飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

やさしい現代詩

2009-01-25 | Weblog
 昨日、池袋のジュンク堂で行われた、前田英樹さんと吉田文憲さんのトークセッションを聴きに行ってきた。1時間ほどのトークと質疑応答だったが、満席になっていた。だいぶ前に、前田英樹さん一人にだけのトークも聴いたけれど、その時も満席だった。聴きに来る側は、何かを求めてやってくる。僕は詩の行方を照らす光を探しに出かけてきた気がする。

 あんまり噛み合わないトークセッションだったが、どちらも相手に遠慮しながら話していた。強いて言えば、「やさしい現代詩」という表題の本を手にした前田英樹さんが、現代詩は難解で言葉に中に自閉し外の世界を拒絶していると感じる旨、話をされたのが印象的だった。愛唱する詩の中には凄くいいものがある。たとえば十五夜お月さんとかということだった。
 大きなものを抱えているというのは、類的な記憶であり、円錐の倒立した底辺が無限に宇宙へ開かれているという位置からの発言だが、平面との接点で生じている「ことば」によって表現される、人の中にやってくるものがあるということは、共感というラインがあり得るということだと思う。何が揺さぶるのか。何に揺さぶられるのか。交点がどちらへ走るか。

 少し気になったのが、現代詩が構成的になってきて、外の世界を拒絶して成立する表現になっているとの指摘があった。そのとおりかもしれない。だが、ことばは究極的には他者の言語だ。円錐の倒立した底辺の隅々まで届く声で他者の言葉が語られる。発語する者も他者の声の前に立たされている。ことばは、陥穽のようなものであり、同時に突起のようなものであり、吸い込みつつ吐き出す器械のように思える。

 何を書いても共感は得られないのか?書き手の側も、何とかしたいと思っている。だが、書くことの衝動を失うまでして書こうとすることは自滅というものだろう。みんな悩んでいるに違いないが、届かないものは届かないのだとしか言いようがない。
 池袋からの帰り、電車の座席にもたれながら、なぜか激しくタバコが吸いたいと思った。久しぶりの感情なので、反芻しながら、この衝動が何なのか、この衝動は誰のものか、考えた。

まだまだ気になることはあるが、コーヒーが飲みたくなったので、またにする。次回は2月7日に内山さんの出版記念でジュンク堂池袋店に出かける。同人の白鳥さんも登場する。28日には東工大で浅田彰、東浩紀さんたちのセッションを聴く予定だし、忙しくて、・・・うれしい。





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