美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

3月25日(金)のつぶやき

2016-03-26 03:23:15 | 日々の呟き

乳幼児の頃から暖かい太陽の光と優しい風に触れさせ、家庭や施設の中ではたっぷりと幸福感にひたらせ、清潔な衣服をまとわせることが、どんなに大切なことか!

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幸福感は、しかし人間社会が生み出すものだろうから、歪んだ幸福感というものも出てくるかもしれない。競争社会の中で生まれてくる幸福感には気をつけなければならないとも思う。子供にたっぷりとひたらせるべき幸福感は何よりも心に安心感を与えるものでなければならない。


「2015年中に世界人口の1%にあたる最も富裕な人たちが、残り99%より多くの富を所有するようになった」と今日の新聞に出ていた。この数値は王侯貴族の時代と比べてどうなんだろう?


「CEOと従業員の平均年収比は、1965年の20対1から2013年には295対1に拡大」と今日の新聞に出ていた。これが米国の経済格差の現状らしい。


アメリカでは「2008年のリーマンショックとそれに続く不況で1000万世帯が家を失ったり差し押さえられたりして870万人が失業した」と今日の読売新聞に出ていた。


アメリカでは「家計所得の中央値は2000年から2013年に7%減少した」と今日の新聞に出ていた。


以上4つのツイートは、河野博子さんが書いた今日の読売新聞記事中にある「経済格差の現状」から。
なお、この「現状」はジョセフ・スティグリッツの近著「これから始まる<新しい世界経済>の教科書」に拠るもの。
スティグリッツはノーベル経済学賞受賞者。米コロンビア大学教授。73歳。


共和党トランプ候補の支持者に見られるのは「破壊的な怒り」だとジョセフ・スティグリッツが言っている。その原因は (1)大きな経済格差 (2)それを不公正と受け止めていること、その不公正に誰も責任を取っていないこと (3)基本的な社会制度への不信感だとも。
以上、今日の新聞より


東大特任講師の生貝直人さんが、「インターネット上で収集される行動履歴などの大規模なパーソナルデータを解析し、個人の性質や傾向を推測する技術」であるプロファイリングについて、今日の新聞で興味深い指摘をしていた。政党がSNSの書き込みから個人の政治的傾向を解析することも可能だとも。


@tikarato
生貝直人さんによると読書履歴はその人の思想信条を示す<機微情報>と言われるものであり、安易な利用が許されるべきものではないという。


森アーツセンターのオランダ絵画展 tbs.co.jp/vermeer2016/ の後に、フェルメールに関する複数の書籍をチェックする機会があったが、スペースの問題があるとはいえ、基礎研究を踏まえたものが僅かしかない、という厳しい現実を目の当たりにした。

Riki67さんがリツイート | 1 RT

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3月24日(木)のつぶやき

2016-03-25 03:17:55 | 日々の呟き

@tikarato
このRTの内容は、10年ほど前の状況のようだが、人事の時期にこうしたRTが出て来るところを見ると、やはり状況が変わっていないのだろう。実態はこれよりマシなところもあるだろうし、もっとダメなところもあるはずだ。


彝と中村屋相馬家との「感情的対立」はいつ頃起こったか?これをめぐる鈴木秀枝『中村彝』の問題点について書きました。 goo.gl/Y25alR


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中村彝と相馬家との「感情的対立」

2016-03-24 21:44:01 | 中村彝
鈴木秀枝著の『中村彝』は好著と思うが、その72頁、「激流の中に」の章末にこうある。

「彝と相馬家との感情的対立が表面化したのは、大正3年の秋、すなわち第8回文展に俊子の裸像が掲げられた以後に発して、以来急激に深まったものと思われる。
 病気にさいなまれ、その上自己の周囲が急激に冷却化してゆく中に在って、彝はついにその年の暮れに死を決して大島へと旅だった。」


大正3年の秋に中村屋との「感情的対立の表面化」が俊子像をめぐって起こり、それが「急激」に深まって、その年の12月に自殺のための大島行とはあまりに「急激」に過ぎまいか?

それに、この章末の部分は、少なくとも3、4か所字句を訂正しなければならないところがある。

まず最初は明らかな誤りである。すなわち、彝が第8回文展に出品したのは俊子の裸像ではなく着衣像だ。俊子の裸像を出品したのは、先にこのブログでも見てきたように、それ以前の同年春から夏の大正博覧会においてだった。

従って「裸像が掲げられた以後」の語句を書き改めるか、もしくはこれをそのままにするなら、「大正3年の春、大正博覧会に俊子の裸像が掲げられた以後」とすべきだ。

鈴木秀枝氏が、博覧会出品作の彝の俊子像を着衣像と勘違いして論じているのは明らかだろう。

そして後者のように手直しするなら、「急激に冷却化」したのでなく「次第に冷却化してゆく中に在って」とした方が実態に近いだろうし、これも先の当ブログで見てきたように、大島に「死ぬつもりで」行ったのは「自殺」を意味するとは必ずしも言えないから、「死を決して」ではなく「意を決して」大島へと旅立ったと字句を修正した方が正確だろうと思う。

著者は同著の64頁でもすでに勘違いしていて、

「大正3年平和博覧会の「少女」(口絵19)、同じく第8回文展3等賞の「少女」(口絵21)裸像等々・・・」

と書いているが、口絵19を見るとそれが文展出品の着衣像の作品で、口絵21は半身裸像の俊子像となっている。だから、これらの作品同定はいずれも誤りと言わざるを得ない。

この本は、彝の伝記本としては全体にバランスのとれた記述をしている好著であるが、こうしたミスも散見されるから、この点については、以下のとおり掲げ、読者の無用な混乱を避けたい。

博覧会出品の俊子像は鈴木秀枝本の口絵20

文展出品の俊子像は同じく口絵19

ちなみに鈴木秀枝氏が文展出品作としている口絵21は今日、横須賀美術館にある俊子像の少女である。

黒光と彝とのむしろ歓びでもあったはずの「心的争闘」は、遅くとも大正3年の秋までには、彝の主観においては変質して、彼にとって何らかの「屈辱」感を伴う関係となっていたことは確かだ。でなければ、彝の大島行は、やはり説明できないものとなってしまう。ただ、それが俊子の半裸の作品群制作とどの程度関連していたかは、まだ明らかではない。

※ここで取り上げた鈴木秀枝著『中村彝』は、新版である1989年2月25日版に基づき指摘したものである。



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3月23日(水)のつぶやき

2016-03-24 03:18:11 | 日々の呟き

私の住んでいるところでは、沈丁花はまだ花をつけているが、芳香を発する期間は先週あたりで終わったようだ。
今はミモザの花が満開で、水仙が咲いている。


中村彝が大正3年「少女裸像」(愛知県美術館蔵)などを描く前後の心理的な状況について書いてみました。 goo.gl/ov4Faf

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明治時代の日本の写真が見られる!NY公共図書館が約67万点の資料を無料で公開 ift.tt/1Jrxstt pic.twitter.com/E2MxKiW7J8

Riki67さんがリツイート | 214 RT

やはり居るんだな、こういう館長や副館長が、今も。残念ですね。館長の声が学芸員の声ということで、おそらく人事権を実質的に持っている副館長が学芸員を制御しやすいんだろうね。公立美術館のこういう状況は早く改善されないといけないな。 twitter.com/ykkykym/status…


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中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(3)

2016-03-23 19:36:08 | 中村彝
大正3年3月20日から7月31日まで開かれた東京大正博覧会に彝は俊子をモデルにした裸体の「少女」と画面左下にフランス語で1911年1月15日の年記がある3年前に描いた「静物」を出品した。

前者は今日愛知県美術館蔵の作品で少女裸像と呼ばれている。上半身が裸の裸像でこの作品がかなり長い期間公開された。

16歳のミッション・スクールの生徒が裸体のモデルになっていたことで、女性校長が憤慨し、撤去を要求して受け入れられなかったらしいが、この問題に芸術に理解のあるはずの黒光はどう考えたのだろうか。

彝は公開された俊子の半身裸像をこれ1点のみならず、他にもいくつか描いているから、黒光も事前に彝がそうした作品を描いていたことはある程度承知していたと思われるが、詳細は分からない。

相馬黒光は、彝の新宿時代を「懐疑暗黒の時代」と呼んで、彝に(1)いつも「静座に対する反感と懐疑」、(2)「私の家族と他の人との関係から生ずる嫉妬」、(3)「疾病と恐怖、不安」などが見られ、「次から次へと息をつく間もなかった」としている。彝は「肉体的にも精神的にも弱者の立場にいる人」で、「悪魔の慣用的好責道具」に苛まれていたと見ているようだ。

さらに黒光は(1)については静座の師である岡田虎二郎に対する矛盾した彝の態度、(2)については俊子をめぐる早稲田の助教授桂井当之助や、碌山の従弟で商船学校の三原林一との争いなどについて語っている。

そして黒光は彝から言われた辛辣な言葉も隠そうとしないでこう書くのである。

「一体お母さんはいつでも物欲しそうな顔をしているのが嫌いだ。」
是程深刻直截に私の内面を表現しうる語はない。グイと私の心臓を抉るのである。又こうも言って私をいぢめた。
「お母さんは残忍性を持つ人だ。餌を見せびらかして人を釣り寄せる。俺のような馬鹿な奴は終ウカと乗って接近しようとする。モー駄目サ。埒が設けてあって、夫れより奥へは一歩も足を踏み入らせない。「お前たちの這入る場所ではないよ」と冷然としている。


黒光の言う彝の「新宿時代」は、残された彝の書簡も乏しい。上記も相馬黒光「新宿時代の彝さん」に拠るものである。だが、すでに俊子の裸体画が公開された後に書いている彝の手紙も全くないわけではない。

大正3年9月とされる俊子宛ての絵葉書は上諏訪鷺之湯から書いたものだが、そこには特に心理的に葛藤のあるような文面は見られない。

しかし、同年9月27日には相馬愛蔵、黒光宛の絵葉書に、秋になって寂しくなった心境を風景に重ね合わせるかのごとく短く綴っているのが気になる。

そこには<絶望、冷淡な顔、空虚、死のような冷たさ、堪えられない不安>などの言葉がやや執拗に現れているからだ。







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