鉄道模型のある生活ブログ

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

鉄道模型の費用

2024年01月25日 | 雑談

生命保険など営業の人が我が家に来て、棚に置いてある模型を見ると必ず言うことが「鉄道模型ってお金がかかるんでしょう?」

そう、一般の人は鉄道模型がお金がかかることをよく知っておられる。 私の返事はいつも、飲みに行ったり遊びに行ったり、ゴルフや海釣りなどでもお金がかかると思いますが、それらは消えて無くなってお金がかかった証拠がないのですが、鉄道模型はこうやって、形が残っているのでとてもお金がかかったように思われるのです。 でも、消えるものとあまり変わらないですよ。

なのでありますが、やはりお金はかかる。 カメラも高いのですが、カメラ本体をそう沢山は買わないだろう。 もっともレンズを揃えるとかなりの数にはなりますが、鉄道模型の車両は次々と欲しくなって、数に限りがない。

 

2005年に写した手持ちのHO車両ですが、これはヨーロッパ型。 同じぐらい日本型も持っているし、NゲージやZゲージもある。 知らないうちに山のように貯まるのですが、この2/3以上は手放して今はありません。 その代わり新しい車両が増えていますが・・・・。

だからお金がかかる。

なら自作したらと思うのですが

キット組み立て他自作車両ですが、これらは手放せないし、この後も増えています。

自作なら安いかと言うと、決して安くはない。 動力、台車、パンタグラフ他、車体以外にかかる費用がバカにならない。

基本的に安く上げるのは、プラ製のヨーロッパ車両を買うことだと思っています。 完成品だから余分なパーツ代に費用がかからない。 日本のプラ製、カトーは安いのですが、HOでは種類がない、 トミックスは最近は編成もので5万円では足りなくなった。 そして、日本型は小型車両がプラではほとんどない。 だから小型車の多いヨーロッパ型になるのです。

 

一番安く上げる方法は

この方、鉄道模型の大御所、坂本衞さんです。

手に持っておられるのが、自作のC51です。

キット組み立てではありません。 スクラッチビルトです。 多分買ったパーツはドームと煙突ぐらいでしょう。 

動輪も自作です。 この人は旋盤を持っていませんが、糸鋸とヤスリで動輪を作っています。 もちろん車体も完全自作。

モーターはジャンクの安物。

 

このC54も同じように作った完全自作。

 

客車も自作で、材料はもらった年賀状だとか。

だから、模型店で買うのは僅かなパーツのみです。

こうやれば確かに安く模型をすることはできます。

ただ、皆がこれをすると、模型店はつぶれる。 店もパーツを作っている会社もつぶれて無くなる。

昔、トレイン誌に、「みなさん、いつもパーツだけ買ったらダメです。 たまには高い完成車輌も買いましょう、そうしなければ模型店は無くなります」と書いてあった。 確かにそうなんです。

 

ということで、私は模型は完成品を買う。 もちろん自作もするけれど、完成品を買うのは楽だからだし、鉄道模型という文化が無くならないようにするためでもあります。 と言っても私一人が買えば模型産業が続けられるわけではなくて、たくさんの人が買わなければ成り立ちません。

私が最近買ったのは

TRIXのダブルテンダーの蒸気機関車。 サウンドDCCで、動輪の回転に合わせてドラフト音が出て、煙も同期して噴き上げるという優れものです。 価格はお高いです。 10万円越えで、私の今まで買った車輌で一番高価なものです。

お爺になって、今買わなければ買う時がなくなると、市販品で最新の技術が詰まった機関車を購入したのでした。

模型に10万円越えと言うと、普通の人は、高い!! 模型にはお金がかかるんですね、となるわけです。

でもね

イモンの蒸気機関車なら40万円するんです。 もちろん金属製でとても精密にできているので、当然の価格なんです。

品質が良いものが高いのは仕方がない。 

 

これは電車です。 蒸気機関車ほど手がかからないけれど、25万円と買いてあります。 2両での価格です。

やはり真鍮で完成品ならこれぐらいするのです。

これから見ると、私のTrixなど安いものだと思ってしまうのです。

たしかに真鍮製の精密な模型ですが、これって走らせてもインバーターの音もタイフォンの音もしないんですよね。

ここら辺りが、模型に対する考え方の問題で、精密で見た目にも素晴らしいものが欲しいのか、走らせて楽しいものが好きなのかです。

エンドウの製品も良くできていますが、高価です。 私が良いなと思った電車は4両で38万円でした。 とても手が出ないし、買う人がいるのが不思議なぐらいですが、惚れ込んでしまえば、お金は何とか捻出するのでしょう。

 

Nゲージなら安いと思っても、編成ものだと数万円します。

 

カトーの外国型のNゲージです。TGVには室内灯が入っているので高価でした。 こういう長い編成はNでも高くつきます。

これなら、HOの外国型の車両を楽に買えます。 この一編成とHOの電気機関車一台と同じぐらいかもしれないし、うまくゆけばサウンドDCCの機関車も手に入る。

客車もヨーロッパ型でも1万円程度であるので、トミックスよりも安いぐらいです(HO)

さて、何を言っているのか分からなくなりましたが、鉄道模型にはある程度の金がかかる。 これは他の趣味でも同じで、そこにお金を落とさなければ、その産業が成り立たない。 だから、ケチりすぎも良くないので、模型を続けるためにも、自分のできる範囲でお金を使いましょう。

なのですが、メーカー側も、沢山の人に買ってもらうためには適度な金額で製品を出さないと、僅かな凝った人だけしか買ってくれなくなる。 このためには、買う側、我々ユーザー側も、凝った高価な製品だけに的を絞るのではなくて、お遊びのつもりで、多少出来が悪い、いや言葉を変えて、精密度が低くても構わないと思うようにしなければ、製品価格は上がる一方です。

そして、面白いことに走らせて楽しむのは安い製品の方がよく走るし、壊れないし、扱いも雑で良いので楽しめるのです。

魚釣りで言われた言葉ですが、鮒釣りにはじまって鮒釣りに終わる、 鮒釣りなんて子供の釣りで、大人になると海釣りや挙句の果てにクルーザーで釣りに行ったりしますが、歳いって悟りが開けると、鮒釣りを心底楽しめるようになると言うことです。

模型で言えば、小型車両しか買えなかった子供が、お金があるようになると長い編成物や高額な車両を手に入れて所有欲?に溺れるが、歳をとると、また小さな車両に深みを感じると言うことでしょうか。 ここで小さなとはゲージが小さなではないですよ。 年寄りは小さなゲージは見えないので、ゲージは大きくても短い編成や小型の車両ということです。

 

HNモジュールでこういう小型車両を走らせるのが良いんです。

和洋折衷、大歓迎! それこそ模型の世界ですから。

ちなみに、私も同型の機関車を持っていますが、オーストリア型で、メーカはROCO社。 足回りはダイキャストでフライホイール付きのモーターで、とてもスムーズに安定して走る。 価格は私が購入した時には2万円ほどでした。そして、30年ほど使っています。 安い買い物でした。

 

模型を安く済ますためには思い入れを捨てることでこざんす。

 

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2001年 ウイーンECRの旅 その8  ハンガリー 2  ゲッレールト温泉

2024年01月24日 | 海外旅行

ウイーンに着いて3日目、ハンガリー、ブタペストに行きました。

ブタペストで行きたい所は

1)温泉: ブダペストは温泉の街で市内に100箇所ぐらい温泉がある。 

   その中で有名なゲッレールト温泉にゆきたい。

2)王宮: ブダ地区にある王宮の丘からドナウ川を見たい。

3)鎖橋: 王宮から山を降り、ライオンの像がある鎖橋を渡ってペスト地区から駅に戻って帰る。

 

ブタペスト東駅に着いて、お金も1日に使う分を考えて両替して、いまから地下鉄、市電の一日券を買います。

ここは駅前広場のように見えますが、地下です。 ここにチケット売り場があるので行きますが並んでいる。 並んだが買い方がさっぱり分からないので、後ろの人に迷惑がかからないように一番後ろに並び直す。 チケットの種類や言葉がわからないので気を使うのです。 ちなみ一日券の料金が800Ftとメモにありましたが、ハンガリーのお金の単位がFtだったのでしょう。

 

地下鉄に乗ります。 かなり古い、錆だらけだ。 たしかブタペストは世界で最初に地下鉄ができたと聞いていたので、古いのは仕方がないが、これがその車両かな? そんなはずはないけれど。

 

それにしても雰囲気がありますね。

 

場所名は忘れましたが、交通の要になっているところ、ここから市電でゲッレールト温泉に行きたい。

生憎の雨、2月の雨なので寒い。 乗り場がいくつかあり、言葉も標識も読めないので大苦戦。

そして、最近まで共産圏だったこともあり、皆の服装も暗く、なんとなく怖い雰囲気で、緊張しているのです。

市電の行き先はわからないし、あちこちにある乗り場をうろうろして何とか市電に乗り込みました。 市電の形は好きな形です。顔が細いのが好きなんです。

 

市電の車窓から見るとやはりヨーロッパの街の雰囲気ではありますが、暗いのは雨のせいか?

 

こういう車とすれ違うと、やはりソ連の名残が残っていると思ってしまいます。

 

こんな車両が展示している所がありました。  市電の客はどんどん減っていって、何となく寂しい場所に来た。

そして、終点。 えっ〜  間違って反対行きの市電に乗ってしまっていたのでした。

 一日券があるのでチケットは気にしなくても良い、乗り換えて、ゲッレールト温泉を目指します。

 

ここが終点だったのかどうかわからないのですが、市電の停留所の写真として載せておきましょう。

 

今度は右手に王宮の丘、左にドナウ川を見ながら川岸を走ります。 これは鎖橋ではありませんが大きな橋です。

 

はーい、ゲッレールト温泉到着、と思ったら、これはゲッレールトホテルの入り口。

温泉の入り口は横の方とのこと。

 

たしかこれが温泉の入り口。 立派でしょう!

 

中にはこれ。 値段が書いてあるのか時間が書いてあるのかわからないよ〜

そして、券を買う場所が右と左の二箇所あって、どちらも何人も並んでいる。 さて、どちらに並ぶのかすらわからない。

ままよ、と並んでいたら、どなたかがこちらは違うと、反対側に並ぶように教えてくれた。

どうも、温泉とプールに分かれていたのかもしれない。

 

入るとこの立派さ。 でもね、どこにいったら良いのかわからない。 言葉は通じないし。 案内標識があっても読めないし。

 

立派でしょう? 椅子があるので座って様子を見る。 そういう時間も優雅な感じ。

 

そのうちに温泉の入り口らしい場所を発見。 知らなければ入って行けないような扉です。

 

入り口で何やら聞かれて、鍵とバスタオル、フンドシらしきものと袋に入ったシャンプーを渡された。 地下に降りると更衣室が並んでいた。 何となく牢屋のような感じがする。

 

この中で裸になりふんどし一丁になるようだ。 なにせ、システムが分からないのでビビりながらの行動。

そして、大失敗だったのが、タオルを持っていなかったのだ。

 

温泉です。 広い。 浴槽は右と左の2つあって、36度と38度、どちらもぬるい。 この温度がハンガリー流なのだろう。

でもって、普通のタオルを持っていないので体を洗えない、というより拭けない。 顔を洗ってフンドシで顔を拭くという様になったのであります。

奥に、マッサージと書いた所があったので、ゆくと、台の上にうつ伏せに寝て、大きな毛むくじゃらのおっさんが、マッサージというより、タワシで体を擦るに近い。 そして太いホースでお湯をかける。

まるで、マグロの解体前に洗っている感じだった。 まあ、何事も経験。

 

と言うことで、ゲッレールト温泉すばらしいでしょう?

さて、これから王宮に行って昼食にしよう。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

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新レイアウトの製作 その69  農家作り

2024年01月22日 | レイアウト

昨日、後醍醐天皇を載せたら、書くのに3時間も掛かってしまいました。 あのような記事は大変。 今日は工作の記事ですが、これならすぐに書けます。

 

先日作った石炭台ですが、梯子が太すぎた。

 

ジャンク箱を探すと、以前使っていた梯子が見つかったので交換しました。 少し細いだけで感じがずいぶん変わりました。

 

こちらも感じが変わった例です。 小道がありますが、ここに

 

車を置くと、ぐっと生きた感じになりました。 イタリア土産でいただいた車です。 ありがとうございました。

 

さて、

広大な土地を作っています。 ここに農家を置くつもりです。 こういう地面を作るのは良い手法を知らないので、いろいろな材料を使っています。 レイアウトで難しいのは地面です。 草を生やせば簡単ですが、土のままでの表現が難しい。

 

ファーラーの農家のキットやいろいろな小物を買いました。 

今この写真を見て、ナローの貨車があることに気がつきました。 買ったことを忘れています。 何処かにしまったままです。 それに、ファーラーの地面か何かの塗料がある。 これも使わずにしまったままだ。 通販で買ったので、現物を見ながら買ったのと違って、忘れやすいんですね。 歳のせいではないですよ?

 

ファーラーの農家です。これって13000円ほどしたんです。 ですから部品点数が多いことおびただしい。

 

キットそのままで作っても良いのですが、車両のキット同様、キットを素材と思って手を加えます。

鉄道模型で家のプラキットだと、みんな馬鹿にするようです。 プラを組んだだけだと。

でもね戦車や車のプラキットを作っている人は、それこそ、すごく手を加えて本物そのものというような作品に仕上げています。

そこで、この壁に手を加えます。

壁はざらざらにはできているのですが、さらに凹凸をつけるために、ナチュラルサンドを塗りました。

 

そのままではピカピカ光るので、艶消しクリアーを吹きました。

 

この壁の木組みが凹凸があると思っていたら、単にプリントでした。 以前に組み立てたレストランと同じ。 カタログや製品の箱の写真では木の部分が盛り上がっているように見えるのですが平面です。

この壁にもナチュラルサンドを塗って

 

木組の間は艶消し白を筆塗りです。 まあ手間がかかること。

このほかにもいろいろパーツがあるのですが、色塗りが大変、 それに何色を塗ろうかを考えるのも、どこに使うパーツなのか分からないと色を塗れない。 もちろん、色塗りしなくても組み立てられるのですが、まあ,拘りです。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

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後醍醐天皇

2024年01月21日 | 雑談

私が、高齢者学校で「ちゅうせいし」に行っていると言ったら、友人たちは皆「ちゅうせいし=neutron」だと思ったそうですが「ちゅうせいし=中世史=歴史」です。 それぐらい私は理系頭で歴史には縁がない。 すなわち詳しくない。 他のクラスが満員で行ける講座を探していた時に、そういえば、鎌倉から室町に変わった辺りのことを全く知らないことに気が付き、それじゃあちょっと、その辺りの歴史でもと思って習ったのが中世史です。

さて、後醍醐天皇

時代背景としては

鎌倉末期、鎌倉とは北条ですが、北条の力が弱くなって来た頃、後醍醐が天皇になった。 当時天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれていて、交互に天皇になっていた。その頃は10歳ぐらいで天皇になり実権は院、すなわち天皇の父親が握っていたが、本当の実権は北条すなわち鎌倉が握っていた。 後醍醐は子供の時から不遇に扱われ、天皇になることなど考えられなかったが、色々のどさくさで、一代限りの天皇ということで、子供は天皇にできないことを条件に31歳という天皇としては高齢で即位した。

ここから話が始まります。 あまり真剣には考えないで、詳しくはないので。

先日の展示です。 バックグラウンドを白にしました。

これに沿って話をすると、後醍醐天皇がつぶやきます

 

①「やっと朕が天皇になれたか、今までは10代の若造ばかり天皇になって、鎌倉(北条)の言いなりで、今度も、一代限りの天皇との条件付きだ。 朕は31歳じゃ、周りの者の言いなりにはならんぞ。」

 鎌倉にはすごい恨みを持っているんです。

 

②「持明院統を支持している鎌倉幕府を滅ぼしたい。 うわー、鎌倉にバレた。 3種の神器を持って比叡山に逃げたがダメだ、笠置に逃げよう。見つかって京都に引き戻されてしまった。」

 鎌倉を滅ぼしたい画策は2度行って、初めは鎌倉に見つかり家来たちが処刑されたが後醍醐天皇は見逃された。 その後、1331年 また同じように画策して、鎌倉幕府から攻められ、今度は京都の南、関西線の笠置辺りの山に逃げ込んだ。 その時の服装は汚れて、天皇ともあろうものがと言われながら逃げ、戦いで敗れて京都に引き戻されてしまった。

後醍醐「わしは悪くない!天魔の所為じゃ!」

鎌倉幕府「後醍醐を隠岐島に流せ。 天皇として、光厳天皇を立てよう」 

天皇を排斥されて隠岐島に流されてしまった。この時側室の阿野 廉子も行っている。

 

③「朕は悪くない!天魔の所為じゃ!でも、隠岐に流されてしもた。」

後醍醐「あーあ、隠岐島に流されてしまった。 でも、息子の護良親王や楠木正成、赤松則村らが、反鎌倉幕府を掲げ各地で暴れ回っている。 よーし、わしも隠岐島から逃げ出そう

そこで、イカ釣船のイカの下に隠れて隠岐島から逃げたという。

 

④「隠岐から何とか逃げ出した。鎌倉から来た足利高氏が朕に味方して、京都に入れた。尊氏の名を授けよう。 新田義貞も挙兵して鎌倉を攻めて、鎌倉幕府(北条氏)滅亡じゃ」

 鎌倉から後醍醐天皇を討に来た足利高氏が、鎌倉を裏切って後醍醐についたのです。 京都に入り、新しい天皇をクビにして自分が天皇に戻った。 そして当時地方の豪族が北条に対して不満を持っていたので、新田義貞を筆頭に鎌倉幕府を倒したのでした。 後醍醐46歳の時です。

 そして足利高氏は後醍醐天皇から尊の字をもらって、以後足利尊氏になるのですが、当時上の人から名前をもらうというのはとても名誉なことでした。

新田義貞  足利尊氏

 

⑤「いよいよ天皇と公家中心の政治をするぞ! 建武の新政じゃ」

 自分がトップになり新しい政治を始めたのですが、理想とするのは平安時代の貴族が支配する天皇中心の政治です。

 何かにつけ貴族に厚く、武士には恩賞もない。 これには全国の武士が怒り出した。

 

⑥「北条の生き残りの北条時行が鎌倉を取り戻した。それを足利尊氏が成敗したが、尊氏が、朕を裏切って京都に攻めてきたので比叡山に逃げた。

鎌倉は関東を治めるために役所が置かれていました。 それをわずか10歳の北条時行が占領したのです。もちろん北条家ゆかりの武士たちが戦ったからですが、これを治めに足利尊氏が鎌倉に行って倒し、鎌倉を取り戻した。 

でも、今度は足利尊氏が鎌倉にいすわって、挙げ句の果てに後醍醐天皇を裏切って京都に攻めて来た。 これも、後醍醐の武士に対する政策がまずく、たくさんの武士の不満が募っていたからでした。 

 

ここからが面白い

足利尊氏は京都に入り、後醍醐天皇を追い出したのですが、後醍醐天皇は奥州にいる北畠顕家に助けを求めます。

北畠顕家 この人は京都の公家の息子です。 16歳で奥州を治めるために、陸奥将軍府の長となっている。

公家の衣装の下に鎧を着ている、若くて格好良い人なので芝居や漫画でもよく出てくるそうな。

 

⑦「北畠顕家と新田義貞が京都に来て、足利尊氏を九州に追い遣ってくれて京に戻れた」

 北畠顕家が奥州から京都に来た速度は、秀吉の中国大返しよりも速かったと言います。 あっという間に東北から京都まで来た。 東北は馬の産地であったために馬による進軍だからと言われています。 こうして足利尊氏に勝利して、尊氏は九州に逃げ、京都を取り返し、後醍醐天皇はやれやれでした。

 

⑧「足利尊氏が九州から攻め上ってきて楠木正成も討たれて、花山院に幽閉されてしまった。 3種の神器も取り上げられた。」

 九州に逃げた足利尊氏が軍を立て直して、またまた京都に攻め込んできた。 この時迎え撃った楠木正成も討たれてしまった。そして、花山院に幽閉され、またまた天皇を排斥されて新しい天皇がたち、3種の神器も取り上げられてしまった。

 

⑨「仕方がない吉野に逃げよう。渡した3種の神器は偽物じゃ。北畠顕家、新田義貞たちよ足利尊氏を討て!」

 また逃げたんです。 吉野は京都から近鉄特急で乗り換えを入れて2時間ぐらい、そこからロープウエイで山を登ってと、当時どれぐらいかかったか知らないが奈良の山奥の淋しいところですが、金峯山寺は当時からあったと思います。 3種の神器は偽物だと、この言葉が本当かどうか疑わしいのですが、吉野から全国に足利尊氏追討の宣旨を出している。

一方、京都では新天皇の元に、室町幕府が誕生、足利尊氏が初代将軍になっている。 もう勝負はついたようなものなんだけれど。

北畠顕家もまた奥州から出かけて来ますが、今度はあちこちの武士集団が反後醍醐天皇なので戦いながらの進軍で一向に進めないが、なんとか関ヶ原を越したあたりまできた。 その時には兵の数も減っていて、京都から来た足利の軍勢に太刀打ちできないので、奈良周りで大阪の堺まできた。 その間も何度も戦っているのですが、堺からは後醍醐天皇の政治を改めるように後醍醐天皇に直訴状を出しています。 そして石津川の戦いでついに北畠顕家戦死。 若干21歳です。

石津川は私が中学生の頃に親の仕事の関係で何度も行っていて、田圃の中に風車、オランダよりずっと小さいけれどあちこちに風車があったので記憶にあります。 

そして、新田義貞も戦死。

 

⑩「北畠顕家も新田義貞も戦死した。全国にいる我が息子たちよ、頑張って戦え! !」

これで後醍醐天皇の味方はいないかと思ったら大間違い、息子たち、すなわち親王ですがこの人たちをあちこちに赴任させて豪族を集めて、戦うように指示しているのです。

でもね、みんな死んで行くのです。 かわいそうに。 ちなみに後醍醐の子供は36人です。 うわー多い。 

と思ったのですが今テレビでやっている紫式部の頃の天皇は、子供40人とか50人とか居て、それらの子供たちをある程度の役職につかさなければならないので大変だったようです。

 

⑪「あーあ、自分が死んでしまった。墓は京都に向かって建てろ!」

 1339年 後醍醐51歳です。 これで南北朝が終わったのではありません。 この後に息子の後村上天皇がたち、南北朝はこの後数十年も続き、金閣寺を建てた足利義満の時に、南北朝合一がなされたのです。

なぜ、後醍醐の後何年も南北朝が続いたかというと、人それぞれ思惑があって、都合によって南朝についたり北朝についたりした人たちがいたからです。

ということで、後醍醐天皇でした。 すごい人ですね、 何度逃げたことか。 人を巻き込んで息子たちも死に追いやって。

不屈の帝王と本には書いてありましたが、屈していれば不幸になる人が少なかったのに。

武士の世になっていたのに、それが分からなかった。気に入らなかった?

おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2001年 ウイーンECRの旅 その7  ハンガリー 1

2024年01月19日 | 海外旅行

皆はウイーンからザルツブルグに日帰りで行きましたが、私はほぼ半年前にザルツブルグに行っているので、単独行動でハンガリーのブダペストに行くことにしました。 日帰りです。

 

ハンガリーはオーストリアの隣です。 ウイーンから鉄道がつながっています。 ちなみに、ウクライナが右上に見えますが、もちろん鉄道でつながっています。

 

Wien Ost 東駅、朝 6:46発    Budapest-Keleti pu 東駅着 9:18  の 特急 EC41 に乗ります。

所要時間は2時間32分です。 冬の朝なのでまだ薄暗いです。

 

駅にはこんな客車も止まっていました、 この頃からラッピングか手書きか知らないけれど、派手な車両が走っていたんですね。

 

客車はこれ、ハンガリーの一等車です。 

 

MAVがハンガリー国鉄なので、模型を買う時にもMAVとあればハンガリーと分かってくださいね。

 

コンパートメントではない車両だったので中はこんな感じ。 一等なのでゆったりしています。 なお帰りの客車はコンパートメントでした。

 

ウイーンを出てしばらくするとハンガリーに入ります。 景色はどんなものかと一生懸命窓の外を見ています。 なにせ珍しい国ですから。 ただ冬景気なので寒そうな感じだけでした。

 

車内はがらがらで、私とこの人の二人だけみたい。 なにせ朝早い時間の列車ですから。 

すると、この人が話しかけて来ました。 英語です。 片言の英語で返事をしているのですが、この人は鍋の蓋のつまみを売っているとか。 聞き間違えかもしれないけれど、身振り手振りでもそう言っているので、多分鍋蓋のつまみを商売にしているのだ。 そして、今からウクライナに売りに行くと言う。 ウクライナ? 思わず、すごく遠いところだと思ってしまった。

皆さん今ならウクライナの名前はよく聞くでしょうが、ウクライナといえば女子の体操が強い国だとしか覚えがありませんでした。 チャスラフスカ? いや彼女はルーマニアだ。

でもこの時に、ブタペストから先にウクライナがあるのだと理解しました。

でも、この人、かなり怪しげな顔をしているでしょう。 眉毛が濃くて少し怖い感じです。

 

ハンガリーに入って車掌が検察に来ました。 ひょっとしたら国境警備員かもしれません。

私は切符とパスポートを見せてさっと終わったのですが、この人はすごーく長くかかっていました。 あの顔だから怪しまれたのかな?

 

一息ついて私はいつものように食堂車でコーヒーです。 ウエイトレスに写してもらいました。

やはり、食堂車でゆったりコーヒーは気分が優雅になります。

 

途中こんな機関車や

 

こんなローカル線を見たりして、

 

ラッパのマークは郵便車です。 へぇ〜 ハンガリーの郵便車は緑なのだ。

いよいよブタペストに近づいて来ました。

 

ブダペスト東駅構内。 この機関車はどこの国のものだろう? MAVではないだろう。 ルーマニア? 初めの地図を見てみよう。 ハンガリーはオーストリア、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、ユーゴスラビア、クロアチア、スロベニアとたくさんの国に囲まれているので、いろいろな国からの車両が入ってくるのだろう。 日本では考えられない。

 

ブタペスト東駅到着。

 

立派な駅です。 でもね、まだユーロではないのでハンガリーのお金に換えなければならないのです。

さて、これから、大苦労しながら、すばらしいハンガリーの1日が始まります。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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