蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第一回」の詐術(4中下)「人間動物園」という虚像─

2009年07月06日 | 市民のメディアリテラシーのために
(写真:『台湾日日新報』に掲載された日英博参加のパイワン族一行と監督者)
1.「人間動物園」について
 NHKの番組「ジャパン・デビュー第1回」報道暴力についてさらに考えてみよう。今までの内容は以下。
 今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(4中中)「人間動物園」という虚像─
 今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(下)「NHKが捏造る歴史」─
 NHKはパイワン族の人達が栄誉とした「日英博覧会への参加」を「人間動物園への展示」と置き換えて、自分の利害のために侮辱し差別した。重大な人権侵害事件と言える。

2.日英博覧会へのパイワン族参加の報道
 前回、取り上げた『台湾日日新報』のパイワン族の日英博覧会の英国での参加状況に関する記事を以下にあげてみる。なお、原文の漢字は新漢字に改め、ふりがなは除き、改行、句読点を適宜補った。

(1)台湾出発
==========
 臺灣日日新報 明治四十三年二月十三日 二面
日英博行蕃人
 日英博覧会に赴くべき阿○庁下恒春蕃人二十四名(男二十二人女二人)は途中台中に一泊、昨日午後当地に著したるが、一行は万屋旅館に宿泊、明日基隆に赴き、直ちに讃岐丸に便乗、午後四時出帆内地に向け出発する筈なりと。
==========
(2)コロンボからのニュース
==========
臺灣日日新報 明治四十三年四月九日 二面
各地蕃状
 日英博覧会行き蕃人を引率せる石川警部補がコロンボ船よりの来信に依ば、航海船中種々の困難ありしも大なる失敗なく、一同無地航海を続けつゝあり。此の分ならば、蕃人の健康も気遣ひなからん、携行の竹の植木は日々見廻り、枯らさゝ゛るべく苦慮し居れり云々。
==========
(3)イギリス到着
==========
臺灣日日新報 明治四十三年四月二十一日 二面
渡英蕃人倫敦著
 日英博覧会参列の為め遣英途上にありし本島蕃人は、海上無事十四日倫敦に到着せし旨、福留技師より来電ありしを以つて、阿○庁長より蕃社へその旨通達達したりと。
==========

 以上、2月初めに台湾を出発し、日本本土のから船でインド洋経由でロンドンへ向かった一行は4月14日にロンドンに到着した。

(4)日英博の呼び物としての台湾先住民とアイヌ
==========
臺灣日日新報 明治四十三年五月二十六日 一面
日英博の生蕃とアイヌ
 今回の日英博覧会中最も異彩を放てるは、アイヌと台湾生蕃とであるさうだ。日本の北の端と南の端との人種であるから、これも日本人の中かと欧米人は驚きの目を目+争つて犇犇と詰め掛て来る。アイヌは和服を着け日本語を語つて温柔くしては居るが、男は例の髯ムチヤな熊か人かと云ふよりは、熊と人の混血児でゝもあり相な相貌で、女は又例の文身の墨黒々と見せて、妾が一番ハイカラだわと云つた様な得意気な姿をして居るが、航海の途中、印度洋上を通る時には暑さの為に生れて始めて苦しみをしたと云つて、悄然れ切つて居た。
 又隣には同じ日本の領土と云つて、端の端千里を離れた生蕃人が刀や槍や鉄砲に人を殺して其首を斬つた記念の頭髪を總の如く○鞘に著けて、身装はと云ふと、シャツ、ズボン下の儘なのや支那服の様な上衣を著けたのや、是も剽悍な容貌をして、男か女かの区別さへ一寸は分りかねる。之が倫敦は寒くてゝ堪らぬと云つて、終日ストーヴを取囲んで慄へて居るが、印度洋上を通つて来る時には、いゝ気候だとあつて、大元気で同乗の印度人等が箸や匙も持たず、手掴みで食事するのを見ては、野蛮な奴等だと云つて笑つて居た。只長航海に厭いて、頻りに上陸したがるのと、武器を身の廻りより寸時も離す事を拒むのとは、引率者を少からず苦しめたが、鉄砲の中には実弾を填めてあつて、何と云つても之を除かうとはしないので、危険此上もない。引率者等は彼等の隙を見て、印度洋上で悉皆発砲して了つて、漸く胸を撫で下した。
 一行が英国に上陸後、生蕃は馬車、アイヌは汽車で別々に倫敦に入つたが、アイヌが停車場に著くと、居合せた多くの英国婦人等は発車の時刻の迫つたのも忘れて、一行を取り囲んで見守つて居た。学校の生徒等も日本北部の「ヘークー、子チープ」として知つて居る位で、一般に珍らしがられて居る。
 又た生蕃に至つては勳もすると刀や槍を持ち出すので、係員も聊か当惑して居る。倫敦の或る新聞社員が写真に撮つたと云つては刀を抜き、食事が遅い、料理が口に合わぬと云つては槍を持ち出すと云ふ風で、係員が敬遠主義でハイゝと云つて居るので、益々得意になり、王様気取りで空威張りしているのには、手の附け様が無い。隨分厄介な出品物である。併し亞弗利加土人や亞米利加インデアンに関する知識を持つてゐる英国人等には、此の殺伐な生蕃人が如何に多大の興味を彼等に與へて居るかは、寧ろ想像以上であるからして、猫の様なアイヌと獅子の様な生蕃は今博覧会中での人気を茲に集めて居る。
==========

 記者の視線は当時の市民の未開人への偏見を隠していない書き方だが、気候が合わないなどの問題がありながら、5月頃には日英博覧会の会場でパイワン族とアイヌが逞しく生活していた様子が窺える。特に、パイワン族は、見聞をもとにして、インド人の手で食べる習慣を”下等”とみなしたり、武器も使ったコミュニケーションで様々な駆け引きを行っていた様子が窺える。「展示品」として一方的に主体性を拘束され、中国大陸の法輪功信者のように先住民が生体実験や観察の材料にされるなどの「人間動物園」的コンテクストは記事からは窺えない。ロンドンの人々も好奇心と博物学的興味で見ていたに過ぎない。
 テレビのない時代、博覧会は庶民にとって海外の風俗を直接見られる唯一の機会だったことを忘れてはないだろう。むしろ、人を動物扱するという「人間動物園」的コンテクストは、20世紀の各地の共産主義による強制収容所や中国における洗脳や生体解剖など人を特定の目的のために完全に道具として扱ってきた文脈にこそ相応しいと思える。

(5)会期の終わりに近づき記念撮影が行われた
==========
臺灣日日新報 明治四十三年九月二十一日 五面
日英博覧会に於ける本島の盛粧蕃人(写真)
==========

 当時の写真の取り方を十分に比較してみる必要はあるが、監督者の警部と巡査が中央に立ち、廻りをパイワン族の一行が取り巻く構図で写っており、両者の間に身分差や権力関係を意味する動きや姿勢は見られない。もし監督者がパイワン族を差別して、自分達とは違う「動物」などとして扱っていたら、グループで一緒に撮影したりは絶対にしなかったであろう。苦労を共にした一行として、このように撮影が行われていることは、「人間動物園」などという左翼的発想がこの時代には全くなかったことを逆に示しているだろう。

(6)パイワン族の会期中のエピソード1
==========
臺灣日日新報 明治四十三年九月二十九日 一面
日英博の生蕃館(上)田原生
▲衛生状態は佳良
 日英博の台湾生蕃館は、日本喫茶店の隣りで、一種の異彩を放つて居るが、男女計二十四名(男二十一名女三名)就れも阿糸+侯庁下のパイワン族、頭目はチユチユイ、カロワンとテポ、サロンガイの二人で、石川警部補、板倉巡査の監督の下に温順しくして居る。本年二月六日基隆発、四月十五日倫敦著、航海は長く気候は変るから、衛生状態はどうかと監督者も大いに痛心したが、船中でマラリア続出、其中の一人の如きは、重態にもならうとしたが、幸に快復して其後一人の病人もない。
 食物は粟と米と薩摩芋、酒類はウイスキーを夜間寝しなにやる。酒量は適宜だが、土曜と日曜には多く与へる。朝は六時起床、湯を使はせる。一時間遊戯をさせ、八時に朝飯、十二時半に午飯、午後七時に夜食、十時二十分銘々の小屋に帰り就寢である。近頃は健康の為めにもと、一日四回生蕃踊をやらして居るが、台湾に居る時と同様頑健で、寧ろ体量が増加したとは結構である。
▲もう台湾に帰りたい
 台湾を連れ出すとき、遠い英国へ行くのであるとは明示したさうだが、彼等も斯んなに遠いとは思はなかつたであらう。何しろ二月十八日基隆発、二十一日門司著、四月十五日倫敦著で、都合二箇月掛つたから、彼等も大いに退屈したのである。何程遠くても一週間位と思つて居たに余りだと、監督者に屡愚痴を飜したさうである。又た著英以来もう四箇月、ただ生蕃小屋の中に籠城して、山野を跋渉する事が出来ないから、彼等はもう飽きが来て、台湾の山が倫敦より善い、早く帰りたいと、度々監督官に迫る。監督官は真面目になつて、台湾の方へ電話を掛けたら、折角行つて居ながら、約束の半途で帰るとは、意気地のない奴等だ。どこ迄も満期まで居て、倫敦の土産を沢山持つて来いと云ふ、返事が来たから、まだゝ帰つては否けないと説諭して居るが、昨今は大に冷気になつて来たから、蕃公も之には閉口して居るさうである。
▲生蕃館内の有様
 生蕃館内の面積は千坪もあらう。一寸広い四辺壁を繞らし、処々に小高い異様の蕃屋が突つ立てて居る。「台湾生蕃監督事務所」を中心として、其の周囲に蕃屋が十二戸、蕃人自身の建てたのは二戸ある。二十四名は二人宛此中に配置され、各々盛装を凝らして、午前十一時から午後の十時二十分迄、定まつた小屋に居る。一物が見えては不都合とあつて、男は猿股を穿き、中々ハイかつてる。入場料は六片で(会場内の興行物は残らず六片である)、人種学に趣味を有つてる者や、又好竒心に駆られた者は続々見に来る。
 生蕃は此等の者に自分の写真を刷つた絵ハガキを売る。珍らしがつて買うて帰る者もある。入場者中厄介な者は、生蕃の生命より大切な鉄砲をひねくりまはすので、蕃公大に立腹する。又どういふ心でか、弾薬を持つて来て呉れた者がある。又弾丸になるべき鉛棒抔を与える。監督者がやつと説諭して取り上げたさうである。
▲蕃公の感じた事ども
 洋行の蕃公観が中中面白い。印度のコロンボで、黒奴が手づかみで食つて居るのを見て、我々よりも下等人間だと笑つたさうだ。著場して白聖市と称せらるる日英博の立派なのに吃驚した。又便所の水が紐を引くと、上からごぼゝと落ちるのに驚ろき、どうして水が始終上の方にあるかと不審した。又西洋婦人が小供を携帯し来る者の少ないのに疑惑を生じた。(此点は我々も同感。小児の携帯者稀にて女子の入場者七八分なり)。又西洋人が男女手を組んで歩行するのを見て、不都合だと憤慨した。
▲英語が上手 ハイカラ蕃公
 北海道のアイヌより生蕃は活発で、物覚が善い。いつの間にか英語を覚えて、サンキューとか、モーニング何んとかやる。日本語より英語が覚え易いとは、彼等の自慢である。追々ハイカラとなつて、跣足と裸体はないと感心して居る。チ゛ャラン、タチ゛ヤカルと云ふは、蕃婦中の美人であるが、是れは年齢十八歳で外国婦人の真似をしたがり、靴下を買つて呉れ、靴を買つて呉れと、監督者に迫るさうである。
==========

 病気、気候の変化などに苦労し、また、生活の単調さに苦しんだ様子が窺える。しかし、パイワン族の適応力は高く、ロンドンの人々を逆に観察し、見学者とのコミュニケーションで英語も身につけ始め、また、服装の影響も受け始めている。パイワン族の人々が、一方的に「展示」されているばかりではなく、当時の環境の中で主体性を発揮して環境に適応し、そこから学んでいた異文化間接触のよい証拠と言える。
 記事から窺えるように、こうしたパイワン族の主体性と活発さを無視して、”人間動物園で一方的に展示された”とNHKが主張するのは、逆に”何もできない無力な存在”とパイワン族を忌視し見下しているから起こってくる表現で、外国人への重大な差別、人権侵害である。

(7)パイワン族の会期中のエピソード2
==========
臺灣日日新報 明治四十三年九月三十日 一面
日英博の生蕃館(下)田原生
▲蕃公一代の光栄
 生蕃館は日英博余興中の呼物の一で、毎日多くの外国人に接して居るが、八月六日は、彼等一代の面目を施した日である。即ち英国皇帝皇后の両陛下が、ご来観、自働車二台に分乗せられ、生蕃館前にて停車、蕃婦三人を御前に召して、十分間程色々と御観察あり。又生蕃一同を撮影せしめられた。我台湾の警部さんでさへ、蕃社にくる時は、多くの護衛抔を連れて来るのに、英国皇帝ともあらう高貴の方が、護衛なしに、二三の侍従のみを随へさせられ、自働車で来られた質素には、彼等も驚いて、英国の天子様ではあるまい、似而非だらう、抔と語り合つたさうだ。
▲蕃公の恋物語
 男女二十四人であるから、万一、婬猥な事でもあつてはと、監督者は船中でも著英後も、大に監督を厳にして居たが、蕃婦中のルジガチ゛ク、ルガヨと云ふ二十四歳の婦人が、近ごろ不機嫌で、足が腫れ出したから医者に見せると、どうも妊娠らしいと云ふので、監督者が厳重に聞き質すと、豈に図らんや一場の恋物語があつて、蕃婦が嬌耻を含んで白状に及んだ。其の色男はチャピバイ、ブツアベリと云ふ、此の不加減な蕃婦に対し、人知れず懇ろに慰問したり、汚れ物を始末したりして、厚い情を掛けて居る蕃公で、著英以来もまだほの暗い暁方に、危ふい恋の桟道を辿つたことまで、明白となつたので、不義は蕃社の法度とあつて、厳重な処分に逢ふべきであるが、猶ほとくと調べ、又彼等男女の友人抔に聞いて見ると、此の二人は、去る二月中、蕃社で既に婚約成り、結婚式を挙ぐる筈であつたが、俄に渡英する事となり、結婚中止となりしも、婚約後一二回情を通じたので、忽ち姙娠し、もう九箇月となつたので、別段密通野合したのではない、立派なエンゲージである事が判然し、監督者も一安心した。
▲倫敦で芽出度結婚式
 さて婚約が出来て居たものにしても、未だ結婚式を挙げないのであるから、生蕃館で此の二人を同居させる訳には行かない。追々と身重になるに付き、親身に世話する者がなくては困る。又他の生蕃が結婚式をやつて馳走しろと迫るので、旁々九月三日午後四時、彌々蕃社式によつて結婚式を挙行する事とした。博覧会シンジケートよりは生豚と酒類とを寄附する筈で、式後各生蕃盛装して博覧会内を一周するさうである。此前代未聞の生蕃結婚式が大なる呼物となつて、目下倫敦市中の評判取々である。(尤もシンジケートから新聞に広告して居る)。当日は此の蕃公の結婚式を見んが為め、博覧会は定めて大入大繁昌であらう。僕は今一日から北英地方を旅行するので、此の盛式を見ることが出来ないのは、甚だ遺憾である。聞けば蕃婦の出産は本月二十日前後の筈で、倫敦で生まれた蕃公こそ果報者である。
▲見せ物とされたは不感服
 此の日英博には「小日本」と云ふ日本の各種職業を網羅した一がある。又「宇治村」と云ふ農業者から成り立つた一があつて、共に六片の入場料で見世物となつて居る。生蕃館もアイヌ館も同様一の見世物に過ぎない。キラルヒーなる博覧会代表者の欲深い猶太人が、此等のものを呼物として、博覧会を繁盛させる手段に供せられたので、我々は此の仕打に甚だ不感服であるが、今更後悔しても取り返へしの付く話でないから、泣寢入の外はない。尤も「愛蘭村」もあつて、愛蘭人も見せ物になつて居るではないかと、言ふ人もあるが、此の愛蘭村は個人の興行物に過ぎない寄席や芝居と性質を同じくして居る。苟くも堂々たる官吏が監督者となつて英国まで見世物にされて居るのは、余り善い心持はしない。是れも日英博覧会の性質を誤解した結果と思ふ。然し生蕃は一日二志(我一円)宛の日当で、旅費食料はシンジケート持、外に絵ハガキ抔の収入もあり、倫敦まで見物が出来るのであるから大きに仕合であらう。
==========

 イギリス王室の風習の違いに気が付いたり、姙娠したカップルの顛末を無事に解決したりと、いずれもパイワン族の人々が周囲のイギリス人、日本人とよく関わり積極的にコミュニケーションしていた証拠と言える。
 最後の「見せ物とされたは不感服」はパイワン族の批評か、あるいは、記者の「田原」の感想かここだけ、書き方が変わっている。しかし、言っているのは日本の余興の見せ物全体を「キラルヒーなる博覧会代表者の欲深い猶太人が此等のものを呼物として博覧会を繁盛させる手段に供せられたので我々は此の仕打に甚だ不感服である」という点であり、日本の余興全体が「見せ物」扱いされたことが納得できないと言っている。台湾館やアイヌ舘だけを特別視しているわけではない。

3.NHKに果たして知的能力があるのだろうか?
 以上が、パイワン族の一行がイギリスに滞在していた期間中に『台湾日日新報』に掲載された関係記事の全部である。この後、一行は日本へ帰る。
 以上の博覧会の部分についてNHKは、以下のように述べている。

==========
NHKの回答
 日英博覧会についての日本政府の公式報告書「日英博覧会事務局事務報告」によれば、会場内でパイワンの人びとが暮らした場所は「台湾土人村」と名付けられています。こ の「台湾土人村」という表記は、上記報告書の会場地図一覧にあります。「蕃社に模して生蕃の住家を造り、蕃社の情況に擬し、生蕃此の所に生活し、時に相集まりて舞踏したり」と記されています。「台湾日日新報」には次のように記されています。「台湾村の配置は、『台湾生蕃監督事務所』を中心に、12の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前11時から午後10時20分まで、ずっと座っている。観客は6ペンスを払って、村を観覧することが出来る」。また、「東京朝日新聞」の「日英博たより」(派遣記者・長谷川如是閑)には「台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である」とあります。
 日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan‐British Exhibition)には「台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた」と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで「我々(イギリス)は、東洋の帝国が”植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める」と記しています。
 こうしたことから日英博覧会での「台湾土人村」は、当時イギリスやフランスで言われていた「人間動物園」として位置づけられていたと考えます。
 なお、番組では日本がこの展示を「人間動物園」と呼んだとはコメントしていません。イギリスやフランスを「真似た」と伝えています。
 なお、「再質問状」に、「パイワンの人びとが本人の希望で居住場所を選択できた」という趣旨の記述がありますが、文献のどの言葉からそう判断されたのか、わかりかねます。
==========

 再掲したNHKの回答は、資料を貼り合わせて、なんとか日本帝国政府が意図的にパイワン族を「人間動物園」として差別したというストーリーを作ろうしているが、本家のナチス中国が、それしかできない「牽強付会」「断章取意」の典型である。

1)原文の書き換え
 NHKは以下のように、

==========
(NHK)「台湾日日新報」には次のように記されています。「台湾村の配置は、『台湾生蕃監督事務所』を中心に、12の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前11時から午後10時20分まで、ずっと座っている。観客は6ペンスを払って、村を観覧することが出来る」
==========

と言っているが、原文は

===========
(日日)「台湾生蕃監督事務所」を中心として其の周囲に蕃屋が十二戸、蕃人自身の建てたのは二戸ある二十四名は二人宛此中に配置され各々盛装を凝らして午前十一時から午後の十時二十分迄定まつた小屋に居る
===========

で、NHKは「盛装(立派な服装)」を勝手に「正裝(フォーマルな服装)」に書き換え、「定まつた小屋に居る」を「ずっと座っている」と書き換えて、原文を改竄している。もうナチス中国化して日本語も満足に読めなくなったのだろう。
 また、NHKは「人間動物園」の説明に都合の悪い、以下の部分を削除している。「曲学阿支(真実を曲げて支那に阿諛追従すること)」の典型と言える。

===========
(日日)一物が見えては不都合とあつて男は猿股を穿き中々ハイかつてる入場料は六片で(会場内の興行物は残らず六片である)人種学に趣味を有つてる者や又好竒心に駆られた者は続々見に来る生蕃は此等の者に自分の写真を刷つた絵ハガキを売る珍らしがつて買うて帰る者もある
===========

 NHKは「観客は6ペンスを払って、村を観覧することが出来る」と説明で言っているが、こんな文は原文に存在しない。
 書かれているのは、まず、「一物が見えては不都合とあつて男は猿股を穿き」で、日本国民として恥をかかないようにきちんと下着を付けたということである。そして、入場料は「会場内の興行物は残らず六片」で、パイワン族のパビリオンが日本などの他の余興と一緒に行われていたことが明らかにされている。パイワン族など未開民族だけを特別に隔離した施設ではなかったし、特別扱いをされた事実もまったくないのである。
 また、記事は、「人種学に趣味を有つてる者や又好竒心に駆られた者は続々見に来る生蕃は此等の者に自分の写真を刷つた絵ハガキを売る珍らしがつて買うて帰る者もある」と書いてあり、当時は普通だった博物学的な人類学(人種学)や見せ物として好奇心の対象だったことを示し、ハガキを売るなどでパイワン族の渡英者たちがイギリスの市民と普通に交流していたことも明示されている。
 「人間動物園」が、動物園のように、先住民を檻に入れるなどして身動きできないようにして人間を品物のように展示するという意味ならば、資料が意味するところは、明らかに、そうした状況はない。
 結局、NHKは一部のポストコロニアル論者やカルチュラル・スタディーズの見解に合わせて、史実を歪曲、添削、接合して、以上のような原文とはかけ離れた、”引用”を捏造って、番組を製作し、また回答を示したのである。
 「ジャパン・デビュー第1回」は、今回の史料の変造から分かるように、今あるポストコロニアル論者やカルチュラル・スタディーズのシナリオに史料を合わせて捏造られた「歴史ドキュメンタリー」なのである。

4.NHKにはもう未来がない
 腐敗墮落もここまで来るともう対処の方法はない。制作者の精神が根っこから腐り切っているのである。腐ったリンゴは切除する以外に方法はない。説得などもう不可能だろう。
 受信料闘争を徹底的に行うときがきたのではないか。  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。