美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の書簡(2) 大正5年2月28日とされる書簡の問題点

2016-03-12 19:47:38 | 中村彝
新潟県立近代美術館での展覧会で、これまで中村彝の<大正5年4月(?)28日>の書簡とされていたものが、なぜ<大正5年2月28日>の書簡と改められてしまったのか、私の知る限り、その理由は明らかにされていない。

同館は展覧会にあたってオリジナル資料である彝の書簡をつぶさに見、また『藝術の無限感』と比較照合し、書簡の順番を入れ替えているのだから、これは単純な校正ミスなのではではなく、その現物資料の校訂の結果、<4月(?)>を<2月>に意識的に改めたと思わざるを得ない。

同展覧会の冊子『中村彝・洲崎義郎宛書簡』の103頁の一覧でもこの書簡を2月28日として、備考欄に「『藝術の無限感』には四月(?)二十八日とある」と断り書きを添えていることからもそれが解る。

しかしながら、この手紙を2月28日のものとすると、彝は2月27日にも洲崎に手紙を送っているから、すぐその翌日にも洲崎に手紙を書いたことになってしまう。まあ、そういうこともあり得るだろうが、これはいささか不自然であろう。

不自然であるばかりか、内容的にも明確なある問題点が浮かび上がってくる。

それは、彼らの共通の友人である小熊虎之助夫妻の動静に関する彝のさりげない気遣いの文章から浮かび上がってくるもので、ここから2月説の矛盾点が指摘できるのだ。

先ず2月27日の手紙(A)でそれはこう書いてある。

小熊君は馬鹿々々しく幸福相ですね。・・・洲崎夫妻が毎日手伝ひに来るなんて、馬鹿に「スヰート」ですね。ほんとに幸福相だ。どうぞよろしく言つて下さい。今少しよくなったら細かく手紙あげるからとさう言って下さい。殊に鈴さんには宜しく。無限感195‐196頁

次に4月(?)または2月28日とされる手紙(B)ではこう言っている。

小熊君が居なくなり、鈴子さんが立つて、柏崎は寂しくなつたでせうね。無限感215頁

Aの手紙のあと、Bの手紙を翌日に出したとするなら、この小熊夫妻の動静をどう解釈するのか。

小熊夫妻が柏崎から「居なくなつた」のは、まさに他ならない新潟県立近代美術館が作成した「中村彝・洲崎義郎・柏崎関係年表」によれば、小熊が柏崎日報を退社して仙台第2中学校の「英語教諭」となった4月9日以後のことだろう。とすれば、Bが2月28日に書かれるわけがない。

ちなみに小熊が柏崎に帰郷したのは、同じ年表によれば前年の8月のことである。

つまり小熊夫妻が柏崎に住んでいたのは、この時期では、大正4年8月から同5年4月9日までなのである(ただし小熊夫人の方は4月14日辺りまでは柏崎に残っていた可能性がある)。新潟県立近代美術館がこのことを把握しながら、なぜ従来の「4月(?)28日」書簡をわざわざ動かして「2月28日付」としたのか実に不思議と言うほかはない。

この書簡が従来から「4月(?)28日付」とされていたのは、おそらく封筒の消印が不明瞭で読めず、書簡全体の内容の推定からそうしたに相違ない。しかも『藝術の無限感』における書簡の選定にあたったのは小熊本人なのだ。

他にもBを2月28日付とするには無理がある理由は見つかりそうだが、ここではこれだけで、もはや十分なはずだ。

以上、美術展覧会の図録などでは、常に新しい説や、時には新しい写真図版などが、いつも有益な情報を提供するとは限らない、そんな場合も起こり得るということがここでも示しえたと思う。(古い写真図版の大切さについては、すでにこのブログのなかで書いている。)














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中村彝の書簡(1)

2016-03-12 11:47:05 | 中村彝
中村彝の『藝術の無限感』には彼の書簡やエッセーなどが収録されている。

その中に新潟県柏崎の友人洲崎義郎に宛てた手紙が多数ある。
そのうちの1通に<大正5年4月(?)28日>付けの重要な書簡がある。書簡の末尾にトルストイの肖像が墨で描かれているものだ。

彝が百島操に依頼され、<大正5年頃>トルストイの肖像を描いたことは、百島自身がある時に書いている。百島は文芸に関心が深く、キリスト教の伝道師ともなった人物である。

さて、この<大正5年4月(?)28日>の手紙、どういうわけか、洲崎ゆかりの新潟県にある近代美術館で1997年に「中村彝」展が開かれたとき、その日付が<大正5年2月28日>とされていた。

このことについては前から気になっていたが、これまでどこにも管見を示す機会がなく、しばらく忘れていた。が、ChinchikoPapaさんのブログ「落合道人」の中の下落合で『狂い死に』した近藤芳男という有意義な記事を最近読んでこの手紙のことを思い出したのでここに書き留めておきたい。

近藤芳男は、近藤芳雄または芳男とも表記されることがある画家で、彼は大正5年の春までには「発狂自殺」したと見られる。(ただしこの点について先のPapaさんのブログでは東京芸大の展覧会図録に基づいて大正6年死去としている。)

『藝術の無限感』(新装版)212頁の彝の書簡を見ると近藤の名前は具体的には書かれておらず、単に「知友」または「友人」と記されているが、この人がおそらく近藤であることは後に触れることになろう。

この友人の自殺の<原因>は彝によれば<恋愛>にあり、彝と同じ病を持っていたので、この「知友」の自殺は、同じ病を持ち、同じように今恋愛に苦しんでいる自分に大きな衝撃を与えたのだとそこに書かれている。

『藝術の無限感』212頁に載っているこの手紙こそがまさに問題の<大正5年4月(?)28日>の手紙なのだ。

ここで、新潟県立近代美術館は、この手紙をなぜ<大正5年4月(?)28日>ではなく、<大正5年2月28日>の手紙としたのかという問題に戻って考えてみたい。

新潟県立近代美術館のこの展覧会では洲崎宛ての書簡が現物資料にあたって再検討されており、しかもこのトルストイのエスキースが末尾に描かれている書簡は、その展覧会図録とセットになっている別冊誌『中村彝・洲崎義郎宛書簡』の冒頭写真として大きく掲載されているから、括弧内に疑問符が付いたいわば旧説である<大正5年4月(?)28日>が、現物の書簡に当たった再検討の結果改められ、<大正5年2月28日>になったのかと、彝に関心のある人なら当然そう思ってしまうだろう。

事実、私はそのように感じてあらためてこの手紙をじっくり読み直してみたのである。

ところが、この手紙が大正5年2月28日に書かれたとするなら、ある重要な問題点、矛盾点が出てきてしまうことに気づいた。なのでこの点について次回具体的に書いてみようと思う。
コメント (1)
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3月11日(金)のつぶやき

2016-03-12 03:21:49 | 日々の呟き

「保育園落ちた、日本死ね」って端的に言えば、この生きづらい日本社会の現状に関して「助けてくれ!」「なんとかしてくれ!」っていうダイレクトなメッセージな訳ですよね。それを「言い方がどうの」と言って対処を回避してみたり、解説者風に冷笑して、社会が良くなるのかね。よく考えないとまずいよ

Riki67さんがリツイート | 299 RT

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