何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

いとおしい、と言う事

2015年06月08日 20時27分18秒 | Weblog
朝の散歩は欠かさずに出掛けているんだが、播州岡山ツアーの最初、古田さんのお家に一週間も泊めて頂いたとき最後の3日ほど、散歩から帰った後、庭の草抜きをさせてもらっていた。長期に泊めてもらって何かお返し出来ないかと思って始めたのだが、庭が綺麗になっていくのが、なんともいえない快感で最後の日まで続けさせてもらった。そのなんともいえない快感と綺麗になってゆく満足感が忘れられず、ツアーから帰った後、僕の住んでいるアパートの2号棟の東西の入り口の敷石風に化粧されたコンクリートの床の隙間から顔をのぞかせている草の芽を抜くのが散歩帰りの楽しみになっている。

病気を告げられた後、毎朝の散歩で見える景色すべてが美しくいとおしく感じれたのに、6ヶ月が過ぎ、そう思っていた事も、いつか当たり前になってしまっている。
当たり前な事なんて、何処にもないのに、僕たちは時間軸の中で、刻一刻と歳をとり、身の回りの自然の命も時間の経過と共にその姿を変えている。
同じことの繰り返しの人生などと言う人に沢山出会ってきたが、僕はその人達のただの言い訳だと思っている。この前にも書いたが、産まれてから死をむかえるその時まで一秒たりとも同じ瞬間は無いのです。大きく環境がかわったり心の持ちようが変化した時、景色が違って見えたり感情が高ぶったりして小さな出来事にも感動出来たりする。
僕の心の中でも、病気の告知をされた時、感性が高ぶり、見るものすべていとおしく見えた。
死を意識していたので、いとおしく見えるものすべてを記憶しておきたいとさえ思った。
しかしその強い思いは、間もなく消え去り病気に対する思いが鈍感になり。いとおしかった景色も当たり前になってしまっている。

僕はメッセンジャーだ、小さな変化を見逃して当たり前と言っているようでは人前に立って唄う資格はない。誰もが見逃してしまうようなわずかな変化に対応出来るよう感受性を研ぎ澄ましていなければならない。
草抜きの楽しみの意味を、その変化を意識しながら続けていくことが新しい歌を創作する原動力になる。

草の命をうばう事で、命ある言葉が産まれてくる。今生きている一秒一秒を大切にしなきゃと、この小さな命いとおしいという気持ち、ずっと持ち続けなきゃ。
写真はあじさい公園、色とりどりのあじさいが満開に花を咲かせていました。

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