知里幸恵というのは、明治末期から大正時代を生きたアイヌの女性で、
“アイヌ神謡集”というユーカラ集成を著したことで有名です。
登別のアイヌコタンに生まれ、語り部だった祖母に育てられ、
叔母の養女として三人で暮らしていました。
女学生の時、調査に来たアイヌ学者の金田一京介に見い出されて、
その日本語の堪能さとアイヌ的伝統の知識を買われ、
東京行きを勧められました。
もとから心臓が弱かったため、家族も両親も反対しましたが、
幸恵はそれを押しきって上京。
東京での生活がどんなものだったのか分かりませんが、
おそらく、金田一の助手と自らの著作で、
無理を重ねたのではないかと思われます。
若干十九歳、“アイヌ神謡集”を書き上げて、
心臓発作で亡くなりました。
***
幸恵は“アイヌ神謡集”の他に、“アイヌ民譚集”という民話集の
ノートを取っていました。
“アイヌ神謡集”の後、普通に考えれば、それは、
金田一の補足によって世に出たでしょう。
しかし、幸恵の死後、そのノートの行方は楊として知れず、
そればかりか、アイヌ神謡集の為のノートも自筆原稿も、なくなっていたのです。
その代わり、金田一京介による“アイヌ民譚集”という本が予定され、
郷土研究書に何度も予告が出されていたそうです。
(あいにく出版社が倒産し、立ち消えになりましたが)
アイヌ神謡集に関しても、
幸恵が東京の知人にタイプしてもらっていた原稿から本になったもので、
幸恵死後、目を通す人のいなくなったそのゲラの推敲を、
金田一がした形跡もないとのこと。
これは何を意味するのでしょうか?
金田一は、幸恵の書くものに手を入れ、
自らの著作としようとしていたのではないでしょうか?
或いは、最初からそのために
幸恵に目をつけたのでは?
***
知里の父親は、登別のアイヌコタンの酋長で、
当時のアイヌとしては進歩的、開明的な人。
家族はキリスト教徒になっていました。
父の日本名は高吉、
母はナミ。
日本人の女性でさえ“女に教育はいらない”という時代に、
幸恵は和人の女学校を受験し、それに落ちて
(彼女の学力から、アイヌ差別だったのでは?と言われました)
女子職業学校に通っていました。
幸恵はわたしと違って(笑)優秀で、級長に推薦されたりもしましたが、
和人の少女に譲っています。
アイヌの自分が出すぎるとどうなるか、体験から分かっていたのでしょう。
ONE PIECEというマンガの主要キャラクターの女の子の一人は、
ナミという名前ですし、
アーロン篇は、幸恵の人生を思わせます。
マンガの中でナミを苦しめる場面のアーロンには、
金田一のイメージが重なりますし、
あの話の悪い海賊たちは、
アイヌを苦しめた和人たちでしょう。
ONE PIECEが怖い、という方は、
逆にアイヌから略奪した和人ではないでしょうか?
深見のところには、よくいましたが。
ジャンプの漫画家さんの中には、
アイヌの縁の方が何人かいると思います。
ONE PIECEのナミとその家族を思うとき、
わたしの無意識は、アイヌコタンを思い出していたのかもしれません。
それは甘く、懐かしいものでした。
今でこそ、幸恵はアイヌの有名人ですが、
当時は裏切りものとも思われたのではないか、
と思います。
でも、幸恵には、アイヌの世界は、
もの足りなかったのでしょう。
***
わたしが深見のところにいた時のエリア本部長が、
おそらく金田一京介だと思います。
わたしを手に負えないワガママ女扱いしましたが、
和人がアイヌに対するときは、そんなものです。
和人であれば通ることも、アイヌでは通りません。
過労死しても、それが当然、
盗作されてもそれが当然、
異議を唱えればワガママ、
なぜなら自分が面倒を見てやったから。
今世もまた、わたしを自分の手柄にしてやろうと
考えていたのではないでしょうか?
また、金田一は幸恵の遺体を登別に返さず、
自らの手で遺骨にし、しかも東京で葬っています。
それが北海道に戻され改葬されたのは、戦後も昭和五十年になってから。
深読みすれば、これをおかしいと感じることもできます。
もし幸恵が、成果を金田一に渡さなかったためにいじめ殺されたのなら、
その相手に“礼儀ただしく”“節度を持って”“敬え”というのは、
無理な話でしょう。
彼は、わたしが嫉妬や玉串を惜しむ恨みのために、
生霊で彼らを苦しめていると言い続けていました。
それは(そんな感情持っていないのに)
わたし自身もそう認めなければ許さない、という勢いで、
洗脳されそうな位でした。
でも、とんでもない。
わたしの後ろの幸恵を通して、アイヌたちの憤りや苦しみが、
彼を襲っただけの話でしょう。
ですが深見によると、彼の前世は日蓮上人の一番弟子で、
アイヌを苦しめたなんてことは、全くない筈なのです!
***
体調不良のため、幸恵が登別へ帰ることを決め、自宅へ知らせた後で、
まもなく彼女は亡くなりました。
懐かしい故郷へ向かう船に乗る予定だったのは、九月二十五日。
わたしの誕生日です。
遠い東京へ出たまま帰らぬ人となった娘に、
家族やアイヌの仲間たちは、どんな思いを
抱いていたのでしょう?
“アイヌ神謡集”というユーカラ集成を著したことで有名です。
登別のアイヌコタンに生まれ、語り部だった祖母に育てられ、
叔母の養女として三人で暮らしていました。
女学生の時、調査に来たアイヌ学者の金田一京介に見い出されて、
その日本語の堪能さとアイヌ的伝統の知識を買われ、
東京行きを勧められました。
もとから心臓が弱かったため、家族も両親も反対しましたが、
幸恵はそれを押しきって上京。
東京での生活がどんなものだったのか分かりませんが、
おそらく、金田一の助手と自らの著作で、
無理を重ねたのではないかと思われます。
若干十九歳、“アイヌ神謡集”を書き上げて、
心臓発作で亡くなりました。
***
幸恵は“アイヌ神謡集”の他に、“アイヌ民譚集”という民話集の
ノートを取っていました。
“アイヌ神謡集”の後、普通に考えれば、それは、
金田一の補足によって世に出たでしょう。
しかし、幸恵の死後、そのノートの行方は楊として知れず、
そればかりか、アイヌ神謡集の為のノートも自筆原稿も、なくなっていたのです。
その代わり、金田一京介による“アイヌ民譚集”という本が予定され、
郷土研究書に何度も予告が出されていたそうです。
(あいにく出版社が倒産し、立ち消えになりましたが)
アイヌ神謡集に関しても、
幸恵が東京の知人にタイプしてもらっていた原稿から本になったもので、
幸恵死後、目を通す人のいなくなったそのゲラの推敲を、
金田一がした形跡もないとのこと。
これは何を意味するのでしょうか?
金田一は、幸恵の書くものに手を入れ、
自らの著作としようとしていたのではないでしょうか?
或いは、最初からそのために
幸恵に目をつけたのでは?
***
知里の父親は、登別のアイヌコタンの酋長で、
当時のアイヌとしては進歩的、開明的な人。
家族はキリスト教徒になっていました。
父の日本名は高吉、
母はナミ。
日本人の女性でさえ“女に教育はいらない”という時代に、
幸恵は和人の女学校を受験し、それに落ちて
(彼女の学力から、アイヌ差別だったのでは?と言われました)
女子職業学校に通っていました。
幸恵はわたしと違って(笑)優秀で、級長に推薦されたりもしましたが、
和人の少女に譲っています。
アイヌの自分が出すぎるとどうなるか、体験から分かっていたのでしょう。
ONE PIECEというマンガの主要キャラクターの女の子の一人は、
ナミという名前ですし、
アーロン篇は、幸恵の人生を思わせます。
マンガの中でナミを苦しめる場面のアーロンには、
金田一のイメージが重なりますし、
あの話の悪い海賊たちは、
アイヌを苦しめた和人たちでしょう。
ONE PIECEが怖い、という方は、
逆にアイヌから略奪した和人ではないでしょうか?
深見のところには、よくいましたが。
ジャンプの漫画家さんの中には、
アイヌの縁の方が何人かいると思います。
ONE PIECEのナミとその家族を思うとき、
わたしの無意識は、アイヌコタンを思い出していたのかもしれません。
それは甘く、懐かしいものでした。
今でこそ、幸恵はアイヌの有名人ですが、
当時は裏切りものとも思われたのではないか、
と思います。
でも、幸恵には、アイヌの世界は、
もの足りなかったのでしょう。
***
わたしが深見のところにいた時のエリア本部長が、
おそらく金田一京介だと思います。
わたしを手に負えないワガママ女扱いしましたが、
和人がアイヌに対するときは、そんなものです。
和人であれば通ることも、アイヌでは通りません。
過労死しても、それが当然、
盗作されてもそれが当然、
異議を唱えればワガママ、
なぜなら自分が面倒を見てやったから。
今世もまた、わたしを自分の手柄にしてやろうと
考えていたのではないでしょうか?
また、金田一は幸恵の遺体を登別に返さず、
自らの手で遺骨にし、しかも東京で葬っています。
それが北海道に戻され改葬されたのは、戦後も昭和五十年になってから。
深読みすれば、これをおかしいと感じることもできます。
もし幸恵が、成果を金田一に渡さなかったためにいじめ殺されたのなら、
その相手に“礼儀ただしく”“節度を持って”“敬え”というのは、
無理な話でしょう。
彼は、わたしが嫉妬や玉串を惜しむ恨みのために、
生霊で彼らを苦しめていると言い続けていました。
それは(そんな感情持っていないのに)
わたし自身もそう認めなければ許さない、という勢いで、
洗脳されそうな位でした。
でも、とんでもない。
わたしの後ろの幸恵を通して、アイヌたちの憤りや苦しみが、
彼を襲っただけの話でしょう。
ですが深見によると、彼の前世は日蓮上人の一番弟子で、
アイヌを苦しめたなんてことは、全くない筈なのです!
***
体調不良のため、幸恵が登別へ帰ることを決め、自宅へ知らせた後で、
まもなく彼女は亡くなりました。
懐かしい故郷へ向かう船に乗る予定だったのは、九月二十五日。
わたしの誕生日です。
遠い東京へ出たまま帰らぬ人となった娘に、
家族やアイヌの仲間たちは、どんな思いを
抱いていたのでしょう?