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久しぶりにブログ更新。もう一ヶ月くらい前になるが阿川弘之「井上成美」を読んだ。最後の海軍大将。
海軍一の知性とよばれ周囲の空気にかまわず正しいと思ったことは上司にもはっきりと発言するタイプの人だったようだ。米内光政、山本五十六のラインで日独伊三国同盟反対、日米開戦反対論者だった。
日米開戦時は第四艦隊司令長官として南太平洋トラック島に駐在。艦隊指揮官としては撤退・負けが続き戦下手と周りに評価され、後に海軍兵学校の校長に。日米が開戦し英語は適性語として国内では使用を次々と止めていた時代に。そんなことでは世界で通用しないと英語学習を頑として続けさせた。
昭和19年から20年にかけては戦争収束を目指し次官として米内海軍大臣を支える。終戦直前に中将から大将に昇格し次官辞職となるが、終戦に向けて米内大臣と工作を続けていたようだ。
終戦後は横須賀の静かな家に隠遁し、近所の子供に英語を教える等して静かに余生を送り決して時代の表に再び出ることを拒んだ。
なかなか頑固者で変人だったようだが気骨の人だったようだ。
大変興味深くイッキに読み通した。
久しぶりにブログ更新。もう一ヶ月くらい前になるが阿川弘之「井上成美」を読んだ。最後の海軍大将。
海軍一の知性とよばれ周囲の空気にかまわず正しいと思ったことは上司にもはっきりと発言するタイプの人だったようだ。米内光政、山本五十六のラインで日独伊三国同盟反対、日米開戦反対論者だった。
日米開戦時は第四艦隊司令長官として南太平洋トラック島に駐在。艦隊指揮官としては撤退・負けが続き戦下手と周りに評価され、後に海軍兵学校の校長に。日米が開戦し英語は適性語として国内では使用を次々と止めていた時代に。そんなことでは世界で通用しないと英語学習を頑として続けさせた。
昭和19年から20年にかけては戦争収束を目指し次官として米内海軍大臣を支える。終戦直前に中将から大将に昇格し次官辞職となるが、終戦に向けて米内大臣と工作を続けていたようだ。
終戦後は横須賀の静かな家に隠遁し、近所の子供に英語を教える等して静かに余生を送り決して時代の表に再び出ることを拒んだ。
なかなか頑固者で変人だったようだが気骨の人だったようだ。
大変興味深くイッキに読み通した。