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「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

日本の”中国系”マスコミが「派遣切り」を問題にする本当の理由(中の下-1)

2009年02月11日 | 市民のメディアリテラシーのために
今まで3回に渡り”中国系”マスコミの反「派遣切り」キャンペーンの背景を考察してきた。
 日本の”中国系”マスコミが「派遣切り」を問題にする本当の理由(中の中
 今回は、少し横路に逸れるが、ある先住者が「外来者」を迎える意味について日本列島の歴史を見ていきたい。

0.渡来人を迎えて
 天皇を中心にした律令国家確立までの日本列島は、大陸と半島からの多数の渡来人を迎えた日本列島共同体の闘争と模索の時代だったのではないだろうか。
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渡来人 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、狭義には、中国大陸から南西諸島・朝鮮半島などを経由して、古代日本に渡来帰化した人々を指す。渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満州~朝鮮半島など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている(最近の遺伝子研究ではおおむねにおいて渡来人は北東アジア起源が有力である[1][2][3]。)。(水稲)稲作に始まり、後には仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。
 古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと思われる。考古学的調査により、彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からという説も)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。その後古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来した。なおこの時代の日本は、一方的に渡来人を受け入れその文化に染まっていったわけではない。「漢書」には倭人が季節ごとに楽浪郡に使者を遣わしてくることや、倭国王帥升が金印のちょうど50年後の107年に入貢の際に160人もの人(生口、奴隷のこと)を送ったことが後漢書の記録に残っている。[4] また卑弥呼や台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも積極的に人を送っていたことが見受けられる。
 大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的であり、他に鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、高向玄理、新漢人旻、鑑真などがいる。
 また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、百済系氏族の長的な存在となった。
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 以上のような教科書的記述からは、”ただ大陸や半島から人が来て、こちらからも行った”ぐらいのイメージしかわかないが、こんな記述になってしまうのは実は奈良朝以前の記憶と歴史を私達が実は完全に喪失しているためだ。同時に、この時代の戦乱や混乱の記憶も私達は失ってしまったのだ。ギリシア神話や中国の春秋戦国の記述と比べれば違いは歴然としている。
 この時代を伺わせる資料のひとつは、弥生時代と呼んでいる時期に当然現れた多数の「要塞集落」の存在である。ひとつは「環濠集落」もうひつは「高地性集落」と呼ばれている。縄文時代には見られない特徴を持っている。
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環濠集落
古代
 今のところ、弥生時代でもっとも古い環濠集落は、北部九州の玄界灘沿岸部に位置する福岡県粕屋町の江辻遺跡で弥生時代早期のものが見つかっている。
 弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、濃尾平野以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したと見られる。そのころ、福岡市の板付遺跡と大阪府高槻市の安満(あま)遺跡、京都府中郡峰山町扇谷遺跡などに環濠集落が現れる。板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。また、北部九州や近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。後期では北部北九州では佐賀県吉野ヶ里遺跡や大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡などの大規模環濠集落が上げられる。
 低地に作られ、通常は堀の外側に掘った土を盛った土塁がある(対照的に、中世の土塁は堀の内側にある)。ムラの内部と外部を区別する環濠を形成する目的として、外敵や獣などから集落を守る防御機能を備えることが考えられている。堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成しているものもある。水稲農耕に必要な首長権力や、共同体の結束強化、内部と外部での階級差を反映しているとも考えられている。また、水堀の場合には排水の機能をもたせることができる。
 愛知県の朝日遺跡は、弥生時代中期の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で土塁を築き、その上に柵をめぐらし、その外側に三重の柵をめぐらし、この三重の柵に逆茂木を外側に向けて打ち込んでいる。
 倭国における王権形成期とされる弥生時代中期には防御的性格を強め、高地性集落とともに、王権形成過程の軍事的動向を反映していると考えられている。王権形成が進み古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体される。
発掘調査によって、土塁の上にはピット(柱穴)が検出されることがあり、柵列があったと思われる。
 高地性集落
 高地性集落(こうちせいしゅうらく)とは、日本の弥生時代中・後期に、平地より数十メートルも高い山頂部や斜面に形成された集落である。
 弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、弥生時代中期~後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、「逃げ城」とか「狼煙台」とかの軍事的目的の集落であったとか、その性格をめぐって様々な議論が提起されている。
 まず、高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
 以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。
 集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。さらに、弥生中期~後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方。他にも神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある。一方環濠集落はほぼ弥生時代全期間を通じて存在した。これは、近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、北部九州とヤマトというような遠く離れた地域間の戦いに備えたものでないことが考えられる。
 20世紀末期ごろからは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ている。
 なお、主な高地性集落遺跡には、香川県三豊郡詫間町の紫雲出山(しうでやま)遺跡、同県高松市岩清尾山(いわせおやま)古墳群(標高232m)、瀬戸内海に浮かぶ男島(たんが)島の山頂にある兵庫県飾磨郡家島町大山神社遺跡(標高220m)、同県芦屋市会下山(えげのやま)遺跡、岡山市貝殻山遺跡(標高284m)などがある。
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 日本の歴史学は悪弊としてムラから国へという進歩史観=「左翼史観」に毒されてきた。この記述にも”ムラの土地争い水争い”というような、のどかな記述が見られる。江戸時代の日本列島の中だけで考えた「ムラ」ならば、こんな説明も可能だろうが、全くの誤りだろう。
 実は類例をさがせばこうした「要塞集落」は世界中に見出すことができる。縄文から弥生時代と同時期の、民族の争いが絶えなかったヨーロッパの村落遺跡は、どれもこうした「環濠」と「柵」あるいは高地性の砦「丘砦」を伴っている。その代表のひとつケルト文化を代表すると言われるハルシュタット文化は紀元前1200年ごろから紀元前500年ごろまで続いたが、やはり集落を要塞化していた。
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ハルシュタット文化
定住地の大部分は丘の頂上に位置し要塞化されていた。そこには青銅や銀、金などの細工職人らの作業場があることもしばしばであった。典型的なものにダニューブ川上流にある、大きな9基の墳丘に囲まれたドイツのホイネブルクや、ふもとの村ヴィクスで豪華な副葬品が発掘されたフランス東部のシャティヨン=シュール=セーヌ近郊のラソワ山、スロヴァキアのモルピールなどがある。
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 もしヨーロッパの「丘砦」など村落を守る施設の類例が同族あるいは異民族間での戦争と防禦のためだったならば、少し時代は下るが日本の「要塞集落」に関しても議論の余地はないはずである。
 簡単に言えば、古代日本の「要塞集落」の存在は、弥生時代から古墳時代にかけ多数の外来者が日本列島に来たため日本列島が戦乱の巷に化したことを示しており、大陸と半島から渡来者は縄文期からの先住者にそれまで列島にはなかった「戦争」という大災厄をもたらしたということである。当然、ギリシア神話や中国の春秋戦国の歴史に記されていると同じ殺戮、暴行、強姦、略奪などがこの日本列島でも約1000年に渡り起こっていたことを意味する。王族にはトロイの説話のように異民族間の恋や出会いも当然あったろうが、ギリシア神話や春秋戦国の庶民の記述にはほとんどそうしたロマンの香りはないように、日本列島でも大陸と半島の異民族の列島への侵出は侵略された列島の先住民にとっては悲劇以外の何ものでもなかったと思われる。
 今までの歴史の示すところ、かつての大陸と半島からの大量の「移民」移住の結果は列島の記憶喪失をもたらすほどの深い傷跡を残した。おそらくその傷はたとえば「天皇制と被差別」の問題として今も残っているのではないだろうか。
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の起源論争
近世起源説批判
近年、中世に被差別民が集住した河原などの「無縁」の地と、近世において被差別民の居住地と定められた地、すなわち近現代の被差別に直接つながる土地とが互いに重なる事例が多く報告され、中世の被差別民と近世の被差別民の歴史的連続性が注目されるようになってきた。かつての近世起源説に見られた、近世権力が無から突然被差別身分を作り出したかのような論説は近年は姿を消しつつある。ただし、歴史教科書においては未だにこの論調が多く、日本人の間に誤解を与える要因となっている。
この説が同和教育において「正しい認識」とされたのは、後述の古代起源説や異人種起源説に基づいて差別を当然のものとする風潮の根絶に対抗できるものとされたこと、社会問題や社会の不正義を遅れた発展段階に起因するとしがちな発展段階史観が戦後の歴史学研究や歴史教育を席捲したこと、豊臣秀吉や徳川家康といった歴史的人物個人の責任とすることで誰も傷つかずに差別現象のみを糾弾できるとされたことが大きかった。しかしその一方で、民衆の間で差別を再生産していく構造の歴史的な形成過程の解明に対しては無力でもあった。
各県の教育委員会の指導する同和教育においては、1990年代半ばになってようやく、近世政治起源説が学術的に否定されつつあることが意識され始めたが、当初は教職員の研修などの場において「歴史学的には近世政治起源説は事実ではないと否定されてきているが、同和教育においては近世政治起源説こそが正しい認識であるとの立場であるから、これで同和教育を行うように」という指導がまかり通るなどのちぐはぐな対応であった。この見解は「同和教育」をデマゴギーであると認めた点で、同和問題のみならず公教育一般についての再考すら迫らす大きな意味を含んでいた。
1990年代末になってようやく近世政治起源説で同和教育を行うことの問題を論じたリーフレットなどが県教育委員会によって編纂され、県立高校や市町村教育委員会に配布されるに至っている。
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 私達に理解できない何かが、こうした問題には隠蔽されているということである。さらに、奈良朝以前まで遡れば、歴史は混沌としている。
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古田武彦の説
『魏志倭人伝』にあるのは邪馬台国とせず、「邪馬壹国」と原文通りに読む。所在地を博多湾岸とする。
金印を賜った倭奴国から一貫して、倭国・日本国は、九州王朝であるとする。白村江の戦いによって急激に衰退し、分家である近畿天皇家に吸収されたとみる。
九州王朝説をはじめ、列島各地に王権が存在したとする「多元的古代史観」を提唱。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文の分析などから、関東にも大王がいたとする。
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 古田氏の説は学界からは黙殺されているが、考古学的事実から見た奈良朝以前での日本列島での戦乱を説明しやすい点でこの時代、大陸と半島との関係で何が列島に引き起こされたかを暗示している。

1.現在の「渡来人」の問題
 さて、本題に戻るとしよう。今、大陸(60万以上)と半島(100万+30万)から多数の渡来人が日本列島に押し寄せている状況は、列島の記憶(残念ながら完全に失われているが)から言えば、弥生時代から古墳時代にかけての状況と同じである。しかし、前回と異なる状況がある。それは、今回列島にもたらされる結果はマイナス面だけだということだ。
 弥生時代は大陸と半島は一定の先進文化を持っていたし、先進技術の窓口だった。何より仏教をもたらしてくれた。しかし、現在は立場はまったく逆である。私達は大陸と半島から何を学べばよいのか?いったい将来につながる何を彼等が持っているというのか?模造品や粗悪品、おぞましい”中国式共産主義”や”チュチュ思想”が一体何になるのか。答えは90%以上「何もない」だろう。
 犯罪統計は、前回挙げたが、問題はそれだけではない。
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Doronpaの独り言さん:凶悪支那人李志裁判傍聴記
 おそらく今日の裁判は歴史に残る異例づくめの裁判だったと思います。
 被告人の李は平成19年12月に起こした「傷害事件」で現在公判中の人物です。李は電車内で騒いでいたところを現場にたまたま居合わせた警察官に注意され、激昂した末に御茶ノ水駅のホームから今まさに電車が来ている線路上にこの警察官を突き落としました。警察官は頭がい骨骨折、腰骨粉砕、右足切断の瀕死の重傷を負いましたが、かろうじて一命は取り留めました。この裁判は最初からおかしいことだらけで、電車が来ているのを確認した上で線路上に突き落とすなど、誰がどう見ても「殺人未遂」であるはずの事件が「傷害罪」(15年以下の懲役または50万円以下の罰金)として争われることになりました。
 私がこの裁判の傍聴を初めて行ったのは弁護側が情状酌量を求めた前回からで、その時驚いたのは「保釈金500万円」で李が保釈されていたことでした。そもそも、李は論告求刑の最後の陳述の際にも自分の罪を認めておらず、人一人の生死に係わる重大な事件において事実関係を争っている中で保釈請求が検察の同意、裁判所の許可で行われるという信じがたいことが行われたのです。特に李は支那人であり、その気になればいつでも国外逃亡が可能な身でもあることを検察官や判事はどう考えていたのでしょうか?
 そして、早々と保釈されていたということは、このあとの判決で執行猶予付きの判決が下される可能性がきわめて高くなっているということでもあるのです。これだけの凶悪犯罪を起こし、数々の証拠があるにもかかわらず最後まで自分の罪を認めなかった李に執行猶予付きの「温情判決」など絶対に許せるものではありません。
Youtube:李志裁判
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 現在の闘争を、日本側は「合法」のみを武器に戦っている。中国側は「暴力」「非合法」「法律」「謀略」「日本人シンパ」「親中国派」などあらゆる手段を用いて、”列島占領と主権獲得”を目指している。私達の直接の祖先である縄文人が石の鏃で、金属器で攻め込んでくる大陸人と半島人に立ち向かったのと同じ状況が生まれ始めている。この裁判のように、私達はすでに自分の故郷で正義を守る術を失おうとしている。
 こうした司法の混乱を起こし「渡来人優遇」をしている元凶のひとつは、明らかに「公明党」とその母体「創価学会」である。
 現職の警察官が、創価学会=公明党を批判していた女性市議の転落死は「自殺」ではなく「他殺」だったと内部告発
 「司法支配の密約」をスッパ抜く 国会の歴代法務委員長は公明党が独占
 そして、こうした勢力は、明らかに大陸と半島からの勢力と結びついている。
 外国人参政権 韓国・民団が公明党、民主党を全面的に支援
 国籍法改悪の主体とも重なっている。
 国籍法改正問題 民主・公明大賛成 しょうがない、自民を応援するか? 頑張れよ
 以上から、個々別々に見える問題の震源地はかなり收斂できる。つまり、今、麻生政権つぶしをしている反「派遣切り」キャンペーンを操作している影の存在は、次回の選挙で「民主党+公明党」政権を目指している勢力という図式が浮かんでくるのである。
  創価学会マネーにたかる新聞に公明党批判ができるのか(寺澤有氏
  意外なつながりコレクション。
 しかし、市民はもうこうした見え透いた情報操作にはのらない。麻生総理の支持率もだが「公明党」への批判も同じように強まっている。
 
2.真の「現実派政党」誕生のために
 一方では、与党として小泉政権の政策を推進し裏で「渡来人」優遇と司法・マスコミ支配を進めていた「公明党」だが、その正体はもう隠しきれない。以下のような意見は当然だろう。「蝙蝠」に左右される「鷹」を鳥たちは決して支持しない。
 「公明党を切れば大勝する」 自民・選対幹部の発言が波紋
 今回の選挙では自民党も大打撃を受けるだろうが、「公明党」も大打撃を受ける。ならば、大陸と半島に密接に関係した「公明党」を切り、その似権路線を精算することは、自民党らしい自民党つまり日本国民の安全と将来の利益を守ることを第一に考える路線を可能にする。次のステップを生み出せる敗北(一種の戦線整理が今必要だろう)をとるのが、現状ではベストではないだろうか。
 このままでは、本当に「第二の渡来人」の時代が日本列島に再現されかねない。奈良朝以前の渡来人の侵出は西日本までだったと考えられている(西日本と東日夲の境界はそうした歴史の相違によると考えられている)。しかし、第二の渡来人の恐怖を逃れられる日本共同体はおそらくもうないだろう。
 自分の故郷が置かれた現実に、率直に向き合うときだ。(つづく)


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