椎根津は明石を過ぎて播磨の芦屋に上陸
すると、随分と奥地まで長髄の陣を偵察
していたらしい。
吉備に帰還するまで半年もかかった。
「大君、長髄彦の軍は渡来系が殆どで、
広域に連合しています。
策もなく飛び込めば負けるは必定、
今暫くご猶予を」
「相分かった。出雲の状況次第じゃ」
こうしてまた幾年かが過ぎた。
出雲ではまだ駆け引きが続いている。
大国主はAD92年(壬辰)に二人の子の承
諾と巨大神殿の建設を条件に引退した。
それ以来の交渉である。
その事が神武東征の切掛ともなった。
AD120年、遂に大国主の長男事代主が
恭順した、弟の建御名方は突っ張る。
「者共、聞いた通りじゃ。
もし戦乱となって建御名方が長髄の軍と
合流すれば益々畿内平定が難しくなる。
ここは決断の時じゃ。
吾は進もうと思うがどうじゃ」
「御意!従うのみ」皆が賛成した。
「椎根、汝が先立じゃ、案内せよ」
「畏まりまして御座います」
こうして対出雲の備えの兵員を残して、
全軍が浪速の白肩津に上陸した。
長髄軍の備えは堅かった。
矢の雨の中、ひと矢が五瀬に当たった。
前進は無理と観て白肩津まで引いた。
五瀬が痛みに堪えて言った。
「ワシは押佐賀(吉野ヶ里)の攻撃が初陣
であった。あの時は筑後川を渡って朝日
を背景に押進んだ。敵の矢は太陽に目が
くらみ当たらなかった。
我々は天孫、陽を背に南から攻めよう」
イワレも椎根も手を打った。
次の日、東征軍は友ヶ島水道を南下して
熊野を目指したが、途中男水門(関西空港付近)で五瀬は亡くなる。
悲劇はまだ続く、熊野灘を回る頃シケに
合うと次兄の稲飯が「吾は海神の子ぞ」
と叫んで海に飛び込み、末兄の三毛入野
も波にさらわれた。
稲飯の自己犠牲がシケを収めはしたが、
イワレの落胆は大きかった。
残軍と共に熊野に上陸をして、吉野まで
進んだ所で全軍が精も根も尽き果てた。
この報は黒潮に乗り日高見に伝わる。
思金は出雲に居る武甕槌に連絡を取り、
鹿島・香取の残兵に[フツの剣]と糧秣を
持たせて援軍とし、吉野に派遣した。
イワレ軍は生気を取り戻した。
宇陀、磯城と敵を蹴散らし、遂に忍坂で
長髄彦と直接対決をすることになる。
イワレの念頭には五瀬の言葉しか無い。
夜の内に、陣を張る長髄軍の東に位置を
取り、太陽が昇ると同時に攻めかけた。
敵の矢は当たらない、のみならずイワレ
が弓を立てて屹立する姿に太陽が重なり
、その神々しさに敵はひれ伏した。
奈良の中州(のちの大和)に居たニギハヤ
ヒは、長髄彦が負けたのを知ると自分は
天孫であると主張して来た。
イワレは黙して[フツの剣]を示した。
どうやら長髄はニギハヤヒに東征軍は偽
の天孫と嘘をついていたのであった。
ニギハヤヒは直ちに長髄彦を切った。
そして、イワレに帰順したのである。
この報は出雲にも届く。
まだ抵抗していた建御名方は、長髄彦が
死んだと聞いて出雲を脱出した。
西も南も東征軍が柵を巡らせている。
残るは東北方向である。
武甕槌と経津主の包囲網を掻い潜って、
諏訪まで逃げた所で武甕槌に捕まった。
で、この地に永住する事で許された。
出雲の事代主はここに於いて自分の娘を
差し出すことで、全面講和を申入れた。
イワレはその娘を正室として迎え入れ、
日高見と出雲が一体となるのである。
AD 121年(辛酉)2月11日、イワレは中州
を大和と命名し、初代天皇として即位を
した。大和朝廷の始まりである。
居並ぶ豪族、臣下を前にこう宣下した。
《六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて
宇となさん。また可からずや》
意訳するとこうなる。
六合を‥この地域を合せて都を作ろう。
八紘を掩いて‥広い世界を一つ屋根の
宇となさん‥家族のようにしよう。
また可からずや‥楽しいではないか。
この「可」は「よ」と読む。
「べからずや」ではなく「よからずや」
であるから肯定的な問いかけとなる。
これが日本の建国の理念であった。
(…つづく)
11月4日〔日〕快晴
雲一つ無い冬晴れ。
また引きこもりの一日でした。
あと四日で卑弥呼の悲劇を
書かねばなりません。
解説は抜きにして
新幹線(超特急)で
書きますので悪しからず。
〈冬日和 新幹線に 乗らばこそ〉放浪子
季語・冬日和(冬)
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