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「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(下)「NHKが捏造る歴史」─

2009年07月01日 | 市民のメディアリテラシーのために
(写真は、NHKが隠蔽した清仏戦争での台湾での戦闘地図
1.NHKに歴史を語る資格があるのだろうか?
 今までNHKの歴史捏造番組「ジャパン・デビュー第1回」の各種レトリックを取り上げてきた。長くなったので、このあたりでひと区切りとしたい。最後に、NHKが私達市民を恫喝する常套的手法である隠蔽と二項対立について見ておきたい。
 NHKの番組はほとんどが隠蔽でできあがっている。隠蔽とは、ある事実を示すことで残りの類例を見えなくさせるという詐術である。冒頭の以下の部分を取り上げてみよう。日本帝国が19世紀後半に置かれていた状況を説明している重要な部分だが、典型的な隠蔽が行われている。何が見えなくなっているか、ご存じだろうか?

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番組全内容文字起こし:1語り・濱中博久:
―― 日本が開港して間もない19世紀後半。西洋列強が注目していたのは、台湾でした。当時、イギリスやフランスなど列強は、アジアに狙いを定め、競い合って植民地を獲得していました。台湾は列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。
フランス外務省に残された資料(1895)です。
「(略)」
―― 列強の植民地奪い合いの最前線となった台湾。その台湾を領有したのはジャパン、日本でした。
日清戦争に勝利した日本は、台湾を獲得します。この台湾領有の背景には、列強のアジア進出に関する日本の危機感がありました。世界の植民地を研究しているパスカル・ブランシャールさんです。

フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「略」
――明治政府が外交上の指針としたのは、西洋列強の間で定められていた国際法、萬國公法です。ここには国のランクが示されています。世界の国々は、一等国、二等国、三等国に分かれている。一等国とは、イギリスやフランスなど、ヨーロッパの五大国である。三等国は他国の意のままになる。日本はこうした世界観を持つ西洋列強と向き合わねばなりませんでした。
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 こうした隠蔽の呪縛を解くには当時の世界史を振り返るのが早道だろう。
(1)隠蔽された欧米のアジア侵略
 基本的にNHKの出す資料は、それを出すことで他の不都合な説明を見えなくさせるためである。「台湾は列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。フランス外務省に残された資料(1895)です。」この部分があることによって、私達の視点は19世紀後半の世界状況という大きな視点から、いきなり「台湾」という点に拘束されてしまう。しかも、1850年から1900年という50年間の出来事がアッという間に1895年まで飛んでしまう。45年分の時間がそこで消去されたことになる。
 この期間と他の地区で何があったかは、前に述べた以下の部分「19世紀の戦争」をご覧になれば何が起こっていたか、よく分かる。
 今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(4中上)「人間動物園」という虚像─
 「一等国とは、イギリスやフランスなど、ヨーロッパの五大国である。三等国は他国の意のままになる。日本はこうした世界観を持つ西洋列強と向き合わねばなりませんでした。」とNHKはこうした現実的物理的状況を、「世界観」に置き換えて、隠蔽している。
 「一等国」の現実は、たとえば以下のような行動を国家意志として実行するという意味である。NHKが言うような世界観ではない。

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 欧米の植民地支配
5 愚民政策
 列強のアジア支配の例として、オランダの350年間にわたるインドネシア支配の特徴を、ASEANセンターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。
①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使って間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである。
②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。
③社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるよう仕向けた。
④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすら許されず、禁を犯せば反乱罪で処罰された。
⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。
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 以上のように「一等国」であるためには、植民地に一切の権利を認めない、徹底的な差別政策を実施する必要があった。NHKは「台湾」に焦点を向けさせ、1895年まで時間を飛ばし、最も植民地戦争が激化していた19世紀後半の「一等国」のこうした非人間的侵略と支配を隠蔽したのである。その目的は、以下の隠蔽から明らかになる。
 
(2)ブランシャールの僞証
 NHKはブランシャールの証言を出してもっともらしく19世紀後半の架空の状況をつくりだした。しかし、史実を少しでも知っていれば、このブランシャールなる人物が詐欺師に近い内容を語っていることに気が付くだろう。フランス人が、日本帝国の植民地支配についてもっともらしいことを言うなど、泥棒が泥棒の批評をするに等しい。教科書にすら載っている説明をNHKは完全に消去したのである。サブリミナルや証拠の好きなNHKがこうした事実を出したくなかった理由は明かであろう。

1840年 - アヘン戦争(- 1842年)
1842年 - 清国と英国の間で南京条約締結。
1857年 - アロー戦争(-1860年) 天津条約
1860年 - 清とイギリス・フランスが北京条約を締結。
1884年 - 清仏戦争(-1884年)
1894年 - 日清戦争( - 1895年)

 NHKの番組では、ブランシャールやフランスの資料を出して、日清戦争以前に台湾に侵出した欧米の勢力はなかったかのように装っているが、教科書にも載っている以上の動きの中に、台湾にすでに欧米の勢力が侵出していた事実が隠されている。
 欧米の台湾侵出の始まりは、1858年の天津条約からである。

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1858年の条約
1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。
 軍事費の賠償
 外交官の北京駐在
 外国人の中国での旅行と貿易の自由
 キリスト教布教の自由と宣教師の保護
 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、ロシアの仲介で1860年の北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島の英国への割譲が追加された。したがって1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。
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  履行は、1860年の北京条約からになるが、鎖国状態だった清朝は沿岸の諸港に加え、今まで実質的に植民者同士の闘争に任せ間接支配しかしておらず、まったく何の防禦もしていなかった台湾の台南(台湾南部)、淡水(台湾北部)を開港せざるをえなくなった。しかし、両港とも港が土砂の堆積で十分機能しなくなっていたため、南部は高雄(打狗)、北部は基隆(鶏籠)が新たに開港されている。欧米勢力の台湾侵略はこの時から始まる。

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台南 
商業経済面では1860年に台湾が対外的に開港したことで、茶葉、砂糖、樟脳の輸出が開始される。台南地区は砂糖の主要生産地であり、1890年代には台湾全土の製糖所1,275箇所の内1,057箇所を占めるようになっている。
清末に日本の台湾出兵を受け、清朝の側にも海防意識が高まり、台湾での軍事施設の建設が推進される。1888年、台湾巡撫の劉銘伝により台湾の重要性が強調されるなどした結果、台湾省が新設され、その下に台北、台湾、台南の3府が設置された。これが「台南」という地名の初見である。
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 「清末に日本の台湾出兵を受け」は誤りだが、残りは一応参考にできる記述で、「1860年に台湾が対外的に開港したことで、茶葉、砂糖、樟脳の輸出が開始される」は重要で、NHkが番組の後半で、いかにも日本帝国時代に無理矢理こうしたプランテーション農場を台湾に作らせたかのように放送しているよい反証になる。NHKは19世紀後半の台湾の歴史を出すと、日本帝国だけが台湾に過酷な植民地支配を行ったという捏造ができなくなるため、ブランシャールなどの偽証で、台湾が欧米による開港後に受けた経済侵略や軍事攻撃をすべて隠してしまったのである。

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高雄の歴史
台湾南部での砂糖貿易は19世紀初頭に隆盛を極めた。当時の貿易相手国は中国であり、毎年の砂糖の貿易額は50万メキシコ銀貨に及んだとされる。高雄開港以前にアメリカの羅賓内洋行(Robinet & Co.)が設立されると、1854年から1857年までに香港のアメリカ商会Gideon Nye & Co.と協力し台湾府より樟脳の専売権を獲得すると共に、高雄地区に進出し茶葉、砂糖、豆類の貿易を行っていた。
またCrosbie船長も1855年に高雄に進出、台湾府の支援を獲得して砂糖及び米の貿易特許を獲得した1855年7月28日の『サンフランシスコ・デイリー・ヘレイド(San Francisco Daily Herald)』によれば米と砂糖は100袋1ドル、阿片が1包み50セントの価格であった。
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 NHKの番組では、こうした貿易の主体もまるで台湾人だけであるかのようになっているが、それは完全な捏造で、以上のような各種の欧米人が経営する特権貿易会社「洋行」が独占していた。台湾の開港も、そうした輸出品を「洋行」が独占するためだったのである。また、こうした貿易を独占した台湾側の主体もあった。

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霧峰林家
霧峰林家の祖籍は漳州平和県五寨郷埔坪村で、1746年に台湾に渡ってきた。初代の林石は1786年に林爽文の反乱に参加している。林石の孫の林甲寅のときに阿罩霧(今の台中県霧峰郷)に移住し、家族経営を開始した。
林甲寅の孫の林文察は小刀会の反乱、太平天国の乱、戴潮春の乱の鎮圧に活躍し、総兵の地位を得て、霧峰林家は大きく発展した。
1884年、林文察の子の林朝棟が郷勇2千人を率いて清仏戦争で功績を建て、官職を得た。林朝棟はその後、施九緞の反乱の鎮圧にも活躍している。こうして霧峰林家は1890年代は樟脳販売の独占権を得るなどして、大きな利益を得ていた。しかし日清戦争後に台湾が日本領となると、林朝棟は台湾民主国に参加し、日本軍に敗北して福建省に逃れ、上海で客死した。
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 この一族は、いわば開拓貴族階級で、樟脳販売の特権的な地位にあり、1896年以後は抗日軍の主体にもなっている。在地の支配階級がその支配權を認めない新しい支配者「日本帝国」と戦ったのは当然すぎるぐらい当然なことである。NHKは「台日戦争」という捏造語で台湾の民衆が自発的に日本軍と戦ったかのようにストーリーを組み立てているが、実は、私兵を養っていたこうした在地の支配層が特権を否定され、蜂起したと言う面を否定することは出来ない。
 19世紀後半の台湾でどのように欧米勢力が貿易を独占していたかについて、ネットで見られる論文には以下のものがある。 
 藤波潔:台湾樟脳貿易を通してみる「近代」東アジア
 藤波さんの論文によれば、1860年の開港後、侵出した欧米人の「洋行」と台湾人の間で利権をめぐる争いが絶えず、日本統治時代も総督府と「洋行」との確執は耐えなかった。結局は、日英同盟の関係でイギリスとの取り引きに関して条約を結んだのである。 
 以下の樟脳の部分もNHKは完全に史実を隠蔽して、日本帝国だけが利益を独占したかのように架空のストーリーを捏造している。

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★キールンの風景
――樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。
後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになります。
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 NHKが放送した以下の内容は、藤波さんが明らかにしている史実と完全に乖離している。 
1)後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。
→1860年代から淡水に代わるイギリスの税関が置かれ、北部の貿易港として欧米の基地になっていた。日本統治時代から開発されたように書くのは、完全な史実の捏造である。
2)南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。総督府は、樟脳の販売を独占します。
→藤波さんの研究で分かるように、欧米とくにイギリス系資本といかに利益を分配するか日本帝国は台湾領有初期の交渉で明け暮れていた。台湾最初の鉄道はフランス軍を撃退した劉銘伝が基隆と台北の間に開設したもので軍事目的が大きかった。樟腦のために鉄道を建設したというのは、欧米の台湾侵略隠蔽のためと言える。
 台湾の樟腦生産に関する紹介は以下で。
 認識台灣的樟腦(下)
 
4.フランスによる台湾侵略
 日本統治時代の台湾について、中文版Wikipediaでも相当のページを費やし項目を立てて記述している。それが功罪を論じる場合の公正公平な態度であろう。以上見てきたように、NHkのように史実を隠蔽して単純化していく目標は、「悪(日本帝国)」対「善(その他の帝国主義)」というようなありえない二項対立を歴史の中に構築するためのものと言える。
 中文版:台灣日治時期
 最後に、ブランシャールが盗賊の如き人間である証拠を示して置こう。彼は、フランスが台湾を軍事侵略した歴史を一切語っていない。
 フランス(当時は第3共和制)は、1882年、ベトナムに侵攻し、清軍の義勇兵と死闘を繰り広げていた。1884年からは清仏戦争に発展し、フランス東洋艦隊は清艦隊を福州海戦で撃滅し、台湾占領を目指して、基隆を占領し、淡水河を封鎖した。
 日本語版Wikipedia:清仏戦争には、「8月にフランス艦隊が台湾を封鎖し」としか書かれていないが、台湾史からみればこんな書き方にはならない。日本人の歴史の視点が、自国中心主義や欧米史観(あるいは中国史観)の教科書中心主義から拔けだせず、まだ十分に多様化していない証拠と言える。台湾での記述を以下にあげる。林朝棟は樟脳独占で巨冨を得た先に述べた霧峰林家の当主である。

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 林朝棟
參與中法戰爭(中法戰爭和西仔反)
1884年中法戰爭開戰,法國的遠東艦隊在孤拔(Amédée Courbet)的指揮下前來攻打北台灣,以取得雞籠(今基隆市)的煤礦作為戰艦攻打中國沿岸的燃料,同時以台灣作為與清朝談判的有利籌碼。1884年9月18日法軍抵達雞籠外海,與清軍展開砲戰。10月3日法軍攻佔雞籠城,法軍於10月7日和10月8日進攻滬尾(今台北縣淡水鎮),但被漳州鎮總兵孫開華擊敗,於是清法兩軍在北台灣展開長期對峙。
十一月,鎮守臺中的臺澎兵備道劉璈奉劉銘傳之命,徵召擔任兵部郎中的林朝棟北上助戰,於是林朝棟率領500鄉勇與兩個月的軍糧前往雞隆,鎮守大武崙砲臺,之後清軍棄守,前往大水窟(今基隆市安樂區)鎮守的林朝棟協助前線作戰。1885年1月9日,法軍在大牛埔(今台北縣貢寮鄉吉林村桃源谷)勘查地形,和林朝棟軍展開衝突,最後被林朝棟擊退。1月25日,法軍以1900名兵力進攻清軍的暖暖防線,雙方爆發第一次月眉山戰役,林朝棟率領鄉勇支援,並於1月30日與督戰的福建福寧鎮曹志忠率軍夜襲,雙方血戰至隔天清晨才各自收兵,之後法軍多次以小股兵力襲擊,但皆被林朝棟擊退。3月4日,法軍派出1280名兵力再度攻打暖暖防線,雙方爆發第二次月眉山戰戰役。這次法軍截斷清軍戰線,並一舉攻佔月眉山頂,而以大砲轟炸林朝棟等營,最後清軍潰敗,僅有林朝棟率領鄉勇穩住陣腳,成功協助清軍主力撤退至基隆河南岸。而得勝的法軍因彈藥用完,且3月7日的大雨導致河水暴漲,因此未渡河攻入暖暖。
之後,兩軍持續對峙,直到1885年6月13日法軍撤離為止。5月12日,林朝棟因助戰有功,被獎敘道員進先補用。雖然獲得功勳不高,但此戰表現深得劉銘傳青睞,因此戰後全台30多營鄉勇被裁撤,獨林朝棟與張李成兩營被保留納入清軍[1],而林本人也在台灣建省後頗受重用。
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 翻訳は次回にするが、基隆、淡水などではフランス軍と清軍および台湾人義勇兵が地上戦で激闘し、当時、世界最強を誇ったフランス軍は何度も壊滅的な打撃を受けて敗退している。1895年のたった10年前のことであり、占領に来た日本帝国軍に台湾の市民が激しい武力抵抗を見せたのも、実は、このフランス軍との戦いで近代的軍隊を自力で撃破したという誇りと自ら開拓した土地を守りたいという台湾人の開拓者魂の結果ではなかったかと私は想像している。NHKのごとき、「漢民族の誇り」などではない。
 淡水の古蹟博物館では今年「中仏戦争」と淡水をテーマにした展覧会を行っている。
 清仏戦記
 こんなに多くが隠蔽され削除された歴史を歴史と呼び得るのだろうか?NHKなどにもう二度と近現代の歴史番組を作らせてはならない。


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