重荷を降ろしてみませんか? 平成25年5月8日
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牛とハエとは何ぞや?~クライアントさんのお話しから~
つい最近、アートマセラピーのクライアントさんが
生真面目な顔をしてこんな話をしてくれた。
”自分が、今、大きな牛になったから言うのではないけど、
時々ハエになって自分より大きな牛に乗って、遠いところ
まで運んでもらおうと思うのです。”
”は?ハエですか?” と私。
”ええ、ハエは、自分で飛ぶ範囲は限られるので・・・”
とクライアントさん。
”牛に乗っていろいろ経験して、そしたらまた、自分も
牛の姿にもどって、今度は自分の体に止まっているハエを
どこかにもっと遠くに連れて行ってあげれればと思います。
そこそこのところで そのハエが成長して、自分から離れて
いけばそれでいい”
この話は面白い。
そのかたは決して世渡りが上手な方ではない。
むしろ、仕事に、儲けをからませず、損をしてまでも、
自分の信念を貫くために、行動されるかたでもある。
牛の体に付いたハエという喩えには、自分が労せずして
遠いところまで牛に運んでもらうということ。
ざらに、牛の背中に乗ることで、エネルギーを蓄え、
小さな羽の力では到底行きつくことのできないところまで
つれていってもらえるというメリットもある。
こうして、自分を大きくするための経験を つませてもらい、
また自分本来の姿(牛)に変身して今度は ほかのハエ(人)に
自分の体を貸してあげるだけの大きな牛になる~という
最終的なヴィジョンもある。
話しが飛ぶようだが、この喩えを聞いていたら、神を信じる
ということも かくあらんと私は感じた。
人はそれぞれ、大なり小なりの、悩みと問題をかかえて
生きている。
考えてもどうしようもないことがあれば、自分ひとりの
力では解決できない問題もある。
無神論者は ”弱い人が宗教を持ち、神に頼るのだ” という。
そうかもしれない。
だが 本来の信仰とは、物欲や、病平癒などの現世功徳を
祈願する神頼みとは程遠い。
本来の信仰とは、自分が自分らしく生きるために、
道を間違えぬよう、不慮の災難に巻き込まれずに、
健康に日々精進できることを感謝することから始まる。
神仏に拝みに行くとき、”何かの願い事” のためではなく、
”感謝するため” にお参りするのが本来の姿であると
いうのはこの意味である。
牛という形をとられた神様はこうおっしゃる。
”あなたの背中に背負った荷物が、重たいなら、私の背中
に乗りなさい。
あなたも、荷物も私が引き受ける。
あなたを私に乗っけなさい。
肩に抱えた荷物も私が負ってあげられるから。”
クライアントさんの話のように、その牛(人物)に
信頼を置かなければ、
ハエとなって止まることもままならない。
信頼をおいてこそ、目的地に到着することを信じているから
こそ、肩を借りることができるのだ。
神への信頼もそれに似ている。
神に全部を託することができれば、心の重荷がだいぶ軽減
するだろう。
神の愛によって、万物が結ばれている。
私たちを結びつけている、
そして、神と私たちを結びつけているのも愛 があるから・・・・
自分が学生の時 ある歌詞をみつけて、感動した。
それは 宇宙荘厳の歌とタイトルがついていた***
”ああ神の愛 神の愛、宇宙に満ちて万有(ばんゆう)を、
結び合わせて荘厳の宇宙いまここ顕現す。
もし愛なくば、荘厳の宇宙現ぜず美しき、
人と人との睦まじき 結びの世界現れず。”
その愛 に全託したとき、心にある重荷も、現実に抱えて
いる問題も、とりあえず、自分自身から 一時的にも、
離してみることができるだろう。
そうすると、今まで見えなかった局面が見えるだろう。
神の愛の電流に乗ることができたとき、見えてくる局面とは・・・?
まず、自分の環境の変化かもしれない。
周囲が 計らずして 必要な方向に、動いていく。
必要な人が物が必要なタイミングで訪れたり、
必要な物資が供給されたりする。
いわゆる偶然的必然が起こってくる。
自然と、周りが整っていく。
時流にのり、潮流にのればいいだけの話・・・
人と人はつながっている。
神と人 とも繋がっているのだろう。
その繋がるための、条件は無い。
神との信頼関係は 自分の心の振り向け方次第だ。
個人的関係だ。
個人的な 神と人との関係に、組織は必要だろうか?
個人的見解で恐縮だが、必ずしも 必要とは思えない。
宗教組織にはいることは、だからと言って、決して、
意味のないことではないと思う。
サンスクリット語(梵語)で ”サットサンガ” という言葉、
それは、
”真理を求める人たちの集会”をさす。
一人で祈ることもよし、しかし、
”サットサンガで、志を共にした同志で、祈れ”と覚者は言う。
サットサンガとは、サンスクリット語で、志や信念を共に
した人たちが集まる事である。
こうして、祈れば、さらに 大きな祈りの効果があると
いわれる。
集合のヴァイヴレーションが 祈りの想念を強めるからだ。
同志とともに、真理を求めると、挫折せず、互いに刺激を
与え合って、その道を極めていこうと集中力も高まるだろう。
その反対に、独房にこもって、一人修行をしたり、
だれとも接触せずに、ヒマラヤのヨギのように、浮世を
捨てる求道者もいる。
どのような形にしても、結局は、心の中の問題かもしれない。
心の中の自分専用の部屋に、神と対峙して話しをする~
それが一番大切な事なのだと思う。
私たちには 誰にでも、2種類の、”りょうしん” がある。
両親と良心・・・
愛がどこから来るか?
私たちの良心から・・ 肉体の親は両親だ。
無償の愛を子供に与えて、私たちを育成して
くれた親の愛、その愛も、神の愛に似ている。
一方、 心の親は宇宙に満ちる 良心 だ。
普遍的良心を アートマ とも呼ぶ。
また、アートマは、私達が 神 と呼ぶところの、
最大ボルテージを発するエネルギー体の 末端的発露の
表現体 でもある。
つまり、
私たち自身が その最大ボルテージの表現体であると
いうこと・・・
牛の乗り心地はどうだろう。
ためしに 時には、ハエになってみるのも 悪くないかも
しれない。
誰かの牛の背中に乗ってみる体験?
私たちは 知らない間に、見えない形でいろいろの人
の背中を借りて生きてきた。
神様の背中に乗ってみたい。
幼い昔、両親の背中で、疲れたとき うたたねをしながら、
帰宅した時のように・・・。
安らぎの背中だった。
重圧でくたびれたとき、神様の背中が私には必要だ。
乗り心地はどうだろう?
重荷をしょったままで 神様の背中におんぶされたら、
背中の重荷とともに、神様は私たちを請け負ってくださる
にちがいない。
きっと、そうだ。
どんな重荷でも、きっと、受け合ってくださる。*1
注1)
デリーにいる、恩人の話を想いだす。
彼の会社へ行った。 彼の本来座るべき椅子の横に
小さな椅子とテーブルがしつらえてあり、そこに、
彼が座っていた。
そして、その隣にしつらえられた、りっぱな、社長の
椅子には、ある聖人の写真がおいてあった。
”わたしの会社は倒産しかかっていたので、
この方に、会社のかじ取りを全宅したのです。
私は一歩退いて、この席に・・・
すると、結構、上向きに会社がたてなおってね。。。”
と微笑んだ。
コンニチハ…・インド 北ヒマラヤ地方の ヤク だよ・・・僕にも乗ってみる?
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