八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「異邦人の信仰に驚かれる主イエス」 2016年1月24日の礼拝

2016年09月05日 | 2015年度
イザヤ書56章3~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。


マタイによる福音書8章5~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。



  先週と同じく、マタイによる福音書8章5~13節を読んでいただきました。
  8~9章に、主イエスの奇跡が集中して記されていますが、2番目の奇跡です。また、異邦人に為されたものとしては、最初の奇跡でもあります。
  異邦人に対して為された奇跡は、それほど多くありません。マタイ福音書8章28節以下のガダラ人の地で悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出したことや、15章21節以下にある主イエスがカナンの女性の娘を癒したことなどです。
  そのうちマタイによる福音書15章21~28節を見てみましょう。
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」
  主イエスが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とか、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃっている言葉は、とても差別的で、侮辱的に響いてきます。
  しかし、主イエスは異邦人が救われるに値しないと言う意味でこれらの言葉を語っているのではありません。そうではなく、ご自分の使命が何であるかを、告げておられるのです。
  「イスラエルの家の失われた羊」とは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人は、神の民です。その神の民であるユダヤ人が、神の御心から離れた生き方をしている。そこで、その神の民を、神の御許に立ち帰らせるために使わされている。それが、主イエス・キリストに与えられている第一の使命だということです。ですから、異邦人はどうでも良いとおっしゃっておられるのではなく、まず最初にしなければならないことは、神の民に対する働きかけだとおっしゃっておられるのです。その上で、主イエスは、異邦人に対しても救いの手を差し伸べておられるのです。今日の百人隊長の僕に対して、また先ほどのカナンの女性の娘に対して、またマタイ8章28~34節の悪霊に取り憑かれたガダラの人に対しても救いの手を差し伸べておられます。
  マタイ15章のカナンの女性におっしゃった「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というのは、異邦人を救わないという意味ではありません。そうではなく、物事の順番を告げているのです。すなわち、まず神の民に対して働きかけ、その上で異邦人に働きかけるという順番を大切にしておられるということです。
  順番が大切ということで、注目していただきたい御言葉があります。マタイ22章35~40節です。
  「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」
  神を愛することが第一で、人を愛することが第二といわれています。それは、人を愛することがどうでも良いという意味ではありません。神を愛することと人を愛することは、どちらも重要であり、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているとおっしゃっておられるのです。しかし、神を愛することが第一で人を愛することが第二であるという順序は重要であり、順序が逆になることは決してないということを示しておられるのです。
  ユダヤ人に対する働きかけが第一であり、異邦人への働きかけが第二であるというのも、これと似ています。ユダヤ人だけが救われるというのではありません。異邦人が救われることも同じように重要なのです。父なる神も御子である主イエス・キリストも、両者の救いをとても重要なこととして考えておられるのです。

  それでは、主イエスは、何故ユダヤ人を第一に働きかける対象とされたのでしょうか。
  それを知るためには、神が何故ユダヤ人をお選びになったかを振り返らなければなりません。創世記12章にユダヤ人の先祖アブラハムの召命物語が記されています。そこに、神がアブラハムとその子孫であるユダヤ人が選ばれた理由が示されています。
  「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章2~3節)
  ここに、アブラハム(この時はまだアブラムと呼ばれていました)は、神から祝福の約束を受けます。それと同時に、「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とも言われています。これは、アブラハムに与えられた使命です。すなわち、神の民は、神から祝福を受けると共に、全ての人々が神の祝福を受けることができるようにするという使命を与えられているということです。
  このアブラハムに与えられた祝福と使命は、アブラハムの息子であるイサクにも、そしてイサクの息子であるヤコブにも似たような言葉で与えられているのです。アブラハム、イサク、ヤコブという3代にわたって与えられたこの祝福と使命は、3人だけの祝福と使命ということではなく、その子孫であるユダヤ人すべてに与えられている祝福と使命なのです。
  ちなみに、今日のマタイ福音書8章11節にも、この3人の名前が出てきていましたが、単にユダヤ人の先祖というだけではなく、祝福と使命をになう者として神の民の歴史が、この3人から始まったという重要な意味を持っているのです。
  ユダヤ人は、全ての人々が神から祝福されるために選ばれた神の民なのです。神から選ばれた民、すなわち、選民というのは、自分たちだけが幸せになるために選ばれたというのではなく、全ての人々が幸せになるために、先に選ばれた人々ということなのです。言い換えますと、全ての人々が救われるための器として、ユダヤ人が先に選ばれたということです。神がユダヤ人を神の民としてお選びになった目的は、全ての人々が救われることにあったのです。

  しかし、神から与えられた祝福と使命は、長い年月の間にゆがめられていきました。それはユダヤ人だからゆがめられたというのではなく、誰しもが陥りやすい落とし穴に、彼らも陥ってしまったと言った方がよいでしょう。
  どういう落とし穴なのでしょうか。
  それは、自分にとって都合の良いことは聞くのですが、あまり関心がないことは忘れてしまうということです。
  ユダヤ人たちは、「私はあなたを祝福する」というアブラハムに与えられた言葉はしっかり記憶していましたが、「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という使命は、いつしか忘れられていってしまったのです。これが、彼らが陥った落とし穴なのです。
  新約時代、ユダヤ人が異邦人をどのように見ていたかが、使徒言行録に記されています。
  使徒言行録10章28節。「彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。』」
  これが、当時のユダヤ人たちが持っていた「ゆがめられた選民意識」なのです。そして、ユダヤ人だけではなく、異邦人もこのユダヤ人の異邦人に対する考え方をよくわきまえていたのです。
  今日のマタイ福音書の百人隊長が「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と言っているのは、その事を示しています。
  このようなユダヤ人と異邦人が持っていた意識は、旧約聖書の時代からありました。そして、神はたびたび預言者を通して、そのような誤った理解を正そうとされたのです。今日、司式者に読んでいただいたイザヤ書56章もその一つです。神の御心は、全ての人が救われることであったことをしっかり心に留めておくべきです。
  さて、主イエスは百人隊長の言葉を聞いて感心したとあります。
  「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」(10節)
  主イエスが驚かれたのは、百人隊長が言った「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 (8~9節)という言葉です。単に機転の利いた言葉ということではありません。主イエスに対する百人隊長の絶対的な信頼が現れているのです。主イエスの御言葉の力は、遠くはなれている相手に対しても確実に及ぶという確信に満ちているのです。
  11節。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」
  これは、異邦人の方が信仰的に優れているということをおっしゃっているのではありません。確かに百人隊長の言葉は信仰的にすばらしい言葉であったに違いありません。しかし、全ての異邦人の信仰がすばらしいと言うことではありません。主イエスは、全ての人々が救われることは神の御心であることを明らかにしておられるのです。
  そして、12節の「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」というのは、全てのユダヤ人が救いの対象から外されると宣言されているのではありません。むしろ、そうなりはしないかと危ぶんでおられるのです。
  「神の民であるユダヤ人が異邦人の救いのために選ばれた。しかし、そのユダヤ人の方が救いからこぼれ落ちはしないだろうか」と心から嘆き、心配する言葉なのです。
  私たちは、百人隊長のような信頼に満ちた言葉をいつも口にするわけではありません。それにもかかわらず、私たちは、全ての人々救おうとされている神の御計画によって、すでに救いの中に入れられているのです。神の民に加えられているのです。しかし、神の民に加えられたというところで留まっていてはいけません。アブラハムと同じように、祝福と共に、「祝福の源」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という使命も与えられていることを忘れてはならないのです。私たちだけではなく、私たちの周囲の人をも救おうと、神は御計画を進めておられるのです。その人々が救いに入るようにと、それらの人々に先駆けて、私たちが救われているのです。私たちは、全ての人々が救われるようにと選ばれた、祝福の器なのです。周囲の人々のために、執り成しの祈りを神に献げ、また、周囲の人々に対して、「神はあなたを祝福し、あなたを救われる。その神を心から信頼して歩みなさい」と力強く伝えていくことが、私たちに与えられている使命なのです。