蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

レトリックの時代1:文明としての言論のスタイル

2013年09月09日 | 22世紀を迎えるために
(写真:wikipedia「世界のネット検閲」)
1.言論統制の時代がまた・・・
 8月下旬、日本に一時帰国する飛行機の娯楽メニューで『図書館戦争』をやっていたので、見ながら帰った。原作は、小説でアニメや映画に発展したメディアミックスの作品で、アニメ版ができ、実写版が今年公開された。
 wikipedia「図書館戦争
 図書館戦争映画レビュー
 映画の戦闘シーンは、実弾が飛び交っているのに死者がほとんど出ない設定で、模擬的な暴力シーンに過ぎず、また、出版物の検閲を巡って法的な争いが展開するのも、模擬的な言論統制に過ぎないので、作品の世界観は、結局は「きれい事=善(図書館)と悪(検閲側)が二元的に成立し、それを決定する第三項(法制度と治安を維持する絶対国家)が影に存在する」の次元に留まっている作品だと思われ、もう一歩、言論の自由の本質的問題に踏み込んでほしいところであった。とは言え、いつもはほとんど考えることもない出版の自由や図書館の役割を、検閲機関が軍事力で制限するという比喩によって、その大切さに気づかせる逆説的効果は大切だろう。
 映画に出てくる「メディア良化法」は、先の民主党政権を動かしていた大陸性後進的帝国主義勢力により画策されていた、全ての言論を人権擁護の美名の下に統制しようとする人権委員会法とダブって見える。
 人権委員会設置法案等に関する資料
 言論弾圧が公然と行われている発展途上国やお鄰の大陸性後進的帝国主義国家群の市民に見てほしい作品である。しかも、ちょうど『はだしのゲン』の閲覧を巡る「検閲」事件が起こったところで、非常にタイムリーな作品でもある。

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「はだしのゲン」閲覧制限要請を撤回 松江市教委「手続き不備」2013.8.26 16:53 [教育]
 松江市教委が市内の小中学校に漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を求めたことをめぐり、市教委は26日、臨時の教育委員会会議を開き、暴力描写や歴史認識について内容に踏み込む突っ込んだ議論は避け、「手続きの不備がある」として制限要請の撤回を決めた。
 市教委は昨年12月、事務局の判断だけで校長会で制限を求めたが、今月に問題が報じられて以降、教育委員に説明せずに決定した過程に批判が相次いだ。このため今月22日、教育委員に報告した上で改めて協議、結論を先送りしていた。
 この日は委員5人全員が出席。事務局が経緯などを説明した後、協議に入り、暴力描写や歴史認識については「過激な描写はあるが物語全体に影響することではない」「歴史認識は制限の理由ではなく、改めて問題にする必要はない」などの意見が出て、突っ込んだ議論はされなかった。一方、制限要請に至った過程を問題視する声は相次ぎ、制限要請を撤回して各学校の判断にゆだねる形で決着した。
 作品をめぐっては昨年8月、市民が君が代批判などの内容が「子供たちに誤った歴史認識を植え付ける」と市議会に学校図書館からの撤去を陳情した。議会は同12月に「図書館に置くか置かないかの判断に議会が立ち入るべきでない」と不採択とする一方、旧日本軍が首を切るなどの史実かどうか不明な場面を一部の議員が問題視。「市教委の判断で適切に処置すべきだ」と指摘したため、市教委が当時の教育長ら幹部5人で協議、教育的配慮が必要だとして閲覧制限の要請を決めていた。
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 今回、松江市教委が記事に出ているような、いろいろな美名を騙って実施しようとした作品の閲覧制限は、まさに「検閲」そのもので、私たちの日本国がすでに20世紀前半の大日本帝国下における検閲の時代や大日本帝国滅亡後のGHQによる言論統制時代に逆行し始めたことを示している。子どもたちの未来を左右する教育委員会が美名を騙って言論統制を始めたところに、この問題の重大さがある。教育者であれば、表現の自由は自分の仕事を支える一番基本の価値観であり、それを自ら放棄する決定は自殺行為である。
 表現物への弾圧は、まさにナチス中国の統治方法である。先進国の市民として、ナチス中国のような専制的後進国と同じ行為を肯定するのは、まさに文明の恥辱である。

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[FT]言論統制強化の愚行に走る中国政府 (1/2ページ) 2013/1/10 14:00
(2013年1月10日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
 検閲当局が「言論の自由」という語句の使用を禁じるなど、まるでジョージ・オーウェルの小説のようだ。しかし今週、中国・広東省で言論統制が強化され、中国版ツイッターとされるマイクロブログ「微博(ウェイボ)」で閲覧不能になった検索語の1つがこれだった。
■不都合な記事の内容を改ざん
言論統制に抗議する「南方週末」の支持者(1月9日、広州)=ロイター
 そもそも言論や報道の自由は中国の憲法35条で保障されている。だが中国共産党は「党による報道統制は揺るぎない基本原則である」という解釈を崩さない。
 週刊紙「南方週末」の記事改ざんは愚行としか言いようがない。法の統治を求める社説(共産党支配の制限を暗に示唆するもの)を、広東省共産党委員会宣伝部トップの指示で掲載しなかったばかりか、習近平新体制を支持する内容に書き換えたのだ。当局の圧力に抗議し、同紙の編集者や記者がストライキを起こす事態に発展した。
 今や中国では3億人がマイクロブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用しており、政府の手法は時代遅れで、役人を嘲笑する風潮は広がる一方だ。
 だが、共産党の態度は硬い。開放政策をとれば、政治体制の崩壊を招く危険があるからだ。「言論の自由」は道徳上の大原則であり、国家や政権にも恩恵を与えるはずだ。しかし共産党の目に映るのは天安門事件の影だけだ。
 中国のジャーナリストが職業上のプライドを傷つけられたことが騒動の引き金だった。彼らはこれまで共産党宣伝部による細かい検閲を受けてきた。
 報道機関が孤立した存在なら、こういった扱いに耐えることもできただろう。しかし、ソーシャルメディアで情報があっという間に広がる今、報道が後手に回ることも多い。
By John Gapper
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中国で強まるネットの言論統制、異なる意見を封殺―米メディア
Record China 8月24日(土)0時57分配信
21日、中国政府がネット上における言論統制を一層強めている。SNSが中国の政治に大きく影響を及ぼすようになり、ネット上での世論に中国政府は不安を感じている。
2013年8月21日、米国際ラジオ放送ボイス・オブ・アメリカ (VOA)中国語サイトによると、ここ数カ月の間で中国政府がネット上における言論統制を一層強めている。SNSが中国の政治に大きく影響を及ぼすようになり、ネット上での世論に中国政府は不安を感じている。
ネットを中心に作品を発表している著名な作家・慕容雪村(ムーロン・シュエツン)氏は一切の説明なしにサイトを閉鎖させられた。中国版ツイッター「微博」では400万人ものフォロワーがいたが、こちらも突然閉鎖され、他のSNSでもアカウントが削除されたという。氏が掲載した記事に政府が不安を感じたためとみられる。
他にも学者や芸能人、企業家の中にもサイトやSNSのアカウントを突然抹消されたケースは少なくない。いずれも中国共産党の方針にそぐわない考えを持っていたためであり、2013年1月に南方周末の記事が共産党に差し替えられた事件では、ネット上で南方周末の記者を支持する考えを台湾の歌手・伊能静さんがネット上で示すと、やはり同様の憂き目に遭っている。
中国の不動産業界の大物・潘石屹(パン・シーイー)氏は環境保護のため個人サイトで大気汚染指数を毎日掲載し、政府に新たな大気質指標を制定すべきだと促したところ、北京で開かれた会議に出席させられ、関係する官僚から法を順守し、社会主義制度や国家利益を守るように叱責されたという。
習近平(シー・ジンピン)氏が新たな指導者となり、ネット上の言論に対して寛容な態度を取るのではないかと期待されたが、現在までまったくそうした態度は見られない。習国家主席は毛沢東の極左思想に強く影響されており、党の利益を最優先しているとの見方もある。中国ではネットは社会不満のはけ口や安全弁としても機能しており、言論統制が行き過ぎると不満が爆発し、社会動揺に発展する危険もあると指摘されている。(翻訳・編集/岡田)
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 ナチス中国で典型的に行われているように、「検閲」は、もともと言語非言語の表現物を検閲している検閲官の主観による判断が基準であり、基準が曖昧な部分を全部黒と見なして実施される行為なので、一度、始まると無制限に拡大し、過激化していく。その意味では、『図書館戦争』の検閲はまさに、検閲の本質を的確に描いている。また、最下等公務員に過ぎない教育委員会、学校、市議会ごときに表現物に関する、そうした決定をする権利がないのは当然のことで、すべての法律を故意に無視して、「人間関係」でしか仕事ができない無能な人間たちが閲覧を制限する決定をまったく恣意的に出した点には、道理や法理を無視して人間関係で全部が空気で流れていく今の日本の病巣が明暸に示されている。大日本帝国を無条件に讚美肯定している皆さんには、言論弾圧の恐ろしさを、この機会に十分認識していただきたい。
 戦前内務省における出版検閲PART-2
  戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表)
 横浜事件は決して過去の出来事ではない
 もし、今回の「検閲」が空気で支持された場合、似たような事例が全国に広がっていくところであったが、幸いにも「検閲」は「検閲」として認知され、日本国憲法が禁止している「言論の自由への侵害」は、未然に防がれた。このブログのように、少数意見でも敢て書いているブログなどは、検閲体制下では存在し得なくなる。もちろん、皆さんの言論も同じで、何が検閲の対象になるか分からないところに、検閲の恐怖がある。しかも、大日本帝国下では、書いた内容が治安維持法に違反すると検閲者が認定すれば、最高刑は死刑であった。戦前を無条件に肯定している人達の間で通用しているアメリカ軍の犯罪があるから大日本帝国は全部正しかったという狂気の暴論とはまったく無関係に、大日本帝国が事実として、人間関係だけで仕事する無能の見本のような官僚、警察、軍人達のパワハラとセクハラで成り立っていた「恐怖の帝国」であったことを、私たちは決して忘れてはならない。
 奴隸制国家「日本国」の呪われた毎日2:「死地」に立つ市民

2.検閲国家の恐怖
 検閲の別の形も気がついてみれば、すでに始まっている。今年の夏、一時帰国したときに久しぶりに映画館に行って、『風立ちぬ』をみた。作品の内容については、また書きたいが、アニメの喫煙シーンをとがめる「検閲」意見が公的団体から出されたことに大きな違和感を覚えた。こうした検閲が行われたのは、「日本禁煙学会」が「自分達は医学に関わる特権的地位にあって仕事をしており、市民にそれを強制できる。無知蒙昧な市民は吾々の意見に従うべきだ」という傲慢な立場を潜在的に持っていたからこそ、出てきた意見だろう。先に書いたように、検閲はそれを利用することで特権的地位にある階層の既得権益を守る作用があると同時に、その階層の権力支配を強化する働きがある。
 しかし、「日本禁煙学会」の権力基盤は、市民社会の言論の自由や思想信条の自由が実は支えていたので、先の教育委員会の暴走と同様に、市民からの批判を浴びることになった。
 日本禁煙学会『風立ちぬ』の批判&壮大なネタバレで大炎上
 日本禁煙学会は何がしたいのか……
 こうした検閲に対して、一般市民の側からすぐに意見が出せるようになったことは、日本の市民社会の成熟を示している。「日本禁煙学会」の要望書には以下のように書かれている。

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映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望)
映画「風立ちぬ」なかでのタバコの描写について苦言があります。現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。(別冊をご参照ください)
教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルのレストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。
特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったのでしょうか。他の方法でも十分表現できたはずです。
また、学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります。事実、公開中のこの映画には小学生も含む多くの子どもたちが映画館に足を運んでいます。過去の出来事とはいえ、さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません。
誰もが知っているような有名企業である貴社が法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか。企業の社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴社におきましてもぜひ法令遵守をした映画制作をお願いいたします。
なお、このお願いは貴社を誹謗中傷する目的は一切なく、貴社がますます繁栄し今後とも映画ファンが喜ぶ作品の制作に関わられることを心から希望しております。
どうぞその旨をご理解いただき、映画制作にあたってはタバコの扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします。
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 要望書を読んで、違和感を覚えるのは、「現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。」「学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります」という、法律や条約の権威を嵩に着た言い方である。こんな論法が成り立つなら、煙草の製造者JTや販売している免税店、煙草販売業者などをまず刑事告発するべきではないだろうか?なぜ市民が娯楽としてみているものに介入してくるのか?

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宮崎駿監督のラスト映画「風立ちぬ」は、「未成年者喫煙禁止法」に違反するか?
2013年9月8日(日)19:30
引退会見を行ったスタジオ・ジブリの宮崎駿監督。その最後の長編映画となった『風立ちぬ』をめぐって、夏休み期間中にネットをにぎわせたのが「タバコ論争」だ。医師や薬剤師らでつくる禁煙推進団体「日本禁煙学会」が作品にクレームをつけ、議論を呼んだ。
発端は、禁煙学会が8月12日、映画の制作者に対して提出した要望書だ。そこでは、『風立ちぬ』のなかに喫煙のシーンが何回も登場することを問題視。特に、結核患者のすぐ横でタバコを吸ったり、学生がもらいタバコをするシーンが問題だと指摘していた。
禁煙学会は要望書のなかで、「学生が『タバコくれ』と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の『未成年者喫煙禁止法』にも抵触するおそれがあります」と法律違反のおそれを指摘。また、タバコの広告・宣伝を禁じた「タバコ規制枠組条約」にも違反すると主張している。
この指摘のように、『風立ちぬ』が法律や条約に違反する可能性はあるのだろうか。坂和章平弁護士に聞いた。
●自由な表現は映画の「生命線」
「あるある、こんな意見。しかも、ずっと昔からありますね」
要望書を見た坂和弁護士は苦笑しながらこう話す。
「映画はエンタメ。小説以上の総合的芸術で、自由な表現はその生命線です。世の良識派は違う意見かもしれませんが、日活ロマンポルノ大好き人間の私としては、性と暴力の表現への規制も最小限でOKと考えます」
となると、禁煙学会からの要望は?
「バカバカしい。それなら犯罪映画やヤクザ映画もダメだし、石川五右衛門を主人公にした映画はもっての外? 『俺たちに明日はない』(67年)も『太陽がいっぱい』(60年)もダメになるの?」
●『風立ちぬ』の喫煙シーンに法的問題はない
映画が、法律や条約に反するという主張については?
「未成年者喫煙禁止法は明治33年に制定された、6条からなる法律ですが、『風立ちぬ』に喫煙シーンが多いことは、どの構成要件にも該当せず、抵触の恐れはありません。
念のため列挙すると、1条は20歳未満の喫煙禁止。2条はタバコの没収。3条は親や監督権者が喫煙を制止しなかったときの科料。4条は販売者への年齢確認義務。5条はそれと知りつつ未成年に販売した者に対する罰金(50万円以下)。6条は法人への罰則を、それぞれ定めています」
つまり、未成年者喫煙禁止法は、「リアルの世界」で未成年にタバコを販売したり、喫煙を制止しなかったりすることを禁じているだけで、「フィクションの世界」でタバコのシーンを描くことまで規制しているわけではない、ということだ。
タバコの広告・宣伝を禁じた「タバコ規制枠組条約」についても、坂和弁護士は「この条約の13条は、タバコの宣伝、販売促進、スポンサー活動の包括的禁止等をしているものですから、いくら『風立ちぬ』に喫煙シーンが多くても、何ら違反にはなりません」と切り捨てる。
ということは、要望のこうした法的主張は「間違い」ということになるのだろうか。
「表現の是非を巡って議論したり、対立したりはあってもいい。しかし、根拠のない法律違反、条約違反を持ち出し、『法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか』『法令遵守をした映画制作をお願いいたします』と主張するのはムチャクチャです」
ただし……。坂和弁護士は、こう付け加えた。「この要望を『表現の自由への侵害』と批判するのもダメです。彼らにだって『風立ちぬ』をそういう視点から批判する表現の自由があるのですから」
(弁護士ドットコム トピックス)
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 「日本禁煙学会」の行為はただの意見で検閲ではないという見方も出来るが、以上の法律専門家が述べているように、検閲に当たるかどうかは、もっともらしく「根拠のない法律違反、条約違反を持ち出し、『法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか』『法令遵守をした映画制作をお願いいたします』と主張する」点があるかどうかで、「法律」「条約」等の公的権威を騙って表現内容の是非を論じる高圧的論法がまさに検閲なのである。しかも、日本中のメディア・コンテンツには喫煙のシーンが溢れている中でである。なぜ『風立ちぬ』だけを批判したのか?そこには明確な謀略的作為が感じられる。『風立ちぬ』は、明らかに以下のような、メディアの自己規制の潮流に逆らう意図を持っていたからだろう。
 テレビドラマにおける喫煙関連描写に関する調査研究
 この論文の考察には、「わが国のテレビドラマにおける喫煙シーンは、以前より減少しているものと思われた。この理由の一つとして、国民の健康に対する意識の向上により、番組提供スポンサーが、喫煙シーンの放映に伴う企業イメージの低下を懸念していることも考えられた。」とあり、スポンサーで動かされるメディアが、こうした「風潮」に従って、喫煙シーンを減らしてきたのも、スポンサーのブランドイメージを考えてのことと思われる。しかし、宮崎駿はこうしたメディアの自己規制を無視して、『風立ちぬ』で歴史的事実としての「喫煙」を多数、登場させた。20世紀の社会では、喫煙は喫茶のように、当然の日常生活の習慣だったからだ。『風立ちぬ』には、愛煙家である宮崎駿の自己主張が込められているとも言える。
 「日本禁煙学会」は、こうした表現の自由を主張する『風立ちぬ』に対して、禁煙の潮流にメディアが逆らうと認識し、「検閲」命令を発したのである。「日本禁煙学会」は、煙草産業が支配していたかつての20世紀社会の潮流を止める大きな功績があり、活動自体は評価するが、同じように言論の自由で成り立っている自らの存立基盤を自ら否定するような、誤った条約や法律を根拠にしたメディア表現への説得の方法は、ナチス中国的であり、あまりにも傲慢である。喫煙と健康被害には証明可能なかなり明確な因果関係があるので禁煙には賛成だが、実生活でのそうした禁止行為を思想や表現の世界での自制活動にまで及ぼすのは、明かな行き過ぎであり、特に法律や条約の権威を騙っている点に大きな問題が示されていると考える。

 「日本禁煙学会」が行っている、メディアの表現への検閲は、先の論文を見ると分かるように、研究目的には、「テレビドラマにおける喫煙描写は、喫煙を美化・正当化させ、喫煙開始への動機付けに繋がる可能性がある。そこで、一定期間の全ての連続ドラマを対象に喫煙関連描写の状況を調査した」とあり、明らかに「喫煙描写は、喫煙を美化・正当化させ、喫煙開始への動機付けに繋がる」という予断を以って表現物に関する調査行為を実施していることがわかる。こうした予断を持った調査は、明らかに表現物への検閲行為である。
 「喫煙描写は、喫煙を美化・正当化させ、喫煙開始への動機付けに繋がる」を実証するのは至難の技である。たとえば喫煙シーンのある漫画を読んだから喫烟したと証明するには、無数にある時間的に先行する前件のなかから一つだけが、時間的に後続する一つの後件の原因になったと証明しなければならず、無数の事象と行為が連続している私たちの生活の現実をそのように単純化してしまうことはできない。確かに、日常的にメディアで喫煙シーンを見ていれば、喫煙に対する抵抗感が低くなり、他の要因との複合で喫煙を始める可能性が高まるだろうとは言えるが、だからと言って、『風立ちぬ』の喫煙シーンを見たから、子どもたちが喫煙するという直接的因果関係には決してならない。
 「日本禁煙学会」は要望書に加えて、説明で資料を出しているが、そこに出ている資料も、まさに「喫煙シーンのを多く見た場合は影響を受ける」と言っているだけで、1メディア作品の喫煙シーン=喫煙行動の原因という証明にはまったくなっていない。
 映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望と見解)
 「日本禁煙学会」の論法では、先に述べた、「はだしのゲン」閲覧制限要請の理由になっている、青少年に悪影響を与える式の論拠と実はまったく変わらない。危険の可能性があるものを全部禁止排除していけば、現代文明は崩壊するだろう。
 
 とは言え、禁煙の主張自体は間違っているわけではない。どうすればいいのか?問題は、要望書が説得のアピールに完全に失敗していることにある。条約や法律に違反するからという間違った、しかも権威主義的な根拠ではなく、道理を伝えるには、表現の道理がある。その道理は、市民社会の基本をなすものである。道理を守って説得する、それを絶対、外すべきではないだろう。「日本禁煙学会」は、要望書ではなく、ブログで批評を出せば、それで好かったのである。専門家の集団なので、20世紀の喫煙はどうだったのか?どんな問題が起こったのか?私たちは歴史から何が学べるのか?『風立ちぬ』を高所から見下して「検閲」するのではなく、禁煙を考える資料に使って、話題をネットに提供すれば、それでよかったのである。医者も基本的に権威主義者なので「日本禁煙学会」の以上にあげたページには、「てめえらみたいなど素人にはどうせ分からないだろうけどさ」というような資料の出し方しかしていない(こんな出典の分からない資料の引用の仕方があるか!!)が、こうした方法ではなく、分かりやすく資料を示して、評論の形で情に訴えれば、『風立ちぬ』の評判に応じて「日本禁煙学会」の評価は高まっただろう。
 自分が正しいから何をしても許されるという発想は、ナチス中国や半島の駄犬のような古代社会のレベルの後進的思考法で、正しさは契約に従って規定され、その範囲ですべてを実行する近現代社会の文明社会とはまったく異質な発想である。「正義云々」という前者の発想は日本の右翼や左翼の権威主義者に典型的に見られる思考様式でもある。だが、そんな古代思考では、現代の激烈な競争社会は生き延びられない。
 正義の戦争はあり得るか?
 「目には目を」で復讐を肯定していることわざの出典になっていると私たちが信じているハンムラビ法典ですら、実は、まったく逆の論理を提出している。

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ハンムラビ法典
「目には目で、歯には歯で(タリオの法)」[編集]「目には目で、歯には歯で」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。しばしば「目には目を、歯には歯を」と訳されるが、この条文の目的は同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じて同害報復までに限度を設定することであるので、誤りである。195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。
もし強盗が捕えられなかったなら、強盗にあった人は、無くなった物すべて神前で明らかにしなければならない。そして強盗が行なわれたその地あるいは領域が属する市とその市長は、彼の無くなったものは彼に償わなければならない。
ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。古代バビロニアは多民族国家であり、当時の世界で最も進んだ文明国家だった。多様な人種が混在する社会を維持するにあたって司法制度は必要不可欠のものであり、基本的に、「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」のは現代の司法制度と同様で、刑罰の軽重を理由として一概に悪法と決めつけることはできない。財産の保障なども含まれており、ハンムラビ法典の内容を精査すると奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利(女性の側から離婚する権利や夫と死別した寡婦を擁護する条文)が含まれている。後世のセム系民族の慣習では女性の権利はかなり制限されるのでかなり異例だが、これは女性の地位が高かったシュメール文明の影響との意見がある。
現代における評価
罪刑法定主義
現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されたりすることが一般的であるが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。
公平性
現代人の倫理観や常識をそのまま当てはめることはできないが、結果的にこれらの条文は男女平等や人権擁護と同類の指向を持つ条文である。また、犯罪被害者や遺族に対して、加害者側に賠償を命じる条文や、加害者が知れない場合に公金をもって損害を補償する条文も存在し、かつ被害の軽重に応じて賠償額(通貨の存在しない物々交換の時代なので、銀を何シェケルという単位だが)まで定めてある。「ハンムラビ法典は太陽神シャマシュからハンムラビ王に授けられた」というかたちで伝えられるが、特定の宗教的主観に偏った内容ではなく、むしろ宗教色は薄い。身分階級の違いによって刑罰に差がある点は公平といえないが、当時の社会情勢に鑑みると奴隷制廃止は不可能であり、何らかのかたちで秩序を定める必要があったことから当然の帰結といえる。ただし、身分差別を除いて、人種差別、宗教差別をした条文はみられない。この点に関しては中世ヨーロッパの宗教裁判に比してはるかに公平と公正さにおいて優れており、先進的といえる。司法の歴史上非常に価値の高いものである。
弱者救済
あとがきに、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」の文言がある。社会正義を守り弱者救済するのが法の原点であることを世界で2番目に古い法典が語っていることは現代においても注目される。
等価の概念
経済学者のカール・ポランニーは、ハンムラビ法典の負債取り消しに関する記述や、報酬にかかる費用などを研究し、当時の社会での等価は市場メカニズムではなく慣習または法によって決められていたと論じた。近代的な等価概念との相違点として、私益のための利用を含まないこと、および等価を維持する公正さをあげる。
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 「正しさ」は有限であり、基もと限定され、制約されている。繁栄する文明の条件は極めて限られており、どの思想でも有効というわけではない。その点に文明の選択が働いている。私たち日本市民は、自分が正しいから何をしても許されるという名目で支配階級が暴走した大日本帝国の悲惨な失敗を繰り返す過ちを犯してはならないだろう。

3.復讐の狂気と理性
 21世紀に入って、かえって古代以前の「正義絶対主義」的思考法が幅をきかせるようになってきたのは、それだけ文明が進化し、中産階級や支配階級がその誘惑で「自分には全てが許される」という完全幻想を持ちやすくなったためかもしれない。こうした思考法は、次第に文明社会を脅かし始めている。日本の場合は、最下等公務員や民間学会のレベルだったので、まだ市民の力で暴走を止めることが出来た。しかし、強大な権力を持つ機関の長が、痴呆的先祖帰りを起こした場合、その害毒は計り知れない。

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度が過ぎる韓国びいき 馬脚現した国連事務総長発言2013年8月28日(水)11:16
 国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長がいくら中立を装ったとしても、いつかは馬脚を現すと考えていた。米誌が告発した「核や難民問題に関心がない」「世界中の大学で名誉学位を収集する癖がある」などはいい方で、事務総長の韓国びいきは度が過ぎる。
 国連の主要ポストに韓国人ばかりを起用してワシントン・ポスト紙から「縁故主義」が批判されたことがある。また、あるときは、加盟192カ国(当時)の外交官を招いた「国連の日」恒例の事務総長主催コンサートに、母国のソウル・フィルを招請した。しかも日本海を「東海(トンヘ)」と書き込んだ英文のパンフレットが配布されても素知らぬ顔である。韓国が国連地名標準化会議に、日本海と「東海」を併記するよう求めているのは百も承知だろう。
 その潘事務総長が韓国で記者会見すれば、中立性はただちに揺らぐ。しかも、国連事務総長が他国の憲法改正の動きに口先で介入した。韓国記者から「日本政府の平和憲法改正の動きに対する国連の立場」を聞かれ、「日本の指導者はきわめて深く自らを省みて、国際的な未来を見通すビジョンが必要だ」などと説教調である。安倍晋三政権の歴史認識や領土問題についても、「正しい歴史認識を持ってこそ、他の国々から尊敬と信頼を受けられるのではないか」と批判めいたことをいう。
 日本政府は「中立性を求めた100条に違反する恐れ」と懸念を表明しているが、ハナから中立性などあるのだろうか。ちなみに国連憲章第100条とは、「事務総長および職員は、この機構(国連)に対してのみ責任を負う国際的職員としての地位を損ずるいかなる行動も慎まなければならない」との規定だ。
 もともと韓国外交通商相時代の潘氏は、左派の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領による対日強硬路線に沿って、反日親中姿勢を鮮明にしていた。
 記憶にあるのは、かつて小泉純一郎首相による靖国神社参拝に対する潘氏の反応だった。中国の李肇星外相が「アジアの人たちの感情を傷つけている」と、事あるごとに「アジア」を吹いた。小泉首相は参拝のたびに「無名の戦死者を鎮魂するために行くのだ」と述べており、断じて侵略戦争の賛美ではなかった。
 にもかかわらず、中国はアジアがひとかたまりになって、日本と敵対しているような印象をふりまいたのだ。この詭弁(きべん)に対して「アジアとはどこの国なのだ?」との疑問を抱いた。
 いまも当時も、中国に同調したのは韓国ただ一国だけである。2005年11月に、釜山で李外相と会談したのはその潘外交通商相で、「日本の責任ある政治指導者が靖国神社を参拝することは認められない」とお調子を言った。このときから韓国は、華夷秩序からみて忠実なる「従属変数」であった。
 首相の靖国参拝に不平をいっているのは中韓だけなのに、彼らは「アジア幻想」を総動員する。自らの主張に自信がないときや強化したいときほど、周囲を巻き込んで誇大宣伝するものである。
 だから、その潘氏が国連事務総長に就任したとき、名誉学位の収集癖は知らないが、「中立性に疑問で、油断はできない」と書いた。かくして、会見内容の第一報に「中立を装ったとしても、いつかは馬脚を現す」と感じていた次第である。(東京特派員・湯浅博)
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 今回は安倍政権の的確な対応で、痴呆的先祖帰りを起こした潘某の謀略は未然に阻止できたが、ナチス中国と半島駄犬と密接不可分な関係にあった前民主党政権では危ういところであった。こうした偶然が別の偶然と重なれば文明崩壊の引き金になる場合もありえる。その意味では、自由に言論が出せる世界ほど、安定した世界はないのである。
 文明崩壊の危機は、こうした支配階級にあるばかりではない。市民の日常の思考法の中にも存在している。

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.マイカー規制影響?富士登山、1万4千人減に2013年9月1日(日)20:02
 富士山の今年の夏山シーズン(7月1日~8月31日)中、山梨県の吉田口登山道からの登山者が、昨年よりも1万3934人少ない23万2682人だったことが1日、同県富士吉田市のまとめで分かった。
 世界文化遺産登録で増加が予想されたが、同市富士山課は「マイカー規制強化などが要因では」と分析している。
 同登山道は、静岡県側と合わせた計4ルートのうち、毎年最多の登山者が利用する。同市が6合目の「安全指導センター」前を通過した人数を積算した。1981年の計測開始以降5番目に多く、最多だった2010年の25万9658人より2万6976人減。
 同登山道につながる有料道路「富士スバルライン」では今年、山梨県がマイカー規制を最長の31日間行った。同登山道6合目以上にある山小屋14軒の収容人数は、シーズン合計で約18万人。富士山課の渡辺岳文課長は「23万人でも適正人数より多い」と話した。
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 こうした発想の記事は、現代日本では無数に日常に溢れている。何が問題なのだ?と思われるかもしれない。しかし、大きな問題がある。この記事は、「1981年の計測開始以降5番目に多く、最多だった2010年の25万9658人より2万6976人減」と、登山者が減ったことに問題があるかのような価値判断を暗黙裏に込めている。だが、富士山入山者が減ったのは、むしろ好ましいという判断も出来る。「同登山道6合目以上にある山小屋14軒の収容人数は、シーズン合計で約18万人。富士山課の渡辺岳文課長は「23万人でも適正人数より多い」と話した。」という最後の談話から見れば、世界遺産としての富士山の景観と自然を保つには、現在の観光客数でも多すぎることがわかる。環境維持費用に対する経済効果も検証されていない。数が多い=善という無意識的判断が、記事の中で本当の問題を見失わせ、富士山の今後の観光資源化を見失わせてしまった。先入観と言えば先入観、予断と言えば予断だが、先に見た正義の思考と同様に、こうした善悪二項対立的思考は、逆に現象の本質を見失わせる場合がほとんどであろう。
 
 富士山を守れ!世界遺産登録をお祭り騒ぎにするなかれ

 富士山の世界遺産登録は、今後の地域環境のデザイン全体に関わる問題で、数に還元できない部分のほうが多い。入山者を制限して地域を保全し、逆に貴重な自然を維持する地域として価値を高める、そうした発想も可能な問題である。

 検閲の問題から議論が広がってしまったが、表現の問題は実は文明の根幹に関わる問題であり、社会全体の流れを変えてしまう力を持っている問題なのである。

4.表現は時代を変える
 昨日は、東京2020オリンピック招致成功のニュースで沸騰した。多くの報道が、日本のプレゼンテーションの方法を評価した。
 オリンピック東京プレゼン全文、安倍首相や猪瀬知事は何を話した?(IOC総会・プレゼン内容)
 首相や組織の長ばかりでなく、若い選手やマスコミのメンバーも加えてのメッセージ伝達は、年功序列で動く以外のパターンを知らなかった日本社会にも変化の兆しが見え始めたようである。
 メッセイージの内容も、具体的方策を訴えており、今までの挨拶や美辞麗句をならべただけの日本的言説とはかなり異なっている。

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安倍首相のプレゼン
委員長、ならびにIOC委員の皆様、
東京で、この今も、そして2020年を迎えても世界有数の安全な都市、東京で大会を開けますならば、それは私どもにとってこのうえない名誉となるでありましょう。
フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。
さらに申し上げます。ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります。

けれども私は本日、もっとはるかに重要な、あるメッセージを携えてまいりました。
それは、私ども日本人こそは、オリンピック運動を、真に信奉する者たちだということであります。この私にしてからが、ひとつの好例です。
私が大学に入ったのは、1973年、そして始めたのが、アーチェリーでした。一体どうしてだったか、おわかりでしょうか。その前の年、ミュンヘンで、オリンピックの歴史では久方ぶりに、アーチェリーが、オリンピック競技として復活したということがあったのです。つまり私のオリンピックへの愛たるや、そのとき、すでに確固たるものだった。それが、窺えるわけであります。
いまも、こうして目を瞑りますと、1964年東京大会開会式の情景が、まざまざと蘇ります。いっせいに放たれた、何千という鳩。紺碧の空高く、5つのジェット機が描いた五輪の輪。何もかも、わずか10歳だった私の、目を見張らせるものでした。
スポーツこそは、世界をつなぐ。そして万人に、等しい機会を与えるものがスポーツであると、私たちは学びました。オリンピックの遺産とは、建築物ばかりをいうのではない。国家を挙げて推進した、あれこれのプロジェクトのことだけいうのでもなくて、それは、グローバルなビジョンをもつことだ、そして、人間への投資をすることだと、オリンピックの精神は私たちに教えました。
だからこそ、その翌年です。日本は、ボランティアの組織を拵えました。広く、遠くへと、スポーツのメッセージを送り届ける仕事に乗り出したのです。以来、3000 人にも及ぶ日本の若者が、スポーツのインストラクターとして働きます。赴任した先の国は、80を超える数に上ります。働きを通じ、100万を超す人々の、心の琴線に触れたのです。

敬愛する IOC委員の皆様に申し上げます。
2020年に東京を選ぶとは、オリンピック運動の、ひとつの新しい、力強い推進力を選ぶことを意味します。なぜならば、我々が実施しようとしている「スポーツ・フォー・トゥモロー」という新しいプランのもと、日本の若者は、もっとたくさん、世界へ出て行くからです。
学校をつくる手助けをするでしょう。スポーツの道具を、提供するでしょう。体育のカリキュラムを、生み出すお手伝いをすることでしょう。やがて、オリンピックの聖火が 2020年に東京へやってくるころまでには、彼らはスポーツの悦びを、100を超す国々で、1000万になんなんとする人々へ、直接届けているはずなのです。
きょう、東京を選ぶということ。それはオリンピック運動の信奉者を、情熱と、誇りに満ち、強固な信奉者を、選ぶことにほかなりません。スポーツの力によって、世界をより良い場所にせんとするためIOCとともに働くことを、強くこいねがう、そういう国を選ぶことを意味するのです。
みなさんと働く準備が、私たちにはできています。

有難うございました。
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 安倍首相のプレゼンテーションを例にすると、日本的言説では感謝の言葉などの長々と続く挨拶から始まり、今までのオリンピックの功績、日本を選ぶべき理由のように重要な点が最後に来るが、安倍首相は重要な点(緑)が最初に来る欧米型のメッセージで話している。福島原発事故と財政問題という点を最初に首相として約束したのは、非常に大きなアピールだったと言えよう。後続する部分にも工夫がある。それは、設備等の物質的得失ではなく、かつての東京オリンピックでの精神と行動を自らの経験も交えてアピールした赤の部分である。こうした価値観に訴える方法は、まさに先進国に相応しく、文明の担い手としての責任を果たそうとするメッセージで、非常によいアピールポイントとなったであろう。続く、青の部分も具体化策を提示し、「文明のイベントとしてのオリンピック」という、今まで成績や金銭に呪縛されてきたオリンピックに新機軸を打ち出す形になっている。
 日本的プレゼンは、表面的言説で成り立った「挨拶→起承転結」のような構成であるのに対して、安倍首相のプレゼンは「結論→経験→未来」のような新しい構成と個人の価値観を基軸にしており、決まった型に囚われない非常に新鮮な内容である。
 とは言え、安倍首相はともかく、相撲や柔道のスキャンダルのように人間関係だけで仕事をしている議員・官僚やスポーツ官僚が大半の日本の支配階級に、安倍首相のプランが実行できるか、心許無い気がする。却って日本社会の責任が重くなったとも言える。国際公約として絶対に実行しなければならないだろう。祝賀とともに、改めて言説への責任の重要さを考えねばならないだろう。

 とは言え、新しい言論のスタイルが生まれてきつつあることは、「第二の黒船時代」を迎えた日本社会にとって、希望の一筋には違いない。2020年に向けた動きが日本の新しい門出になることを!現実化し始めた福島原発事故による放射性物質汚染被害防止のためにも。
 福島原発事故による健康被害ー小児科医の報告 Part1 日本語字幕付


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