蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(4中中)「人間動物園」という虚像─

2009年06月29日 | 市民のメディアリテラシーのために
前回まで
1.台湾先住民の呼ばれ方
 日英博覧会の様子を簡単に振り返ってみよう。
 台湾での記事を一次資料としてあげるとすれば、日本側の資料としては当時の台湾総督府が支援していた日本語新聞『台湾日日新報』が一番適切な資料の一つだろう。
 ただし、現代の感覚で本文だけを読んでいくと、勝手に自分の先入観を資料に入れてしまうことになる。誰もが文字さえ読めれば、100年前の資料を簡単に理解できると思っているが、それは歴史と台湾という異文化社会に対して最も冐涜的な態度をとっていることになる。
 NHKばかりでなくて、似権派はいつもそうした態度で資料に接しているらしい。都合のよいところだけを集めてくるのがいかにもお好きな人達なのだろう。まるで”どうせ台湾のようなところのことなど、俺たちのほうがよく知っているさ”と言わんばかりに。その意味では、中国と北鮮が典型的なように、まさに「真理の敵」、「学問の自由の敵」、「人権の敵」である。ネットで以下のブログを見付けた。
 15年戦争Wiki:台湾日日新報「日英博の生蕃館」
 この作者は、NHKの番組を擁護するために、「台湾日日新報」を一次資料としてあげている。そして、記事に出ている「蕃公」という表現だけを抜き出して、それが差別用語だとして読んでいる。
 確かに「蕃公」は、先住民を差別し、軽蔑する意味で記事で使われている蔑称と思われるが、「蕃」の字の使用例で、台湾日日新報のデータベースを検索してみると、39337例の記事があり、当時は「蕃(未開人)」の意味で、「生蕃」「熟蕃」「蕃地」「蕃人」「蕃民」「○○蕃社(先住民の村落)」「蕃界」などの意味で使っていて、差別意識を含んだ「未開の」という意味の普通名詞造語成分だった。
 こうした呼び名と考え方は、実は「番」という漢字を台湾の先住者に当てはめた清朝時代までの呼び方の継承であり、「番公(先住民の男)」「番婆(先住民の女)」の意味で、台湾の民話や地名に残っている。中国大陸からの移民が「漢」であるのに対する先住民の側が「番」である。中国が「東夷」「南蛮」「西戎」「北狄」と周囲の民族を蔑視した伝統を受け継いでいるとも言える。文明が未開を差別する問題は、実は、近代の帝国主義の問題ではなく、人類社会が帝国を形成するようになってから常につきまとってきた問題とも言える。
 NHKも似権派もこうした自分に都合の悪い部分は、全部隠蔽している。

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臺灣原住民
平埔族、高山族和族群定義
在1603年,明朝陳第的著作《東番記》中,將臺灣原住民稱為東番(字面上為「東方的未開化民族」);同一時期在臺灣殖民的荷蘭政府,則是依據先前在現今馬來西亞殖民的經驗,將臺灣原住民稱為Indias或Blacks[11]。
18世紀初,清朝政府統治臺灣之後,當時的人們依據強勢文化的適應和影響程度,大幅修改了對於臺灣原住民的定義,並且依據各族群對於清朝政府的服從程度,建立了一套系統定義了各原住民族群的關聯性。清朝文人使用生番這個名詞定義不服從清政府的原住民族群,而熟番則是定義著這些原住民族群服從清政府,並且履行繳付人頭稅的約定。根據乾隆皇帝時期和隨後時期的標準,熟番等同於被漢文化同化,並且服從於清朝政府生活在當下的原住民族群,但是保留這個較輕蔑的名詞,表示雖然此族群並非漢民族,但在文化程度上,比起非漢民族有很大的不同[10][12]。這些名詞反應著當時廣泛的思想:在採用儒家社會規範之下,任何族群皆可以被同化或順服[13]。
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 以上の記述から分かるように、現在では差別意識を隠蔽するためにぼかして書いているが、清朝時代から明らかに先住民を侮蔑して「番」の字を使っていた。よって、たとえば日本のWikipedia「理蕃政策」が書いている「理蕃政策(りばんせいさく)とは日本統治時代の台湾での当時蕃人・蕃族(野蛮人という意味)とよばれた台湾原住民に対する日本による強制的な開化政策を意味する」は完全に誤りで、清朝時代から「漢族」と「番族」を区別し、政策上も明確に差別していたのである。台湾での先住民差別を始めたのは、中国人である。日本統治時代は、「番」を「蕃」の字として両者の区別をそのまま継承したにすぎない。いまでも台湾の中国語の中に「蕃(番)」のつく語が沢山つかわれている(例:蕃茄:トマト、番薯:サツマイモ)のも、約400年の植民の歴史をそのまま言葉に残しているからである。
 現代の私達は、”差別用語は人権侵害だ”とか”人種差別は不当だ”という前提で生きており、それに反する行為を当然のように憎み、憤る。だから、「蕃」の字は日本統治時代に固有の差別用語のように見てしまうが、「番」と「蕃」は、時代の差だけで、実は全く同じ用法で台湾の先住民を指す蔑称としてずっと使われてきた。それは歴史上、いかなる民族でもいつも権力を持つ側は弱者を差別し、蔑称で呼んできたからで、NHKや似権派のように日本帝国時代だけ”日本人だけが台湾の原住民を差別していた”かのように特殊化するのは、明らかに明確な謀略的意図での歴史の完全な書き換えである。
 さらに前回書いたように、先進国=帝国主義だった時代、言い換えれば、技術と経済力の優劣が民族と国家の幸福を、言い換えればその社会の軍事と経済と人間の存続と独立を支配していた時代には、人権は支配階級(たとえば中国の江沢民や胡や民主党の鳩山や小沢)にのみあって、被支配者に対してはまったく視野に入らなかった。人権の範囲を拡大していったのは、戦争の被害の拡大と地道な市民の努力による。
 この時代は、アメリカは南北戦争での悲惨な内戦の経験から男子普通選挙を19世紀後半に始めているが、オーストラリアやニュージーランドなど人口の少ない植民地国家を除けば、20世紀に入ってもイギリス、フランスのような先進国ですら男子普通選挙(Universal suffrage
)すら、まだ行われていない時代であり、支配階級と被支配階級間の身分差別は当然のことだった。
 敷衍すれば、こうした差別社会の歪みの結果が、20世紀初頭の日露戦争や第一次世界大戦での、機関銃などで防禦された要塞を歩兵の突撃で攻撃する「肉挽き機」戦の悲惨に繋がっているとも言える。文字通り、支配階級は戦場の外にあり、命令を下すだけでよく、先進国の男性であれ植民地の男性であれ、徴兵され前線へ動員された者は、貴族も平民もみな機関銃の一連射で一個連隊が全滅してしまうような戦闘での消耗品であり、何の人間的権利も認められていなかった。戦争と生活が不可分だった時代を今の感覚で裁断するのは、想像力の貧困以外のなにものでもない。
 第一次大戦でヨーロッパの戦場で多くの若年男性が戦場に倒れるまで、先進国でも女性の政治的権利はまったく認められない時代であった。日本で社会的差別撤廃を求める被差別の解放運動も結成は1922年で、第一次世界大戦の悲惨を経てからのことである。
 差別が世界中で当たり前の1910年という時代に、NHKのように欧米を真似して日本帝国が先住民の差別をしていたかのように非難するのは、何か特別な意図によるということになる。いったい「時代」をまったく再現できない程度の能力しかない公共放送やドキュメンタリー担当者に高給を払い続けることに何の意味があるのだろうか?

2.日英博覧会に関する台湾日日新報の記事
 台湾日日新報のデータベースで、「日英博覧会 蕃人」および「洋行 蕃人」をキーワードに記事を検索すると、23面分の記事が検索できる。
 以下、史料として文字起こしした内容を掲載しておきたい。なお、原文は旧字体のため新字体に改めたが、仮名遣いはそのままとし、原文の振り仮名は省略した。

<1>先住民の生活を再現した人形の出品
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臺灣日日新報 1909(明治四十二)年十月十六日 五面
(1)蕃人模型の出品
愛国婦人会台湾支部にては来春三月英国にて開催さるべき日英博覧会へ本島蕃人の模型を出品する計画にて人形丈けは既に内地へ註文したれど之に著すべき衣服其他付属品の蒐集容易ならざるに苦心中の処 今般台北博物館に於いて右蕃人の上衣二枚腹掛二枚耳飾一對角釣一箇皮帽一箇腹(竹かんむり+匝)一箇合計九点を同会に対し博覧会開催中用立つる事に決したる由
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臺灣日日新報 1909(明治四十二)年十二月十七日 三面
(2)日英博出品蕃人及茶摘女模型
日英博覧会出品中に異彩をはなつべきは蕃人及び茶摘女の模型なるが之を陳列すべき場所は第二十三号館後方出口の左右両室とし左室は蕃人右室は茶摘とし館外は直に喫茶店を控へたる好位置にありといふ而して蕃人模型室のバツクは石川欽一郎氏の筆になる濁水渓上流の光景を原図とし英国にて之を拡大せしむるものを用いパノラマ式に山、原、野及び川の流れを見せ北蕃模型の武装したる男子は男の児を負ひたる女子を伴ひ狩猟に従事しをる状にて之に牝牡の鹿及子鹿を配したり又南蕃模型には川の流にて漁猟を為しをる態を男女及女児の動作にて見する趣向の由なるが右模型製作に就ては愛国婦人台北支部の頗る苦心したる処にて之が為には曩に(さきに)屈尺蕃人及恒春蕃人を内地に観光せしめ或は平素裸体なるが為め普通製作の人形師にては腹部の製作出来ざるを以つて特に西郷京都市長の斡旋を煩はし同市大木平蔵氏に命じ等身大にて全部木彫と為したれば骨格の如きも完全に出来し人類学上の参考とも成り得る積りなりと又配合動物にも適当のものなく苦慮しつゝありしに恰もよし中田蕃務警視所有の鹿三頭(牝牡及子)ありしを以て前記の如く之を配する事とし不日宜蘭より假剥製として廻送し来る筈なりと云ふ尚ほ右室の茶摘模型は同じく台湾茶園の真景をバツクとし平面には真の茶樹を植付け矢張りパノラマ様の装置と為し之れに若く美しき本島婦人四名を或は立たせ或は屈みて茶摘の態として配置する趣なるが此人形の製作は東京野沢組之を受負ひ例の人形師安本亀八に命じ目下製作中なりといへば愈よ彼地にて設備完成の暁には多衆の好尚を之に集中せしめ得る事となるべきか
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 1909年年末の記事では、北と南の先住民の生活を再現した模型と台湾の茶摘みの樣子を再現した模型を展示する計画で、準備が進められていた。

<2>先住民をロンドンへ派遣
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臺灣日日新報 1909(明治四十二)年十二月二十一日 三面
(3)日英博と本島蕃人
明年開催すべき日英博覧会へ本島蕃人の模型を出品するよしは既報を経しが尚ほ人類学的参考の為め本島蕃人を派遣せんとの議あり予て交渉中なりしが渡航希望者も略ぼ決定したる由にて蕃人の数は約十名なるが蕃語通訳一名之に伴ふ筈なりと云ふ
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 人形の展示ではなく、先住民をロンドンへ派遣する計画が伝えられた。

<3>先住民の出発
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臺灣日日新報 1910(明治四十三)年二月二日 二面
(4)日英博派出蕃人
曩に東都某氏の計画にて日英博覧会に引率派出すべき蕃人の数は約十名との事なりしが近頃三十名に増加せんとの希望なるも右蕃人は差当り恒春蕃人の外は派出せしめ難き事情ある由にて人数の如きも十九名位迄は兎も角も到底斯る多人数に要する諸準備は整ひ兼ね困難を感ずる由なるが一面台湾の紹介と世界蕃人に対する比較研究其他人類学等に関し有益なる趣向ならんと
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臺灣日日新報 1910(明治四十三)年二月六日 二面
(5)蕃人の渡英
日英博覧会余興請負人の雇入れたる恒春蕃人の渡英者は此程愈々男女小児を合せ二十四名と決定せしにより護衛兼通訳として警部補巡査各一名これを引率し本月二十五日基隆出帆の鎌倉丸にて出発する筈なるが当初の目的は蕃界より木材及び其他の材料を運搬して会場内に蕃屋を造り蕃地其儘の生活状態を示す計画なりしも斯くては多大の経費を要するにより材料は英国にて購入するとなりたる由
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 1910年になって、派遣される先住民が決定し、2月に護衛兼通訳の警部と巡査とともに24名が派遣された。

3.歴史の文脈をどう再現すればよいか?
 以上、データベースから分かる派遣までの内容を挙げてみた。読んでお分かりいただけるように、この資料だけでは、書かれていない部分がたくさんあることにお気づきだろう。
(1)なぜ人形から先住民の派遣に変わったのか?
(2)先住民の派遣を求めたのは誰か?
(3)こうした計画を進めている主体は何か?
(4)先住民を派遣した目的は何か?
 つまり、こうした史料は欠けた部分を他の史料で補わなければ、「先住民の派遣過程」と言うような約4ヶ月間の比較的単純なはずの経過でさえ、再現できない。NHKが回答で示しているような内容では、そうした事実経過を証明することは全く出来ない。今回のドキュメンタリーにはそうした経過がまったく欠けており、明らかに史実の再現ではなく、予め決められたシナリオどおりにストーリーを構成することが目的だったと考えられる。
 私が見た他の史料で、若干これを補足してみよう。
台湾総督府と派遣された先住民との関係を知るのに丁度好い資料が見つかった。日本統治時代の史料『台湾史料稿本』の中に日英博覧会に派遣されたパイワン族に関する記述が出ている。電子史料なので読めない部分があるが、その内容を以下に示す。○印は読めない部分である。原文は旧漢字カタカナ交じり文だが新字体に変え平仮名になおした。

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『台湾史料稿本』
是月 日英博覧会出場の「パイワン」蕃人還る
【理蕃誌稿】第三編
六月○四十四年也阿○○下恒春○山両支庁管内高士佛社蕃人男婦二十四名英国より還る佐久間総督之を官邸に招見し半歳韉旅の労を慰め物を恵みて帰社せしむ。人あり客遊中の○を問ふ。一蕃人対て曰く倫敦市街の宏(書き入れ)壮○麗なる商工業品の精巧なる機械(消し)器機関の雄大なる人馬物資の往来○るが如くなる金銀財宝の○○○るが如くなる台北に幾十百倍なるを知らず蕃務本署庁舍の矮○○の如くなるに拘らず之を新築せざるは何ぞやと。而して此蕃人等は渡英中得る所の余賃を積むにと少きも二百圓を下らず多きは五百圓に上り且二三の者は簡単なる英語を操つり得るに至れり之を引率したるは休職警部補石川○象同巡査板倉重太郎(二人ともパイワン語に通ず)にして更に之が指揮監督の任に○りたるは当時倫敦に在りし殖産局技師福留善之助なり
(附記)パイワン族蕃人の博覧会出場に関し大島民政長官と日英博覧会余興部シンジケート代表者との間に成立したる契約書及大島民政長官より○○博覧会事務官○福留技師に寄せたる○○は○の如し
契約書
明治四十三年二月二十一日大島久満次を甲とし日英博覧会余興部シンジケート氏(消し)を乙とし台湾生蕃人を日英博覧会に出場せしむる件に付き契約を締結すること左の如し
一.甲は日英博覧会開会中台湾生蕃人二十四名を右博覧会に出場せしむること
二.乙は右出場者に要する総ての費用を負担すること
  但し本項の中生蕃人引率者の月額手当は甲に於て定むる金額を乙に於て支給す
  但し其費用は台湾蕃社出発の日より帰社の日迄を計算すること
三.甲は生蕃人をして日英博覧会会場に在て乙の指定する建物又は場所に生蕃人の生活状態を作らしめ公衆に示すことを約す
  但舞踏及○○行列の催しある場合は其伍列に参加することは生蕃人の任意とす
四.生蕃人の生活資料は生蕃人引率者の要求に随ひ生蕃人に適当する飮食物其他の物品を乙に於て供給すること
五.乙は生蕃人及其引率者に対し台湾蕃地乃至英国倫敦間往復の旅費を支給し其汽車汽船は引率者は一等及二等とし生蕃人は三等の待遇を為すこと
六.乙は生蕃引率者の日当宿泊料車馬賃等は日本政府に於て規定せる官吏旅費規則に依り支給すること
七.乙は生蕃人台湾蕃社出発の日より帰社の日まで毎日日本貨幤金壹圓の日当を支給すること
八.生蕃人病気に罹り又は負傷したるとき或は死亡したるときは乙に於て其費用を以って相当の手当を為すべきこと
九.乙は生蕃人が日英博覧会会期中と雖も台湾に帰社を希望するときは何時にても乙の費用を以て台湾蕃社に帰社せしむること
十.乙は生蕃人の引率者が死傷したるときは原因の如何に拘はらず日本政府に於て規定せる官吏の身分に相当する総ての支給をなすべきこと
  生蕃人引率者は日本政府判任官及判任官待遇者の資格を有するものとす
十一。以上列記の外引率者に於て生蕃人の為に必要已むを得ざるものと認めたる酒煙草等給与上の要求は之に応じ其費用は乙に於て負担すること
十二。乙が生蕃人及其引率者に対し支給する日当宿泊料は一○○分前○に於て前渡支払を為すこと
十三。以上各項の生蕃人及其引率者に対する契約に○○し○○を生じたるときは乙に於其賠償の責に任ずること
此契約は正本二通を作り雙方署名捺印の上各自(二)一の誤か通宛を所持するものとす
明治四十三年二月二十一日 大島久満次
日英博覧会余興部シンジケート
右代表者Julian Hick,

今回日英博覧会余興部シンジケートよりの要求に応じ恒春ハーヲン生蕃人二十四名を博覧会に出場せしむること、なり警部補石川○象、巡査板倉重太郎(休職の上)を引率者として二月二十一日門司を出帆の郵船加賀丸に搭乗渡英せしめたり該シンジケートは是等計画の○実を証する為倫敦の帝国大使館に五万磅を○託して保証の実を表したるものにして其信用の程度は陸奥博覧会事務官より同事務局に○○したる別紙○一○書状写に於て明かなる故に本官は該シンジケート代表者たるジュリアン・ヒツクと別紙の通契約を締結し且つ其保護に関しては別紙第二号の通陸奥事務官に○頼状を発し置きたるは貴官は右の趣旨に依り同事務官と打合せ生蕃人引率者を指揮監督して十分保護の任務を盡す様致度右及通○候也
大島民政長官

在倫敦
福留技師殿
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 以上の資料は日本統治時代の文献として残っている『台湾史料稿本』の中にあったパイワン族の帰台と、派遣に関する契約書の内容である。
 資料の中で読めない字もあるが大意をつかむのには十分で、帰国したパイワン族の人々を佐久間総督が招待し、労をねぎらったという記事で、パイワン族の人々がロンドンの発展した様子を語り、二三人は簡単な英語が話せるようになっていたという。蓄えた手当は200円から500円あったという。
 佐久間左馬太総督は第5代総督で、先住民の討伐で悪名が高いが、この時期は帰台したパイワン族の人々をねぎらっている。
 大島民政長官は大島久満次で、1908.05.30 - 1910.07.27の在任期間というが、日英博覧会への先住民派遣の契約書は長官とシンジケートの間で結ばれている。また、派遣に関わる費用はすべて博覧会側が出すように定めており、”日本帝国の威信をかけて先住民を「人間動物園」に出品した”というようなNHKの考え方は、民政長官の契約書には見られない。むしろ、細かく待遇を決め、先住民に関して飮食から酒煙草まで、また病気や怪我についても派遣期間の一切を保証するように求めており、 差別が当り前で、日本軍と先住民との武力衝突が絶えなかった1910年頃としては意外な感じすらする。
 差別があるのは、通訳の警部補たちが一等、二等なのにパイワン族の人々を三等にしているところであろうが、一日一円の手当は当時の一般的会社員や小学校教員の給料相当で決して不当に低いものではない。また出し物への参加は任意であり、帰国したいときは博覧会側の負担で帰ることができるように決めており、また、現地での担当官をはっきり決めて、順調な滞在が出来るように準備していたことも分かる。
 「人間動物園」という20世紀終わりの研究者の”業績商品”に当てはまるような、差別的契約内容を私はこの資料から読み取ることはできないし、陳列品として送り出したというような、自分がよければすべてよしという冷たい現代中国的資本主義に代表される、人間を物として搾取する意識も読み取ることは出来ない。 
 差別が当然だった当時、こうした明確な契約を結んで博覧会にアイヌや台湾先住民を含めた日本からのアトラクション人材を送っていたことは、むしろ、アジア人として欧米人からの差別にさらされる危険から同胞を守ろうとしていたように見える。
 いずれにしてもNHKのような、いい加減に適当に資料を切り張りしたような、やる気のない大学生の演習発表に等しいドキュメンタリーなるものに、いったいいくら予算を注ぎ込んだのか、開示を求める時期が来たのは確かなことである。
(つづく) 


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