このブログの存在理由は私がきもいことを発露することにあると思ったので、そうすることにする。
特殊相対性理論、というのがある。あれに関しては少なからず誤解と欺瞞が蔓延していると思うが、私自身としてもさほど理解しているとは思えない。こうやって何かを書けば自分の中で少し理解が深まる気がするので、その真偽はあまりお気になさらず。
この理論の前提はざっと言って二つある。もし半厳密な公理的構成をしようとするならばもっとたくさんあるのだろうが、とりあえず直感的に理解しにくいものや、ある種のスローガン的なもののみを、物理学では「公理」といわず「法則」という。そんなゴタクはどうでもいいが、とにかく前提の二つを書けば
・相対性原理・・・ どの観測者にとっても、(その人が慣性系にいるならば)物理学は平等である
・光速度不変の原理・・・(なぜだかしらないが)光の速さはどの慣性系にいる観測者にとっても等しい
となる。一つづつその意味を探ってみよう。まずは相対性原理。これは意味づけとしては「だってそれが物理じゃん」という、アインシュタインの”要請”である。
たとえば、相対性理論が生まれる前、物理学者は観測者間の相対性についてどう考えていたかというのを日常語に翻訳して言えば、
「まず世界に神様がいる。その神様のいる世界では、僕らの知っている物理学は厳密に成立するんだ。しかし、僕らの住んでいる世界は不完全で、その神の世界(イデア?)の影でしかないのだ。だから僕らは、まず神様の世界の物理学を作って、それを毎回自分たちの世界に焼きなおして使えばいいんだよ」
というものだった(と理解している)。業界用語を使えば、絶対慣性系(神)に対して相対的に等速直線運動している系はすべて慣性系であり、その慣性系に対して加速度運動をしている地球は慣性系ではない。慣性系でないところでは絶対慣性系の物理学は成り立たない(実験事実!)から、そこに慣性力という仮想的な力を加えて議論をするのだ、となる。
しかし、この考え方にアインシュタインは異を唱えた。僕らの住んでいる世界を主役にしたものが物理だ!そう高らかに宣言したのだ。そこに、後世の人は「相対性原理」と名づけた。しかし現実問題として、電車に乗った人はその出発時に後ろ向きに引っ張られる気がする。私は電車の中に静止していただけなのに、といわれてしまえば、その瞬間にアインシュタインによるルネサンスは終わりを告げる。そこで彼は一つペテンをする。加速している人を除外した物理を作ってみようとするのだ。そんな例外だらけの物理が物理か!と怒らないで。加速している人からみた物理も、彼はその11年後に作り上げる。そう、一般相対性理論とよばれる、今日宇宙的スケールを語るための唯一の言語を彼が一人で(というのは嘘で数学者の助けを借りて)作り出すのだ。
随分長く書きましたが、相対性原理のポイントは一つ、それが観測事実や実験結果から帰納的に導かれたものではなく、物理学たるものこの要素を含まねばならぬ、という演繹的な方法で導かれたものである。演繹的、というとすわりが悪いので言い換えると、要するにそういう物理学が作れたらいいな、というアインシュタインの”願い”である。
次に光速度不変の原理だが、これは長い説明を要しない。なぜなら、「だってそうなってるんだもん」。それ以上に言えない。だからひょっとしたら、光の速さが見る人によって違っても問題はないかもしれないし、どこかの誰かが光より早い光、遅い光を見つけてくるかもしれない。だとしたら、とても面白いことだ。
と、長々書いてきたが、これを読んだところで相対性理論がわかるようにはならない。けれど、アインシュタインの心意気みたいなものを僕は理解したいと思って昔とても考えた、その足跡を残すということも必要かな、と思った限りだ。こんなことが存在理由であるブログですが、まぁいいんじゃね?
特殊相対性理論、というのがある。あれに関しては少なからず誤解と欺瞞が蔓延していると思うが、私自身としてもさほど理解しているとは思えない。こうやって何かを書けば自分の中で少し理解が深まる気がするので、その真偽はあまりお気になさらず。
この理論の前提はざっと言って二つある。もし半厳密な公理的構成をしようとするならばもっとたくさんあるのだろうが、とりあえず直感的に理解しにくいものや、ある種のスローガン的なもののみを、物理学では「公理」といわず「法則」という。そんなゴタクはどうでもいいが、とにかく前提の二つを書けば
・相対性原理・・・ どの観測者にとっても、(その人が慣性系にいるならば)物理学は平等である
・光速度不変の原理・・・(なぜだかしらないが)光の速さはどの慣性系にいる観測者にとっても等しい
となる。一つづつその意味を探ってみよう。まずは相対性原理。これは意味づけとしては「だってそれが物理じゃん」という、アインシュタインの”要請”である。
たとえば、相対性理論が生まれる前、物理学者は観測者間の相対性についてどう考えていたかというのを日常語に翻訳して言えば、
「まず世界に神様がいる。その神様のいる世界では、僕らの知っている物理学は厳密に成立するんだ。しかし、僕らの住んでいる世界は不完全で、その神の世界(イデア?)の影でしかないのだ。だから僕らは、まず神様の世界の物理学を作って、それを毎回自分たちの世界に焼きなおして使えばいいんだよ」
というものだった(と理解している)。業界用語を使えば、絶対慣性系(神)に対して相対的に等速直線運動している系はすべて慣性系であり、その慣性系に対して加速度運動をしている地球は慣性系ではない。慣性系でないところでは絶対慣性系の物理学は成り立たない(実験事実!)から、そこに慣性力という仮想的な力を加えて議論をするのだ、となる。
しかし、この考え方にアインシュタインは異を唱えた。僕らの住んでいる世界を主役にしたものが物理だ!そう高らかに宣言したのだ。そこに、後世の人は「相対性原理」と名づけた。しかし現実問題として、電車に乗った人はその出発時に後ろ向きに引っ張られる気がする。私は電車の中に静止していただけなのに、といわれてしまえば、その瞬間にアインシュタインによるルネサンスは終わりを告げる。そこで彼は一つペテンをする。加速している人を除外した物理を作ってみようとするのだ。そんな例外だらけの物理が物理か!と怒らないで。加速している人からみた物理も、彼はその11年後に作り上げる。そう、一般相対性理論とよばれる、今日宇宙的スケールを語るための唯一の言語を彼が一人で(というのは嘘で数学者の助けを借りて)作り出すのだ。
随分長く書きましたが、相対性原理のポイントは一つ、それが観測事実や実験結果から帰納的に導かれたものではなく、物理学たるものこの要素を含まねばならぬ、という演繹的な方法で導かれたものである。演繹的、というとすわりが悪いので言い換えると、要するにそういう物理学が作れたらいいな、というアインシュタインの”願い”である。
次に光速度不変の原理だが、これは長い説明を要しない。なぜなら、「だってそうなってるんだもん」。それ以上に言えない。だからひょっとしたら、光の速さが見る人によって違っても問題はないかもしれないし、どこかの誰かが光より早い光、遅い光を見つけてくるかもしれない。だとしたら、とても面白いことだ。
と、長々書いてきたが、これを読んだところで相対性理論がわかるようにはならない。けれど、アインシュタインの心意気みたいなものを僕は理解したいと思って昔とても考えた、その足跡を残すということも必要かな、と思った限りだ。こんなことが存在理由であるブログですが、まぁいいんじゃね?