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はまやわらかいブログ。

面白い本でしたよ。

2007-02-09 23:29:53 | Weblog

前期および後期ウィトゲンシュタインのお話


 私自身も一気読みしてしまった。(こういう言い方していいのか?)ぜひ一読せられよ。


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 これを読んで思ったこと。

 哲学者と呼ばれる人たちには、絶対的・普遍的な論理や科学というものに対して悲観的であるように見える。『論理哲学論考』を書いたウィトゲンシュタインが、その後期では「んなものないじゃん」という前提から話を始めるのだから。このような議論は、その性質上「~はおかしい」という否定文を帰結するはずだから、きっと世の中のブレーキになるんだろう。
(補足。普遍的な真理があると思ってるとこういうミスを犯すよね、とケーススタディをすることはできるけど、普遍的な真理などないと言うことからは、肯定文は出てこない。というのが理由です。(そこに疑義を挟むことは、ひょっとしたらひょっとしてできるのかもしれないけれど。))


 それに対して、いわゆる「理系」な人たち、言い換えれば、もう21世紀だってのに「絶対的に真なるもの」の存在を心のどこかで疑わず、それを追い求めることに対して子供のような執着を見せる人が多数派を占める集団、というものもある。この人たちのすることは、上に書いたような哲学者から見て無意味なのか有意味なのか、と考えてみる。

 私は、「科学者個人の力ではなく、科学者集団としてウン百年もこの営みを続けていく、という意味」があると思う。

 確かに、アインシュタインは偉い。アインシュタインがもう3人いたら、(そんな世界では誰も物理学者を目指そうとしない)宇宙のなぞはもうちょっと分かっているかもしれない。凡人は三人寄れば文殊菩薩の知恵。アインシュタインだと三人寄れば大日如来の知恵。だけど、実際にはもうアインシュタインは生まれてこない。彼のやったことは偉いけれど、科学史的には、すでにアインシュタインの理論は「消化」されてしまった。もう新しい真なることは、彼からは生まれてこない。(解釈の仕方とかは別で。)

 科学にできることは「これは正しいと思います」と言うこと。そしてそれはどこまでも一回的。世の中すべての現象を記述するマクロな理論を誰かが作らない限り、(ひょっとしたらそれができたとしても)そのジレンマはどこまでも続いていくと思われる。だから科学者の態度は極端に言えば二通りで、あとはその中間。一方にはヤマ師的に「究極の理論」を追い求めること、もう一方には地道に研究して科学者集団としての共有知識を蓄えること。カトリックとプロテスタントに譬えたりしたらローマ法王に怒られちゃうかもしれないけれど、どこかそういう対立を感じることがある。


 だから、人類がちょっと賢くなる、と言えるためには科学し続ける必要があるんじゃないだろうか。真理というものを真面目に考えるゆえに、それをとりあえず否定してから議論を始める哲学者。彼らに対して、科学者がその大向こうを張れるとしたら、あくまで「科学的真理」の蓄積とごくたまにあるブレイクスルーによって「科学的真理」と「普遍的真理」の間の距離を縮めることじゃないのか。



 そんなことを考えた。