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生産性と来たるべきプロレタリア革命について

2007-02-04 02:21:14 | Weblog
 一応確認しておく。I think I'm not biased.


 やっぱり、人間は何かつくらなきゃならない。その点に関しては世の中の大多数の人が賛成してくれると思う。何か「価値」と一般に呼ばれるものを創造するからこそ、こうして毎日生きていられる。とても単純だけど、見落としやすい点。


 では、その「価値」の増分を「生産性の向上」と読み替えていいかは、また別の問題。例えば、ブータンだったら「幸せ」に置き換えられるのかもしれない。だけれど、少なくとも私はある程度普遍性を持った尺度として生産性の向上とかGDPの実質増分ってのがあって、しかもその作った価値の増分と正の相関を持つ、と思いたい。この点になると、だんだん皆さんの賛成を得られなくなってくる。何言ってるんだい、そんなことより等身大(ありのまま、と読みます)の幸せを、あの夕日の向こう側まで追っかけようぜ、なんていいたくなるのかもしれない。


 でも例えば近所の仲の良かったおじさんが、急に新興宗教にはまりだしたらどうだろう。「おい、お前の体には4億フェムトメートルのベクトル波が毎日降り注いでるぞ!気をつけろ!」なんて言い出したら、あなたはどうするか。私はまず、4億フェムトメートルのベクトル波並みに真っ青になってから彼にこう言う。

 「そんな生産性のないことやめて、まっとうに働こうよ!」


 これをケーススタディのようにするわけではない。だけど生産性がないことに没頭する人は、多くの場合人にたしなめられる。それが当人にとって幸せであったとしても。


 全世紀初頭の人は、生産性に重きを置くことに対してなんらためらいはなかったはずだ。それがひずみを持つこと、言い換えれば来たるべきプロレタリア革命が実際は来なかった・ないし偽物だったことが明らかになるにつれ、モノを作る、というかなり根源的な要求が排除されてきたように思う。


 この段に及んで、おそらく「モノを作るって言ったって、その価値はお金じゃ計れないよね」というテーゼが形成されたのだろうと推測するのは難しくない。じゃあそれは個人的な感情の昂ぶりのようなものに還元できるかというと、先の宗教の例などからそれも違う。すると残ったものは、価値とは結局「共同体の価値」でしかありえない、という簡単な事実。まず人に迷惑を掛けず、それができたら人のためになることをするのが価値ある行動である、となる。


 とても簡単な事を確認している、のだと思う。だけれど、私は最近これが自明でなくなってきてしまっていたのかもしれない。恐ろしい。衣食足りてしまいすべきことを見失ったブルジョワには、正義の鉄槌が下されるのかもしれない。あの夕日の向こう側に向かって走っていった人たちによって「さぁ、僕らと一緒に4次元世界を乗り越えよう!」とオルグをかけられるのかもしれない。どんな仕事に就こうと、やはり社会の中に私は生きているんだ。そのことを忘れてしまうと、働くことと働くことによって生まれる価値の持つ意味がつい希薄になる。そこに仕事があるということは、そこにはまだ生み出されず眠っている価値のタマゴがあるということ。それを肝に銘じていたい。



最後にもう一度確認しよう。Yes, I'm sure I'm not biased.



(追伸)
I'm sure ~.としてしまったら、そう思うbiasがかかっているのではないだろうか?とか思ってしまうけれど。でもそのbiasが、かろうじて私の個性なるものを縁取るのではないか、と言うこともできる。