は進んでいない、ボランティアの人たちの活躍には頭が下がる。

今夜の宿泊地はこの公園の駐車場に決めた。
広いし静かでとてもよいところだ。今夜も夕食はインスタントラーメンと缶詰1個。夕食を食べ終えたらあとは寝るだけだ。




17日目 花泉駅ー新田駅

2012年03月26日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅
東北沿線を歩く旅 2011年版

2011年6月3日 花泉駅ー新田駅

手術後の経過も順調で、これなら大丈夫と判断していよいよ岩手県境から仙台駅を目指して歩くことにした。

日程は天気予報を見ながら決めた。
歩く旅での雨ほど憂鬱なものは無い。
雨具はかさばるし重い、そして履きもが困るのだ。
長靴ではあまりにも歩きにくい、そうかといって普通のウォーキングシューズでは濡れて水が中に入ってしまう。
通り過ぎる車に水をはねられることも多い。

晴れた日を選んで歩き旅を続けられるというのは仕事を持たない年金生活者の特権なのだ。

だが年金額はあまりにも少なくてホテルや旅館に泊まりながら歩き旅が出来るほどの収入は無い。

そこで車でキャンプをして宿泊費を浮かすことにした。
軽自動車なので中で寝るのは狭いかもしれないと思い、テントとシュラフも持っていく。
食事もできるだけ切り詰める。カップ麺とインスタントラーメンも自宅から持っていくのだ。
「こりゃぁ~まるでホームレスみたいになってきたぞ」と独り言。

なにもそこまでしなくてもと考えたりするが、それも楽しみのひとつなのだと考えよう。

前回までは地図を持たずに歩いたので、道を間違えて遠回りをしてしまったことがあった。
わたしはGPSとかアイフォンとかポータブルナビなどは持っていない。
そんなハイテクグッズを買う資金がないのだ。そこで昔使っていた大判の道路地図を持ってきた。
道路地図帳はそのままでは大きすぎるし重いので、必要な部分だけ切り取って持ち歩くことにした。
地図には小さな道は載っていないけれど大まかな方向がわかればそれでよいと考えたのだ。



17日目

2011年6月3日(金) 晴れ


朝の6時に起きて朝食を終えて07:15に自宅を出る。

天気予報どおりで朝方は曇っていたが途中から晴れてきた。
盛岡市から一関市付近までは道路に大きな被害は見られなかったが、一関市を過ぎると3月11日の大震災による被害があちこちに見える。
注意しながら走らないと道路に大きな段差が出来ていたり陥没しているところがあったりで危険だ。

途中休憩なしで走り続けて今回の出発点である花泉駅に着いたのは10時45分だった。

ここでも駅前にある旅館や民家が地震のため屋根瓦が落ちたり壁が壊れたりしている。

花泉駅 11時-油島駅 11時50分 約4.4Km

花泉駅の脇にはスーパーマーケットがあるのでそこの駐車場に車を置くつもりだったが、駅の駐車場があり無料だったし駐車時間の制限も無さそうなのでそこへ駐車する。

歩き出したのは11時ちょうど。
すぐに東北本線の上油田踏切を渡る。
まだここは岩手県圏内だがそれでも地震ための液状化の跡があちこちに見られる。



道路にひび割れがあったりマンホールが浮き上がっていたりだ。
古い民家の壁が剥がれ落ちている。

50分歩いて油島駅に到着。

駅はその土地のランドマークなので道路に「●●駅 300M」などの標識があるのが一般的だが、ここのは木陰にさび付いた標識がひっそりと立っている。



車なら気づかずに通り過ぎてしまいそうだ。
駅舎の壁に時計があるのだがちゃんと正しい時刻を指していた。



無人駅でもこのようにしっかりと管理されているのは頼もしい限りである。

油島駅11時55分 - 石越駅 12時45分 約4.2Km

油島駅前のマンホールは20センチほども浮き上がっていた、3月11日の地震ではどれだけの揺れだったのだろうか。



油島駅は典型的な無人駅だった、腰の曲がったお婆さんが杖をつきながらプラットホームに階段を登ってきた。
足が悪いらしくて、たった10段の階段を登るのもつらそうだった。



帰りの列車なら向かいのプラットホームに降りて跨線橋を上り下りしなければならないハズだ、ひとけのないこの駅では手伝ってくれる人もいないだろう、他人事ながら気になる。

駅の写真を撮っただけでまた歩き出す。

しばらく歩くと満昌寺という寺の前を通り過ぎる。



この時期はどこへ行っても花が咲いているので、シャッターを押す回数が増える。

いつの間にか宮城県に入っていた。
足元を見ると「いしこし」のマンホールがあった、ここでは液状化が無かったようだ。



歩いていると地震の影響を大きく受けた地区とさほど受けなかった地区があるのがよく分かる。
地震での家屋の倒壊はなかったようだが屋根瓦が落ちたり壁が崩れたりしている家はあちこちにある。
農家の古い倉庫などで「これなら震度4で壊れてしまいそうだなあ」と思うような建物がなぜか壊れずに残っていたりする。

歩いているとサビついた線路があった。



昔の工場への引込み線だろうか、ちょっと不思議だ。
12時45分に石越駅に到着した。
ここまで約2時間を休憩なしで歩いたが、ここまでは疲れも感じないし足が痛くなるということもなく順調だ。
石越駅は新しい駅舎を建設中でプレハブの仮駅舎での営業中だった。



ここは無人駅ではなくちゃんと駅員さんがいるのだった。

駅前にはタクシーが2台客待ちをしていた。
駅前を見ると昔は旅館だったのではないかと思わせる大きな木造の建物があった。



ふと見ると真新しい「くりはら田園鉄道 石越駅跡」の石碑が建っている。



そこはプラットホームのあったところで、そこから先ほど見かけた錆びて途中で途切れているレールが続いているのだった。
くりはら田園鉄道は2007年まで営業していたらしい、地方の私鉄が消えていく中ではがんばった会社なのだろう。



駅前の通りは人影が無い。
黒い猫がゆっくりと道を横切っていった。


石越駅 12時50分-新田駅 15時25分 約8.9Km

石越駅を過ぎたころから足に痛みを感じるようになってきた。

内腿が痛いのだ、ちょっと休みたいと思い駅に程近いホームセンター「ホーマック」のところへ歩いた。

栗原市の標識がある。ちかくには「チャチャワールド」という施設もあるらしい。
ホーマックの店舗前にはベンチがあり自動販売機もあった。
日差しが強くなってきて水分の補給をしたいところだ。
ところがベンチに中年男性がひとり座っていてどうも挙動がおかしいのだ、ひとりなのに大声で叫んだりしている。
近づきたくない雰囲気だ。
ベンチに座ることも出来ずその場を離れることにした。



石越駅から今日の目的地である新田駅までは9キロほどもあり長い道のりだった。

しかも日差しが強い、晴れているのはうれしいが暑いのはしんどい。
歩く速度がだんだんと遅くなっていくのが自分でも分かる。
田んぼの中のあぜ道を歩く。



こんな道は道路地図には載っていないのだが帰宅してからGooglマップで検索したらしっかりとルートが表示されたのには驚いた。



歩きでの旅にはこのGooglマップをプリントして持ち歩くのがベストだとあらためて認識した。
道路地図には田んぼのあぜ道などは載っていないのだった。

途中道幅の狭い踏切を渡る、草に覆われているがかろうじて車の跡が残っている。



線路脇の舗装されていない道を歩く。
歩く旅の場合は国道や県道のように交通量の多い道路よりこのような道のほうが快適である。
若柳大橋を渡ると「水辺の町わかやなぎ」の看板が見える。



迫川の河川敷を歩く。



歩き終えてからGooglマップで見ると今回も遠回りをしてしまったようだ。



ここから国道398号線を歩いたのだが、歩道が無いのに車の量は多いしでヒヤヒヤさせられる。
そうしているうちに登米市の標識があらわれる。



裏側を見ると栗原市と書いてある。
「水辺の町わかやなぎ」はいったいどこからどこまでだったのだろうか。

ここもそうだがほとんどの橋に大きな段差が出来ている。
大きな段差は20センチほどもあったから地震直後は車が通ることが出来なかったのではないかと思う。

やっとJR新田駅の案内標識が見えてきた。



伊豆沼といえば渡り鳥などが豊富で自然観察によいところなのだが、すでに疲れ果てていてサンチュクアリセンターへ向かうだけの気力がない。



遠くから施設の外観だけ撮影する。
やっと新田駅に到着だ。午後3時25分だから今日は4時間半ほど歩いたことになる。





もう一駅歩いて距離を稼ぎたいところだが暑さのせいもあり体力が残っていない。

JRで花泉駅まで戻る。



4時間以上もかかった距離を電車は15分もかからず走り抜けてしまった。

車に乗り込みエアコンをめいっぱい効かせて、汗だらだらになりながら歩いた道を今度は車で走り抜ける。

思えばずいぶんと無駄なことをしているものだ。
一度歩いてから、そのコースを電車で出発地点まで戻り、さらに車で同じコースを通るのだ。

新田駅近くの伊豆沼の駐車場に車を停めて今夜はここで車中泊をすることにした。
汗で身体がべとべとだから風呂に入りたいが近くに温泉はないようだ。
夕食はインスタントラーメンと鯖の味噌煮の缶詰だけ。
昼食を食べずにせんべいをかじりながら歩いたからさすがに空腹だ。

車は軽自動車なので狭いのは覚悟をしていたが、後部座席がほとんどリクライニングしないタイプなので足を伸ばして寝られないのはつらい。
一泊だけなら我慢も出来るが数泊となると無理がある。
テントも持ってきたが設営と撤去が面倒で車で寝ることにする。

わびしい夕食が終わりシートを倒して横になる。
眠ろうと思ったらどこからか「ブォー、モー」と牛の声が聞こえてくる。
「うんっ? この回りに牧場は無かったはずだが?」
しかもなぜ夜中に牛が鳴きだすのだろうか?

なんと伊豆沼にはウシガエルが生息していたのだった。
わたしの田舎にはウシガエルは生息していないのでウシガエルの声を聞くのは初めてだ。

かなりうるさいということは知っていたが、たしかにこれは「騒音」である。
こんなのが家の周りに棲んでいたらやかましくて眠れないだろう。
あまりの騒音に耐え切れず別の駐車場に移動したのだった。