美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(2)

2016-03-22 20:31:40 | 中村彝
中村彝が相馬俊子を描いた最も早い時期の作品例としては「習作」がある。

これは今日メナード美術館にある「少女像」と言われている作品で、同館では大正2年の作としている。

しかし、この作品は大正2年1月発行の『現代の洋画』(No.10)にカラー図版で掲載されている作品だから、むしろその前年の大正元年(明治45年)の作品である可能性の方が高いのではないか。ちなみに彝が中村屋裏の画室に移ったのは明治44年の12月であり、遅くとも大正元年の10月までには相馬安雄(俊子の弟)を描いている。

おそらく、このころから彝は相馬家の子供たち(俊子の妹の千香、そして俊子)を次々と描き始めたのではないかと思われる。

いずれにせよメナードの「少女像」が、制作年の確認できる最も早い時期の俊子を描いた作品であり、彝はそれ以降、大正3年の文展出品の俊子像である「小女」(新宿・中村屋蔵)まで、10点以上の俊子像を描いたはずである。

(明治44年の作とされる「読書」と呼ばれる作品があるが、制作年に誤りがなければ、これは俊子をモデルにしたものではなかろう。ただし背景の植物文様は、後の幾つかの俊子像にも共通するモティーフである。
してみると、この植物文様のモティーフは、彝が中村屋に移る前から彼のお気に入りのものだったということになる。)

このように大正元年(明治45年)から大正3年にかけて彝は俊子を描いたのだが、大正3年までの残されている彝の書簡は実は少ない。
『藝術の無限感』に収録されている彝の書簡も大正4年以降のものが多い。
すなわち、彝と中村屋相馬家との間に亀裂が入り、すでに葛藤が生じていた時期以降の書簡がこの本に多く収められ、その辺りから彝の書簡を詳しく読んでいくことになる。

大正4年3月、彝が大島に来てから「百日餘になる」ころ、中村春二に出した手紙には、自然(外部)が光に満ち始めた風景と自分のいつも暗い内面とが鮮やかに対比されて、こう語られているのが印象的である。

すべてのものが解放され活気づき、・・・地からは水気をあげて若きグリーンの草を出し、山には桜桃が咲き、鳥は高音をあげ、人も牛も嬉し相に声高く歌ひながら輝く太陽の下へ、外へ、林の中へ、山の中へ出て行く様になつたのですが、・・・自分一人は何時も暗い室の中に、床の中に縛られ、幽閉され、屈辱せられて、描きたくとも、見たくとも、ジッと眼をつむつて辛抱して居なくてはならないのです。室の障子を開けると紺青の海がキラキラ輝いて居ります。大地や樹木が静かに幸福相に沈黙して、日にてり輝いて居るのです。






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