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てっしーずのおでかけ日記

観たこと、聞いたこと、気づいたことを書くよ!

はじまりはジャズ・エイジ

2011年07月15日 | 本の記録
John Hiatt - Warming Up To The Ice Age

はじまりはジャズ・エイジ
常盤新平 著 講談社

古本屋で安く買ったのですが、発行されたのは昭和54年。
1970年代に雑誌に載った原稿をまとめたエッセー集です。
「男子専科」、「世界」、「朝日新聞」、「ハイファッション」など原稿が載った雑誌は様々ですが、名前も聞いたことのない雑誌も少なくなく、時代を感じさせます。
米国文化に造詣の深い著者だけに、当時の米国文化や1920年代のアメリカ文化に関する内容になっています。
当時、アメリカの雑誌が変革の時を迎えていて、「ライフ」、「タイム」といった雑誌が廃刊に追い込まれ、「プレーボーイ」、「ペントハウス」といった雑誌が勢いを伸ばしつつあったことを初めて知りました。
テレビに雑誌が押され、大きな部数をもつ雑誌ほど苦境に立ち、読む人が特化された少ないけど読者層の読める雑誌に広告が多くはいるようになった、というのは、今も聞く話のようんで興味深い。
セレブなシニア向けの雑誌は売り上げ部数が少なくても、広告収入で十分ペイできるなんて話は時々耳にします。
逆に安く広くをモットーにしている新聞のようなメディアはこれからますます大変なんだろうなあ、などと考えてしまいました。
新聞やNHKはもっとがっちりお金をとって、内容をレベルアップさせて欲しいという気が個人的にはしますが。

雑誌の話以外で興味深かったのは、著者が当時翻訳書を出していたゲイ・タリーズの話。
恥ずかしいことに私はタリーズもノーマン・メイラーもまったく読んだことがありません。
かつての人気作家なので古本屋で安く売っているのは見ているものの買う勇気がありませんでした。
社会派ノンフィクションを書いた作家という、ぼんやりとしたイメージしかなかった、ふたりの作品の描き方がどう異なり、それは何を意味しているのか実に明確に説明されています。
取材中、決して録音機をまわさなかったというタリーズの取材方法も実に興味深い。
そのタリーズがもっと敬愛した作家がジョン・オハラとアーウィン・ショウだったというんですから。
基本的に作家が自分の書いた本や知り合いの作家の本の紹介をする文を信用しないんですが、これは別格におもしろかった。
ニュー・ジャーナリズムと呼ばれた作家の文章を読んでみたくなりました。

常盤新平の文章を読むとなぜか村上春樹のことを考えます。
翻訳家村上春樹の作品のチョイスには常盤新平に近いところがある気が何となくするせいでしょうか。
ですから、グレイス・ペイリーの話が出てくるのは嬉しかった。
実は、この本を立ち読みしていたら、グレイス・ペイリーの名前が出てきたんで思わず買ってしまったんですね。
そうか、やっぱりグレイス・ペイリーは常盤新平にとっても気になる作家だったのか、と思って。
あの村上春樹訳の本は、村上春樹だから出せたんだろうなあ。
この本の書かれた時期、常盤新平は早川を辞めてフリーで原稿を書いていた時期。
当然、直木賞もまだとっていない。
こういう時期のエッセーをまとめて読めるというのはいいもんです。(ひ)



トラウマの国ニッポン

2011年06月29日 | 本の記録
七人の刑事 子供の頃、生首の出てくる話がトラウマになるほど怖かった。多分、フランキー堺が生首の男だったはず・・・・・・

トラウマの国 ニッポン
高橋秀実
新潮文庫
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/133553.html

かなり刺激的なタイトルがついてますが、別に日本文化論や経済関係の本でもありません。
自分が何者なのか探しているのかどうかはわからないけれど、客観的に見たらどうにも変な日本人の行動や思考について書かれています。
夢は「普通の大人になること」という小学生が多いのは困ったことなのか、職場で英語が必要になったため、部下に隠れて英会話スクールに通うベテランサラリーマンの悲哀、田舎のスローライフに憧れて実践するとハードライフを送らざるをえない不思議さ、といった今の日本人の悲喜劇を等身大に紹介している、ある意味、身も蓋もない本です。
高橋秀実の本はかならず身も蓋もない内容になっている。
若い人たちは困ったもんだね、とか、政治家というのはやっぱりどうしようもない人間といった安易で心休まる結論は絶対に許してくれない。
新聞の投書から文化人のコラムまで、世の中には安易な批判があふれかえっている。
そりゃあ確かに東電や管政権はどうにもならないけど、どうしてそんなにダメなのかちゃんと考えれば、そう考えている自分の駄目さ加減にも気付くし、なぜこんな現状なのかという理由もそれなりにあるはずなのです。

高橋秀実は読者に簡単に媚びてくれないから、読んでいる方も最後までいろんな方向へ振り回され、確かに困ったなあ、でも、まあいいのかこれで、という変な落ち着き方で読書を終えることになる。
こういう人が東電の取材をしてくれるといいのになあ。

全部で12個あるトラウマ話(?)の中で一番印象に残ったのは「妻の殺意」。
これは怖いですよ、まあいいのかこれで、とは思えません。
世の女性の中に、ふとした瞬間、夫に対して殺意を抱いたり、ずっと殺意を抱き続けているという人が少なくないとは。
食後に、お茶碗をお湯につけないから、という理由でそこまで考えたりするものなんですねえ。
いや、こんなのんびりしたことを書く無自覚男こそ殺意の対象らしい。
どうもすみません。(ひ)


東京の昔

2011年06月20日 | 本の記録
東京の昔 吉田健一著
ちくま学芸文庫

この本に興味をもったのはビッグイシューの書評にされている記事を読んだからでした。
どういう紹介文だったかよく覚えていないんですが、まるで戯曲のような小説みたいだ、と思って、吉田健一が戯曲を書いたら相当面白いに違いない、と勝手に思いこんで読んでみたのでした。

実際、読んでみると、これはなかなかに紹介しにくい小説でした。
小説でなくてエッセーだと思えるような文章ですが、やはり小説に違いない。
あらすじをいってしまえば、非常にシンプル。
いつごろとも知れない戦後のある時代、男が戦前のある時代を回想する。
本郷に暮らし、仕事ともいえないような仕事をしつつ生活のできた時代、プルーストを学ぶ帝大の学生や自転車屋の男たちと意気投合していた頃の記憶を選っていく。
中心はその出来事ではなく、自分が何を覚えていて、何を思っていたか、ということにある。
話の中に頻繁にプルーストがでてくるくらいで、「意識の流れ」の系列にいれてもいい作品なんでしょう。
主人公がよく覚えていない部分は今になっての推測ということが頻繁に書かれているし、話の展開には一見、不必要とも思える建物の描写が長々と続く場面もある。
文章も「併し」「兎に角」「やはり」といった語句が不必要なほど用いられていて、読みにくいくらだが、ひとりの男がゆっくりと過去を回想している、たどたどしいリズムが伝わってくるように思える。
大体タイトルの「東京の昔」からしてくせ者だ。
普通なら「昔の東京」としそうなものだ。
「東京の昔」というと、擬人化した東京が主人公で、読んでいると戦前という時代が遠い過去なのではなくて、「東京」というものが遠い過去に存在しているものだという気さえしてくる。
銀座には今も資生堂があるからこそ、遠い過去のことだと思えてくるのでしょう、主人公の言葉を使えば。
明治の近代化からまだ数十年しか経っていない日本への絶望は、当時(昭和40年代)の日本に対する絶望にもつながっているようです。

それにしても、日本人が英文学や仏文学を学ぶ意味に関する言及はやはり切れ味が鋭い。こんな人たちと飲みにいったら怖いだろうなあ、実際は。(ひ)


活字学級

2011年06月07日 | 本の記録
食は文学にあり 坂口安吾 1of6

活字学級
目黒 考二 著
角川文庫

目黒考二は書評家の中でも別格だ。
書評は、どんな本を紹介しているか、その内容はどんなものか、ということだけが問題だという人もいるでしょうが、私はそう思えない。
どんなすばらしい本の紹介をしていても、その文章がつまらなければ読む気にならない訳ですから。
書評だけでなく、紹介している本までうさんくさい気がしてくる。
新聞やテレビの書評を結構読んだり、見たりしていると、やたらに身内の本ばかり紹介する人や、書評を載せなくても売れそうな本ばかり紹介する人が多いのにもげんなりする。
そんなマイナス要素をまったく含んでいないのが目黒考二の書評。
最初にはまったのは「笹塚日記」でしたが、「笹塚日記」とはまったく違う形式で書かれていますが、これもまた魅力的です。

この本は「思慮深さについて」、「浮気心について」といった、ずいぶんと漠然とした新鮮みのないタイトルがついています。
こんなタイトルでどうやって、面白い文を書くんだ、と思っていると、自分の若い頃の話や友人の話から、あっと言う間にテーマに関する持論を展開させ、テーマに沿う本を次々と紹介していく。
例えば、「思慮深さについて」なら喧嘩っ早く威圧感のある友人が、実は運転をするときだけ慎重だという話から始まり、それは彼が中年になってから免許をとったからかもしれないと展開していく。
そこから中年の分別について書かれると、ネヴィル・スティードの「ブリキの自動車」、夫馬基彦の「六月の家」といった本の紹介が始まり、話は意外な方向に転がるうちに、いつのまにかきれいな着地点にたどりついている。

エッセーとして完成されているから、まったく興味のないジャンルの本や作家が登場しても全然飽きない。
正直言って、ここで紹介されている本のほとんどを読んでいないないし、作家の名前すら知らない。
でも、この本を読むのには何の支障もありませんでした。
多分、紹介されている本も、ほとんど読まないでしょう。
それって、書評? という人もいるでしょうが。

こんな感想を書いてしまったのは嵐山光三郎の解説を読んだせい。
嵐山光三郎という人は本当に油断ならない。
そういう意味で私に中では、森達也と同じくらい、読者の心にさざ波をたてるのが上手い人ということになっています。

この本の書評でも、目黒考二は小林秀雄をこえた、というすごい内容のもので、目黒考二を褒めつつも、実はチクリと批評をしていることが分かる。
まるで冗談のように全面的に褒めて見せながら、文章としての批評性は失っていないという、というすごいことをやってのけている文章です。
反論を誘い、読む者を熱くさせた後、ニコニコ笑っている。
こういう人に褒められるのは怖いなあ。
ああ、恐ろしい。(ひ)


骨餓身峠死人葛

2011年05月27日 | 本の記録
桜の森の満開の下 Trailer

骨餓身峠死人葛―野坂昭如ルネサンス〈6〉 (岩波現代文庫)
野坂 昭如 著

名作として最も評判の高い短編小説「骨餓身峠死人葛」を含む短編集です。
この作品を読むのは初めて、というか野坂昭如の小説を読むのが初めてでした、恥ずかしながら。
内容以上に、句読点の少ない独特の文体で有名な作家だったので、どうも読むのに気後れしてました。
相当読みにくいんじゃないか、内容も含めてかなり覚悟して向かい合わなくちゃいけないんじゃないかと。
ところが、読んでみると、その逆。
長い文だからこそ読みやすい、というか、作者や登場人物の息づかいがストレートにはいってきて話の中にのめり込まされてしまう。
たとえば

  ・・・・・・暮れるまであたり見廻していた、ふだんは平地歩くにも足取りあぶなっかしい老人だったが、坂道かけ上がる時は・・・・・・

という、一節を見ても、「見廻していた」という文の終わりで一度切ることなく、次の文がそのまま続けられている。
普通に句点を使ったのでは表現できない微妙な間が読点を使うことによって存在しています。
この読点が多い独特のリズムの文を読むうちに、読者は少しずつ情報を与えられ、ゆっくりと狂気の世界にひきずりこまれてしまうのです。
「骨餓身峠死人葛」ではそんな文体で、昭和初期の炭坑の一角を舞台に、妖しい濃密な世界が展開されています。
性と生、生と死が渾然一体となった世界に「桜の森の満開の下」を連想しましたが、どちらの作品も日本の土着的文化を描いた物語という感じなのに、その着想には太平洋戦争が重要な要素になっているというのは偶然ではないのでしょう。
人間の果てしない狂気の末にあるものが何かを描いている恐ろしい傑作です。(ひ)



エロマンガ島の三人

2011年05月11日 | 本の記録
エロマンガ島のタモリ倶楽部

エロマンガ島の三人 (文春文庫)
長嶋 有

インパクトのあるタイトル通りの作品が入った短編集。
ゲーム雑誌に勤める実在の編集員(だったかな)が実際に経験したエロマンガ島への旅行を下敷きに書いた作品です。

長嶋有作品の面白さのひとつは登場人物たちのもっている違和感だという気がします。
この本の場合、設定がずいぶんとエンターテイメントになっている分、そこが際だっている気がします。
ゲームや漫画業界の人間、もしくはその世界の中に置かれた登場人物たちは、目の前に繰り広げられているすごい状況よりも、なぜ自分がこんな状況にいることになってしまったのか、という過去にとらわれている。
いくら考えても、そんな理由は分からず、何の解決ないまま、ただ状況だけが変わっていく。
この作品集に入っている短編は文芸誌でなく、エンターテイメント系の雑誌に掲載したものが多いようですが、それにしてはゲーム、エロマンガ、セックス、ゴルフといったものの描写がほとんどないのが面白い。
最初の作品の中に筒井康隆のことがちらっと出てきますが、どの作品も筒井康隆風のすごいラストが書けそうな話ばかりなのに、あえてそんな方向にはもっていかない、もやもや感の残るストーリー展開も素敵です。
長嶋有らしいといえば、らしいけど、よくこれで原稿が通ったなあ。
野球がまったく出てこない「巨人の星」とか、怪獣の出てこない「ウルトラマン」とか書いてくれたら面白いなあ、なんてしょうもないことを考えました。
もやもやヒーローものだね。(ひ)


コラムは誘う

2011年05月03日 | 本の記録
横山やすし・西川きよし(やすきよ) 漫才 ~里帰り~ 悲劇はどちらにあったのか

コラムは誘う―エンタテインメント時評1995~98
小林信彦 新潮文庫

古本屋でまた小林信彦の本を見つけたので思わず買ってしまいました。
これも絶版なのかな。
話題が90年代後半のものなので、既に古くなっているということなんでしょうが、時間が経っているからこそ面白く読めたというところがありました。
今、公開中の映画やヒット作品の情報はできるだけ聞きたくないというひねくれ者の私にはピッタリといえば、ピッタリなのです。

この本は新聞に連載されていたコラムということもあり、誰にでも読みやすく、ひとつの文章の量も短いものになっているんですが、取り上げている内容は充分マニアック。
というか、ここ20年近くで日本の文化がずいぶん衰退したということなんだろうなあ。
新聞のコラムでこのレベルの文章を読めることがない、というか、文章がひどくで内容が全然頭に入らない記事も多いです。
wowowで見た映画の話がこのコラムには結構多く載っていますが、そういえば、昔はwowowってクラシック映画のいい特集が多かった。
ニコラス・レイの初期の作品や、マルセル・カルネ、フリッツ・ラング辺りの作品も普通にやっていたし、RKO特集なんかは月刊誌に大きく取り上げられていた記憶があります。
今は新しい邦画を放送しないと人気が出ないのかなあ。
まあ、視聴者を確保しないといけないwowowはわかるにしても、ここ数年のNHKの凋落振りはひどい。
NHKに民放のできそこないにはなってほしくないものです。

映画、テレビ、ラジオ、舞台と幅広い情報を取り上げている、このコラムを読むと、小林信彦という人のミーハーさについていけないところも正直あるんですが、コメディというものをきちんと見ている日本では貴重な人だということがわかります。
そして、自分が見てきたものがすべての判断基準であるという、ある意味での潔さを文章の中に感じます。

もっとも興味深かったのは三谷幸喜の「笑の大学」に関する文章。
「日本の喜劇人」を読んで「笑の大学」をすぐに連想した者としては、そうか、この舞台を評価しているのか、とちょっと驚きつつも納得。
この舞台(映画版も)が「反戦」的な内容を評価されることが多いのに対し、それを完全に否定している見識はさすがです。
三谷幸喜はもっと純粋に設定の面白さをエンターテイメントとして用いたはず。
よくも悪くそれが三谷幸喜という気がします。

それにしても巻末の解説は相当苦労していますねえ、どなたが書いたかは触れずにおきますが。
短い解説文で評論家を評論しなければならないというのは相当きびしいですね。(ひ)





クレアモントホテル

2011年04月20日 | 本の記録
クレアモントホテル
著者:エリザベス・テイラー  
訳:最所 篤子
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-760612-6&mode=1

映画でも少し前に見た「クレアモントホテル」の原作です。
映画版は時代設定がごく最近になっていたし、老いの問題を扱いながらも全体はとてもさわやかな作品になっていたので、原作はどうなっているんだろう、と気になっていました。
読んでみると予想以上に違ってました。
伴侶に先立たれ、家族に迷惑をかけず自立した生活を続けたいが孤独になるのも嫌だという複雑な思いの人びとが集まるホテルをめぐる物語というところは変わりません。
でも、青年ルドはパルフリー夫人と映画ほどうまくつきあえなくいし、パルフリー夫人から見て、自分の若い頃を思い出して懐かしめるほど幸せな状態にいない。
映画は厳しい現実をファンタジーともいえるあまいストーリーでくるんでいましたが、小説の方はそんな手加減なし。
ルドはパルフリー夫人と出会い、その優しさに惹かれたものの、どう接していいのか分からずにいる。
ふたりの共通点といえば、周りの人間から愛されていないという孤独感に苛まれながらも、自尊心は失わずひとりで生活し続けているというところでしょうか。
そのふたりを始め、この小説に出てくる人たちはほとんどが人にどう接すればいいか悩み、他人や自分に嫌悪感を抱きつつ生きている。
年老いた人びとの何もない生活を淡々と描いているようでいながら、登場人物達の精神状態は大きく揺れ動き続けています。
読みやすい文章で書かれていながら、読んでいて相当しんどかったのも確かです。
最後に主人公が亡くなった後、彼女の娘が「ちょうど再婚しようとしていた矢先なんです」といったとき、ほとんど登場していない人物の人となりや主人公との関係、親子とはなんなのかといったことを思い切り考えさせられました。
こういう風に軽いタッチで、人生とは何かを一瞬で切り取る切れ味がイギリス文学の魅力のひとつなんでしょうね。

不思議なのは訳者の文章も出版社によるこの本の宣伝も、妙に軽いのりにしているところ。
これだけ人間洞察にすぐれた一流の作家、エリザベス・テーラーの作品を軽く読めて、ちょっと泣ける今時の本のような扱いをしているのは残念。
まあ、例えばノエル・カワード、テレンス・ラティガンのような作家の作品を日本で出版するとなると、こういうノリになってしまうということか。
吉田健一がエリザベス・テイラーを訳してくれていたらなあ、と思ったりしました。
もっとずっと怖くてしんどい本になっていたでしょうが。(ひ)


ストリートワイズ

2011年04月04日 | 本の記録
ストリートワイズ 坪内 祐三
講談社文庫

今のような精神的に不安定にならざるをえない時、何を精神安定剤にするかは人によってそれぞれでしょう。
ひたすら原発関連のニュースを浴び続ける気概は私にはないので、仕事の帰りにはこの本をむさぼるように読んでいました。
「現実に対して直接的な効力は持たないが、ある不思議な存在感を持っている人」「庭の離れに一人で住んでいる、ちょっと変わった親戚の叔父さん」として富士正晴という作家が紹介されていますが、この本を読んでいる間、私にとっては坪内祐三がそういうありがたい存在でした。

著者が雑誌「東京人」の編集者をしていたことは今回初めて知りました。
最初に知ったのは「本の雑誌」に連載されている「読書日記」。
「笹塚日記」といい「読書日記」といい「本の雑誌」の日記には心惹かれてしまう。
人の読書生活を垣間見ているようなうれしさもあり、どんな本を買ったり、読んだりしたか書名を挙げられているのを見る楽しさがあります。
一冊の本をどこの店でどんな本と一緒に買い、どこで読んだのか、ということは一見些細な事実に見えても、実はかなり重要だったりします。
その連載に出てくる本の多くはかなり古いものが多いので、てっきりかなり高齢の方だと思っていたのにまだ意外に若く、1958年生まれと知って驚きました。

ようやく「ストリートワイズ」の話ですが、福田恆存を始め、「ぴあ」、原辰徳、力道山まで登場する評論集。
福田恆存についてはシェイクスピアを訳した偉い先生というイメージしかなかったのですが、数年前、「キティ颱風」という戯曲を読み、すばらしい作家だったことをようやくながら知りました。
坪内祐三は福田恆存と直接話す機会があり、そのときのことが、この本の冒頭の評論に書かれているのですが、まだ福田恆存の評論をまったく読んでいない不勉強な私にもそのすごさがはっきり伝わってきます。
というか、福田恆存は一般的に評論家としてのイメージが強かったのか。

ドナルド・キーンに関する文章もとても印象的でした。
ドナルド・キーンの作品には日本語で書かれたものと、英語で書かれたものを翻訳家が訳したものの2種類があるというのも驚きだったし、ほぼ同じ内容のエッセーがその両方で発表されているいというのも驚きました。
その両者の文を比べてみるという、なかなか底意地の悪いことがこの作品では行われているのですが、哀しくなるくらいドナルド・キーンの書いた文章の方が翻訳の文章よりすぐれているんですねえ。
家にも山口晃が表紙を描いたドナルド・キーンの本があるはずだけど、あれはどっちなんだろう。(ひ)


からくり民主主義

2011年03月21日 | 本の記録
からくり民主主義
高橋秀実/著
新潮文庫
http://www.shinchosha.co.jp/book/133554/

地震の前に読み終わった本です。
原発の話は地震後だと読むのがきつかったかもしれません。
90年代半ばから2002年までに書かれた原稿を集めたものなんですが、内容は全然古びていません。
取り上げられているのは、若狭湾の原発、普天間の米軍基地、諫早湾干拓といった、今も解決していない問題が多い。
今でもマスコミに取り上げられる問題ばかりですが、この本の取り上げ方はマスコミとまったく違っています。

悪いのは政治家で被害者である弱者の地元住民救えばいいと言っているような、単純な報道が必ずしも正しくないのは誰もが薄々気づいているところ。
長い間にっちもさっちもいかない宙ぶらりんな状態は複雑な利権や欲が不思議にからんで変にバランスのとれた状態が保たれているんだろうと想像がつく。
その状況を更に推し進めても、回避しても、ひどい状況に陥る人がいる。
でも、そのままにしていたら税金が無駄に使われるだけ。
そんなどうにもならない状況をじっくりとひとつひとつ探っていったのがこの本なのです。
読んでも全然幸せな気分にはなれないし、こうした事件がうまく解決したら、それこそ奇跡なんだなあということがわかるばかり。
新聞やテレビの報道のように、単純なわかり易い見出しはないし、正義と悪も存在しません。

世の中はそんな単純じゃないということを知っていながら(いや知っているからこそ? )私たちは世の中に単純な真実を求めているのかもしれません。
犯罪を起こすのは悪い人で、被害を受けるのは善人であって欲しい。
今の状況を考えても、ひとつの方向にみんなで突き進みたいという人は多いようです。
でも、そんなときに、思わず立ち止まって走るのをためらってしまう人はこの本を読む資格ありです。
昨日見てきた野田秀樹の「南へ」という舞台にも、そういう要素があった気がしますが、そちらの感想はまた後日書くつもりです。(ひ)