みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

悲劇の大王ヒコナギと女王卑弥呼

2018年11月05日 | 俳句日記


結論から先に言っておこう。
邪馬台国が、福岡県八女市以外の場所に
あったならば、この物語は成立しない。
また、魏と呉が倭国で戦わなければ同じ
く成立しないのである。

この稿を書き始めてから始めて知った事
だが、邪馬台国の位置については、現在
二百もの説があるらしい。
であるならば、も少し大胆に発想してこ
の物語を書き進めようと思った。

論拠は、ウガヤフキアエズ王朝も邪馬台
国も意図して[記紀]から消されている。
双方とも文献学者が認めない[古史古伝]
、或いは記述を疑問視する[魏志倭人伝]
には登場している。

そして、年代を追えば存在していても不
思議では無い時代背景を持っている。
これらから推論を重ねていくと、不自然
では無い物語が出来上がったのである。

最終章は神武天皇の崩御から始まる。
即位がAD121年辛酉の歳、崩御が丙午の
歳であるから15年後、この干支は日本書
紀の在位表に依拠したものだ。

すると、AD136年に神武天皇が65才で
崩御され、四年後のAD140年(庚辰)に第
二代綏靖天皇が即位されたことになる。

[記紀]の否定派は、神武の在位が77年、
没年齢が127才なんて長すぎると全否定
をしているが、干支を丹念に辿ると普通
の寿命に行き着くのである。

綏靖天皇のお歳は若かった。


というのも、神武天皇は即位してから出
雲の事代主の娘五十鈴姫を正室として娶
り、三人の御子をなしている。
綏靖天皇は第三皇子であるからまだ十代
前半だった筈、故に四年待ったのか?

それにもう一つ問題があった。
八女ヤマトの吾平津媛の御子の存在で、
このタギシミミ命は東征前に産まれてい
るから、崩御時は三十代半ばであろう。

タギシミミ命は八女ヤマトでは、当然に
世継ぎと目されていたに違いない。
綏靖天皇が若くして即位するなど面白い
筈が無い、そこで反乱を起こした。

結局、鎮圧されて切られるのだが、この
反乱故に即位が四年遅れたのか?
いずれにせよ成立間もない大和朝廷にと
って、大王であった神武が御隠れになれば、当然朝廷の求心力は低下する。

そこに起きたタギシミミの反乱である。
八女ヤマトの威信は地に堕ち、北部九州
のタガは外れた。

そんな時、後漢の内政に異変が起こる。

党錮の獄

宮廷の官僚と宦官の勢力争いが生じた。
霊帝にはそれを抑える力は無い。

後漢の霊帝

中央の乱れは、諸国の乱れに直結する。
あちらこちらで小競り合いが始まった。


その頃、八女ヤマトに玉のような女の子
が産まれた、のちの卑弥呼である。
兄に卑弥弓呼がいた。
共に吾平津媛の血を引いている。


吾平津媛は既に他界して、八女津媛神社
の祭神となられていた。
神社には日高見から天照の一統が降りて
、筑紫の巫女の養成所となっていた。


卑弥呼が産まれて間もなく、後漢の内乱
は九州にも飛び火して来たのである。
これが倭人伝に言う[倭国大乱]である。
暦年主なしとは盟主が居ない事だ。


渡来系との攻伐が続くが、大和朝廷から
の援軍も届かなかった。
綏靖天皇も若過ぎて、先代の様に外征す
るような力は持てずにいた。

双方とも疲弊しきった時、渡来系からあ
る提案がなされた、天孫の血を引く者を
人質に送れというものである。
八女ヤマトに残って国を守って居た天孫
族は色めき立って戦さ支度を始めた。

奈良の朝廷も他人事では無い。
その時、日高見からこの時の天照大巫女
が御神託を受けるように勧めて来た。
天孫は常に天御中主神と共にある。


即日、八女津媛神社で誓約が行われた。


御神託が14才の卑弥呼に降った。

(…つづく)


11月5日〔月〕快晴
今日も冬晴れ。
時折吹く風に木の葉が
ハラハラと舞っていた。

梅光園遊歩道のイロハ紅葉が
この秋の気候に戸惑ったように
赤、黄、緑、茶そして
枯れ縮んだ葉っぱを
散らしていた。

今年は韓紅の秋の装いは
観られないのかもしれない。

〈業平も 萎れて帰る 龍田姫〉放浪子
季語・龍田姫(晩秋)











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