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「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(4中上)「人間動物園」という虚像─

2009年06月26日 | 市民のメディアリテラシーのために
(写真:大中華帝国主義を掲げる中国国粋主義ブログ
1.まだ保たれる市民の良識
 少し熱くなっているので、冷静に書けていない点があるのをお詫びしたいが、今までNHKが「歴史」に対して犯している犯罪を以下のように述べてきた。
 今ならまだ間に合う─第4の権力:メディアの正体を知ろう1─
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(1)
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(2)
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(3)
 今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(4上)「人間動物園」という虚像─
 今朝の『産経新聞』で、日本の市民の良識を知って安堵した。

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NHK集団提訴 「日台戦争」「人間動物園」負の側面、強調
2009年6月26日(金)08:05
 ■造語・異説、軸に構成
 集団訴訟が提起されたNHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー アジアの“一等国”」。NHKはこれまで放送内容には問題はなく、偏向もしていないと強調している。しかし、8千人を超える原告の数は今も増え続けており、第2次提訴も検討されている。一体、番組のどこの部分が問題とされているのか。
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 《日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増していきます。戦いは全土に広がり、のちに「日台戦争」と呼ばれる規模へと拡大していきます》
 台湾と日本の間に戦争の過去はない。出演した台湾人からも「先住民族の抵抗なら治安の悪化だ」「戦争は言い過ぎ。NHKの誤り」などと抗議があがっている。
 NHKは「日台戦争」という言葉について、日本の大学教授らが使っていると根拠を挙げた。しかし、「平成に入って用いられた造語。確かに『日台戦争』という言葉を一部の大学教授が使っているが原典は戦争の定義もしておらず、治安回復のための掃討戦にすぎない」(日本李登輝友の会関係者)という。
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 《イギリスやフランスは博覧会などで植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する「人間動物園」と呼ばれました》
 NHKは、1910年の日英博覧会のパイワン族の写真に、「人間動物園」の文字をかぶせた。フランスの学者、ブランシャール氏の共著「人間動物園」などを参考にしたという。
 しかし、当時イギリスやフランスでそうした言葉が使われていたのかどうかは明らかにしていない。また日英博覧会には、パイワン族だけでなく、日本の村やアイヌの村、力士も参加していた。
 これを今も栄誉としている村もあり、「日本政府がパイワン族の実演を『人間動物園』と呼んだことはない」(訴状)、「パイワン族に対する人権問題」(出演者)と訂正を求める声が出ている。
 番組放映直後から、「日本の台湾統治の悪い面ばかりを強調している」「明らかに制作者側の悪意が感じられる」などの声が続出。「後藤新平を弾圧差別の首謀者として描くなど総じて台湾統治の負の側面をことさらに強調しており、わが国を不当におとしめた番組」だという怒りも。
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 NHKは膨大な資料と関係者への取材を踏まえた番組で事実に基づき、問題はないとホームページで説明している。
 しかし、5月26日のNHK経営委員会では、小林英明委員(弁護士)が「日本と台湾の間に戦争がなければ、そのような内容を放送することは放送法に違反する」「学会で多数説でなく、少数説や異説なら、そう説明するのが正しい放送では?」と問う場面があった。
 日向英実放送総局長は「一説とは考えていない」と答え、多数説なのかは、次回へ持ち越されることになった。経営委員会内部では個別の番組の是非を論じるのを差し控える空気もあるようで、小林委員の意見に他委員が「そういう意見が経営とどう関係しているのですか」とくぎを刺す一幕もあったという。
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 台湾に移民している私のような日本人にとって、今回のNHKの行為は二重三重に赦しがたい。
(1)史実や史料を特定の学説だけを前提に取捨選択して、「膨大な資料を精査した」と言っている。まじめに研究している台日の研究者や大学院生たちの地道な努力を冐涜している。日本人として同朋がした行為を心から恥ずかしいと思う。
(2)報道の前提にしたのが史料を精査した結果として見出された帰納的結論ではなく、特定の学説による解釈(演繹的解釈)であることを隠蔽している。隠蔽である以上、内容はすべて虚偽である。
(3)特定学説の引用あるいはWikipesiaの説明の要約に過ぎないのに、引用だと述べず、出典を銘記していない。また、どこまでが史料でどこまでが解釈かも示されていない。私達研究者がこんなことをすれば完全な著作権法違反(もし引用された本人が提訴すれば)行為になることを、公共放送が「公平公正」な報道だと主張して公然と行っている。
 公然と人権蹂躙国家・中国の肩を持つ”公共放送”NHKは、いつから司法権や学界の権威を兼ねるようになったのだろうか?

2.史料を踏みにじるNHKの暴力
 今回は、NHKの二回目の回答の後半部分を考えてみよう。

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一から四の「人間動物園」について回答させていただきます。
日英博覧会についての日本政府の公式報告書「日英博覧会事務局事務報告」によれば、会場内でパイワンの人びとが暮らした場所は「台湾土人村」と名付けられています。この「台湾土人村」という表記は、上記報告書の会場地図一覧にあります。「蕃社に模して生蕃の住家を造り、蕃社の情況に擬し、生蕃此の所に生活し、時に相集まりて舞踏したり」と記されています。「台湾日日新報」には次のように記されています。「台湾村の配置は、『台湾生蕃監督事務所』を中心に、12の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前11時から午後10時20分まで、ずっと座っている。観客は6ペンスを払って、村を観覧することが出来る」。また、「東京朝日新聞」の「日英博たより」(派遣記者・長谷川如是閑)には「台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である」とあります。
 日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan‐British Exhibition)には「台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた」と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで「我々(イギリス)は、東洋の帝国が”植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める」と記しています。
 こうしたことから日英博覧会での「台湾土人村」は、当時イギリスやフランスで言われていた「人間動物園」として位置づけられていたと考えます。
 なお、番組では日本がこの展示を「人間動物園」と呼んだとはコメントしていません。イギリスやフランスを「真似た」と伝えています。
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 NHKは、さまざまな資料で根拠があると主張しているが、何も史実は立証できていない。なぜなら、当時の歴史的文脈が再現できていないため、「台湾土人村」など当時の表現が果たしてどんな意味なのか、まったく理解できないためである。当時の歴史的文脈を再現するのは、非常に困難で、根気の要る作業である。もし、本当にそれをしていたら、こんな史料を切り張りした答え方にはならない。
 私が知っている範囲で再現するとすれば、以下のような説明は最低限されていなければ、当時の文献の歴史的文脈は再現できない。
(1)日英博覧会が開かれた1910年前後の世界の状況
(2)20世紀最初のさまざまな博覧会開催の流れと出展内容、経営方法および観覧した一般市民また博覧会に参加した外国人などの反響
(3)日英博覧会関係の台湾側、日本側、イギリス側の一次資料の一覧と概要および各資料の共通点と相違点の比較(史料批判の提示)
 NHKが膨大な史料を精査したとのたまうなら、すくなくとも(3)の資料は公開できるはずだ。歴史を扱っている研究者なら基本中の基本で、これがなければ論の「客観性」などそもそも成り立たないからだ。
 私が今できる範囲で、(1)については簡単に今回紹介して見よう。

3.帝国主義時代の恐怖
 19世紀から20世紀半ばまで、世界は帝国主義の時代だった。近代兵器を使った戦争が世界中に広がり、戦死者や一般市民の犠牲者も急増した。

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 帝国主義
帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、もしくは同時に、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。
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 現代とはまったく政府も国民も価値観が違った時代であることを理解しないで、現代の発想で当時の出来事を解釈しても、それは歴史的文脈の再現にはならない。この当時では、戦争は当たり前であり、侵略も当然の行為だった。従って、戦争に伴う殺人、暴力、暴行、略奪、強姦なども一定の範囲で許容されていた。下級の兵士や一般市民が多数犠牲となるのも当たり前で、都市や農地が破壊され、被害を受けるのも当然のことだった。
 19世紀から20世紀前半の戦争をまとめた「百年の戦争」さんの資料を見ると、いかに多くの血が平然と流されていたかよく分かる。すべては第一次大戦と第二次世界大戦という人類未曽有の惨禍に繋がった縁と言える。しかし、戦争は結果であって、原因ではない。悲惨の原因は、帝国主義を肯定した当時の政府と市民を動かしていた社会的価値観と発想にあった。19世紀から20世紀前半の時代(もちろんそれ以前もだが)、戦争は正しく、また自然な行為であり、否定する人はほとんどなかったのである。非戦論を唱えた人はごく少数だった。今の中国のように、すべては”侵略される側が悪い”で済まされていた。他の選択肢はなく、選択の余地もまったくなかった。
 NHKがしているような、似非道学者的批判は、苛酷な時代を生きていたすべての先人逹の尊厳を踏みにじる行為である。

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 百年の戦争
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 日本が台湾を領有するにいたった日清戦争前後も、その後の日露戦争後も世界は絶え間ない帝国主義戦争の連続だった。

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1885-1894の戦争
1895-1904の戦争
1905-1914の戦争
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 イギリスの19世紀後半の大きな戦争は、1880年から始まったボーア戦争である。二度に渡る南アフリカでの戦いで、イギリス軍は大きな被害を受け、強制収容所で多数のボーア人や黒人を死に至らしめ、歴史に残る悪名を残した。

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ボーア戦争
 第二次ボーア戦争(Second Boer War)は、独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国およびトランスヴァール共和国と、大英帝国の間の戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収された。
 最後のボーア人が1902年5月に降伏し、同月、フェリーニヒング(Vereeniging)で条約が締結されたことによってボーア戦争は終戦を迎えた。これにより英国はトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合したが、英国軍が大損害によって疲弊したことや非人道的ともいえる収容所戦略、焦土作戦などによって国際的な批判をあびるなど、払った犠牲は小さくなかった。
また、英国はボーア戦争に大量の人員・物資を裂かざるを得ない状況になったことが影響し、義和団事件以降、満州に影響力を強めるロシア帝国に対抗する為、1902年1月日英同盟を締結した。
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 ボーア戦争は、日英同盟のイギリス側の理由の一つであり、日英博覧会の遠因にもなっている。NHKはまったく出していないが、アメリカも同じ時期、アメリカやアジアの各地を侵略し、インディアンを虐殺し、フィリピンで大虐殺を繰り返した。

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アメリカの正体(フィリピン.インデアン)
米比戦争
1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたフィリピン人たちは、エミリオ・アギナルドの下で1898年6月12日に独立を宣言したが、1898年12月に、アメリカ合衆国は米西戦争でフィリピンの独立を援助するためにスペインを破ったにも関わらず、パリ条約において2,000万ドルでフィリピンを購入し、自国の植民地にしようとした。1899年1月1日にアギナルドが初代大統領に就任した。彼は、その後マロロスで議会を組織したが、アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。
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 アメリカ白人の人種差別は激烈で、史上最悪とも言える。彼らの前ではアジア人は、害虫か害獣扱いだった。彼らは、アジア人を虐殺することに何の痛みも感じなかった。

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バランギカの虐殺
1898年にフィリピンはアメリカの植民地となった。各地で抵抗が続いたが、中でもサマールの人々は、最も果敢に、そして最後までアメリカへの抵抗を続けた。 
 1901年、サマールのバランギガで、約200名の男たちが女装して教会に集まり、鐘を合図に米軍キャンプを襲撃した。75名のアメリカ兵のうち、生き残ったのはわずか10名ほどだったという。この闘いは、フィリピンの歴史の中でも、外国勢力に対する最大の勝利をおさめた歴史的な闘いだったと言われている。
 しかし、直ちにアメリカによる報復が始まった。スミス将軍は、「捕虜はいらない。殺し尽くせ、焼き尽くせ。より多く殺し、焼き尽くすほどよいのだ。銃を持ち、刀とふるうことができる者は、10歳の少年でも全て殺せ」と命じ、手当たりしだいにサマールの人々を殺し、村を焼いた。まさに「死と破壊の饗宴」(コンスタンティーノ)だったと言われている。殺戮は9ケ月も続き、サマール全土を焼き尽くす火は、7年間に渡って燃え続け、5万人もの人々が殺されたと言う。
 当時、サマールは、この大虐殺により、「死に絶えた荒野」と呼ばれた。(『フィリピン・幸せの島サマール』P94)
 フィリピンの歴史を語るときに、バランギガは最も重要な地の一つと言われている。
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 先人が生きていた時代は、こうした時代だった。中国人、朝鮮人への「愛」を説いて、日本の私達下賎な市民に国土を譲り渡しての死を説く鳩山民主党の使徒「NHK」ならば、たとえば、親中派イラン大統領の私兵に虐殺されるイラン民衆の代わりに”この人を殺すならば私を殺してください”などとのたまうに違いないが、19世紀から20世紀の半ばまで、侵略されている側にとっては、そんなことは言っていられなかった。
 帝国主義勢力であることは、生存の必須条件であった。日本帝国が弱小なアジア国家として生き残りを掛けていた中で行っていた博覧会出展をいったい誰が非難できるのだろうか?

4.展示される商品と立ち向かうアイヌの精神
 当時の博覧会は、日本帝国のような新興弱小帝国主義国家にとっては、自身の進歩と経済的なメリットを得るために、不可欠の機会だったと考えられる。帝国主義的な誇示はもちろんだが、同時に基本的には今の国際見本市と同じ役割を持っていたと言える。
 前にも少し触れたが、日英博覧会の前にあった、NHKはおそらくアメリカを出せば20世紀に入る前後のファイリピンでの大虐殺やフィリピン人の大規模な「人間動物園」展示に触れざるを得なくなって、日本帝国だけが特別な悪事を行っていたという論が崩れてしまうために出さなかったと考えられる1904年のセントルイス博覧会も同時期の博覧会である。
 そこでの出品に関する研究がある。
 楠本町子:セントルイス万国博覧会における日本の展示品と評価
 楠本さんの研究によると、セントルイス博覧会での日本の出品に対する評価は非常に高く、開催後の2年間で貿易額は約30%増加し、米国への輸出では100%近い増加の見られる陶磁器、醤油などもあった。当時のアメリカでの評価として「戦争の技術と平和の追究の両面において、日本は世界の中で地位を得ようとしている。これがセントルイス博での日本の展示の真意である」という引用がされている。
 また、セントルイス博覧会に「展示」されたアイヌについて、宮武公夫さんは以下のように述べている。

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シカゴ・フィールド博物館所蔵のアイヌ工芸品 : 1904年セントルイス博覧会と二つのテクンペ
 多くの資料に見られるように、科学と文明の中心都市に移動したアイヌの人々は、8ヶ月間もの長期間滞在して生活し、さまざまな人々との多様な異文化接触を始めて経験した、当時としては極めてまれな存在だったといえるだろう。そして人類学展示のはらんでいた問題にもかかわらず、アイヌの人々は、日常のレベルでは一方的なまなざしの対象とされていたのではなく、また排除されていたのではなく、米国人、他の先住民、和人などの間を頻繁に横断し、そこではさまざまな交流を行っていた。(宮武2002,2006)それらのアイヌの人々は、強大な権力によって企画された人類学展示の中で展示された存在であったとともに、さまざまな日常的実践を行った人々でもあった。ここでの実践とは、人々が制度や慣習といった社会構造に規定されながらも、能動的に社会と関わって行う自覚的決断や反省的思考をともなった身体的あるいは言語的行為である。それは、ブルデューのハビトゥスのように既存の社会構造を再生産するだけでなく、時にはそれらを塗り替える可能性をもった、社会的世界と個人的経験のあいだで行われる創造的な営みを意味している。
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 ”「展示」され受け身で一方的に拘束される先住民”という、吉見俊哉以来のポストコロニアリズムの持つ恣意的基準で平然と歴史を断罪する鼻持ちならない傲慢さとは異なって、氏は、受け身だったはずの展示された先住民がそこから交流を行い主体性を回復しようとした事実を指摘し、高く評価している。先にも述べたように、当時の社会では”侵略はされるほうが悪い”のであり、弱者であることは悲惨な末路を意味した。しかし、そうした中でも必死で生きていたのが犠牲にされる一般市民や先住民であり、障害を持つ人を健常者が憐れむのが最大の差別になるのと同様、被抑圧者の立場に置かれた人々をただ受け身で憐れで何もできない存在と見るのは先人の生命の尊厳への最大の侮辱であろう。
 氏は、この論文の中で、博物館に収蔵された博覧会に参加したアイヌから買い取られたと考えられる「テクンペ(手甲)」のデザインの特異性から、参加したアイヌが会場で異文化と交流する中から新しいデザインを始めたのではないかと推測している。歴史を再現するというのは、氏のような地道な資料探索の努力があって初めて可能なことで、NHKのドキュメンタリーなるものは、その対極におかれる、歴史への冒頭としかいいようのないものである。
 次回、パイワン族の渡英に関する当時の資料で、セントルイス博覧会でのアイヌの人々と同じように、パイワン族の人々が日本帝国による被支配の状况下でも立派に主体性を持っていたこと、また日本帝国の台湾への視線はフィリピン大虐殺をおこなったアメリカとは異なっていたことを書いてみたい。
(つづく)


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