鈴木秀枝著の『中村彝』は好著と思うが、その72頁、「激流の中に」の章末にこうある。
「彝と相馬家との感情的対立が表面化したのは、大正3年の秋、すなわち第8回文展に俊子の裸像が掲げられた以後に発して、以来急激に深まったものと思われる。
病気にさいなまれ、その上自己の周囲が急激に冷却化してゆく中に在って、彝はついにその年の暮れに死を決して大島へと旅だった。」
大正3年の秋に中村屋との「感情的対立の表面化」が俊子像をめぐって起こり、それが「急激」に深まって、その年の12月に自殺のための大島行とはあまりに「急激」に過ぎまいか?
それに、この章末の部分は、少なくとも3、4か所字句を訂正しなければならないところがある。
まず最初は明らかな誤りである。すなわち、彝が第8回文展に出品したのは俊子の裸像ではなく着衣像だ。俊子の裸像を出品したのは、先にこのブログでも見てきたように、それ以前の同年春から夏の大正博覧会においてだった。
従って「裸像が掲げられた以後」の語句を書き改めるか、もしくはこれをそのままにするなら、「大正3年の春、大正博覧会に俊子の裸像が掲げられた以後」とすべきだ。
鈴木秀枝氏が、博覧会出品作の彝の俊子像を着衣像と勘違いして論じているのは明らかだろう。
そして後者のように手直しするなら、「急激に冷却化」したのでなく「次第に冷却化してゆく中に在って」とした方が実態に近いだろうし、これも先の当ブログで見てきたように、大島に「死ぬつもりで」行ったのは「自殺」を意味するとは必ずしも言えないから、「死を決して」ではなく「意を決して」大島へと旅立ったと字句を修正した方が正確だろうと思う。
著者は同著の64頁でもすでに勘違いしていて、
「大正3年平和博覧会の「少女」(口絵19)、同じく第8回文展3等賞の「少女」(口絵21)裸像等々・・・」
と書いているが、口絵19を見るとそれが文展出品の着衣像の作品で、口絵21は半身裸像の俊子像となっている。だから、これらの作品同定はいずれも誤りと言わざるを得ない。
この本は、彝の伝記本としては全体にバランスのとれた記述をしている好著であるが、こうしたミスも散見されるから、この点については、以下のとおり掲げ、読者の無用な混乱を避けたい。
博覧会出品の俊子像は鈴木秀枝本の口絵20
文展出品の俊子像は同じく口絵19
ちなみに鈴木秀枝氏が文展出品作としている口絵21は今日、横須賀美術館にある俊子像の「少女」である。
黒光と彝とのむしろ歓びでもあったはずの「心的争闘」は、遅くとも大正3年の秋までには、彝の主観においては変質して、彼にとって何らかの「屈辱」感を伴う関係となっていたことは確かだ。でなければ、彝の大島行は、やはり説明できないものとなってしまう。ただ、それが俊子の半裸の作品群制作とどの程度関連していたかは、まだ明らかではない。
※ここで取り上げた鈴木秀枝著『中村彝』は、新版である1989年2月25日版に基づき指摘したものである。
「彝と相馬家との感情的対立が表面化したのは、大正3年の秋、すなわち第8回文展に俊子の裸像が掲げられた以後に発して、以来急激に深まったものと思われる。
病気にさいなまれ、その上自己の周囲が急激に冷却化してゆく中に在って、彝はついにその年の暮れに死を決して大島へと旅だった。」
大正3年の秋に中村屋との「感情的対立の表面化」が俊子像をめぐって起こり、それが「急激」に深まって、その年の12月に自殺のための大島行とはあまりに「急激」に過ぎまいか?
それに、この章末の部分は、少なくとも3、4か所字句を訂正しなければならないところがある。
まず最初は明らかな誤りである。すなわち、彝が第8回文展に出品したのは俊子の裸像ではなく着衣像だ。俊子の裸像を出品したのは、先にこのブログでも見てきたように、それ以前の同年春から夏の大正博覧会においてだった。
従って「裸像が掲げられた以後」の語句を書き改めるか、もしくはこれをそのままにするなら、「大正3年の春、大正博覧会に俊子の裸像が掲げられた以後」とすべきだ。
鈴木秀枝氏が、博覧会出品作の彝の俊子像を着衣像と勘違いして論じているのは明らかだろう。
そして後者のように手直しするなら、「急激に冷却化」したのでなく「次第に冷却化してゆく中に在って」とした方が実態に近いだろうし、これも先の当ブログで見てきたように、大島に「死ぬつもりで」行ったのは「自殺」を意味するとは必ずしも言えないから、「死を決して」ではなく「意を決して」大島へと旅立ったと字句を修正した方が正確だろうと思う。
著者は同著の64頁でもすでに勘違いしていて、
「大正3年平和博覧会の「少女」(口絵19)、同じく第8回文展3等賞の「少女」(口絵21)裸像等々・・・」
と書いているが、口絵19を見るとそれが文展出品の着衣像の作品で、口絵21は半身裸像の俊子像となっている。だから、これらの作品同定はいずれも誤りと言わざるを得ない。
この本は、彝の伝記本としては全体にバランスのとれた記述をしている好著であるが、こうしたミスも散見されるから、この点については、以下のとおり掲げ、読者の無用な混乱を避けたい。
博覧会出品の俊子像は鈴木秀枝本の口絵20
文展出品の俊子像は同じく口絵19
ちなみに鈴木秀枝氏が文展出品作としている口絵21は今日、横須賀美術館にある俊子像の「少女」である。
黒光と彝とのむしろ歓びでもあったはずの「心的争闘」は、遅くとも大正3年の秋までには、彝の主観においては変質して、彼にとって何らかの「屈辱」感を伴う関係となっていたことは確かだ。でなければ、彝の大島行は、やはり説明できないものとなってしまう。ただ、それが俊子の半裸の作品群制作とどの程度関連していたかは、まだ明らかではない。
※ここで取り上げた鈴木秀枝著『中村彝』は、新版である1989年2月25日版に基づき指摘したものである。