致知出版社よりお送り頂いている「人間力メルマガ」よりです。
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致知出版社の「人間力メルマガ」
【2011/9/18】 致知出版社編集部 発行
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本日は『致知』の人気連載コーナー「致知随想」の中から、
特に反響の多かった記事をセレクトしてご紹介します。
今回は2011年9月号の『致知』より、
高知県立坂本龍馬記念館館長・森健志郎氏の
随想をご紹介します。
ぜひ最後までお読みください。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「坂本龍馬が目指したもの」
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森健志郎(高知県立坂本龍馬記念館館長)
『致知』2011年9月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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高知県・桂浜にある県立坂本龍馬記念館は
今年開館二十周年を迎えました。
昨年放映された大河ドラマ『龍馬伝』の影響で再び
“龍馬ブーム”が巻き起こり、
しばしば入館規制を行うなど、
全国から多くの方に足を運んでいただいています。
前任の方の急逝により五年前に館長に就任しましたが、
私自身はそれほど龍馬に対して傾倒していたわけではなく、
以前は「なぜそんなに人気があるのだろう?」というのが
率直なところでした。
しかし、来館される方々の龍馬ゆかりの品々を
見つめる真剣なまなざし、そして龍馬宛に書いてくださる、
ほとばしるような熱きメッセージから、
その偉大さを教えていただいたように思います。
龍馬は天保六(一八三五)年、
土佐藩の下士(下級武士)だった
坂本家の二男として生まれます。
坂本家は下士とはいえ、土佐有数の豪商「才谷屋」の分家で、
非常に裕福な家庭でした。
龍馬の人格や思想のベースとなったのは
「裕福でありながら身分が低かった」という、
この生まれにあると私は考えています。
例えば、貧しかった岩崎弥太郎などは
日々の食い扶持を確保するのに必死で、
身分がどうのと考える時間的・精神的余裕はなかったでしょう。
しかし、龍馬は違いました。
なぜ同じ人間でありながら、士農工商と身分を分けるのか。
なぜ同じ武士でありながら、生まれによって
上士と下士に決められてしまうのか。
この葛藤が、龍馬の「平等」という理想へと繋がり、
後に師と仰ぐ人物との邂逅を引き寄せることになります。
それが勝海舟です。
勝海舟もまた、貧しい旗本の出身です。
民に対して公平であるべき役人が
生まれによって階級が決まる。
そうやって登用された役人たちが、
公平ではない対処や裁きを行っている現実を
たくさん見てきました。
だからこそ、勝は「公平な世」を目指すようになったのです。
平等を理想とする龍馬と公平を目指す勝海舟――。
二人が出会ったのは文久二(一八六二)年、
土佐を脱藩した龍馬が幕府軍艦奉行並だった勝を訪ねました。
世界情勢や海軍の必要性を説かれた龍馬は
大いに感服してその場で弟子になったといわれ、
勝を「日本第一の人物」と賞賛するほど心服しました。
その勝の下、龍馬は神戸海軍操練所の設立のために奔走しますが、
当時、姉の乙女に宛てた手紙にこう記しています。
「国のため、天下のためちからおつくしおり申候。
どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ」
天下国家のために全力を尽しています。
どうぞお喜びください――。
坂本龍馬という人物が、当時も、
そしていまなお多くの人々から愛されるのは、
この「私心」のない生き方が感動を与えるからだと思います。
龍馬は土佐藩の脱藩浪人でした。
しかし勝海舟はもちろん、
福井藩主の松平春嶽や薩摩藩の実力者・小松帯刀らに
信頼を置かれるとともに、桂小五郎と西郷隆盛の間に立って
薩長同盟を成し遂げました。
日本を二分するほどの勢力を持っていた薩長が、
なぜ一浪人の龍馬の働きかけに応じたのか。
それは龍馬に「これによって自分の名を上げてやろう」とか
「権力を握ってやろう」という私心が
なかったからだと思うのです。
こいつは本当に天下国家のために捨て身で生きている。
そう思わせるものがあったのでしょう。
強烈な身分社会の中にあって、多くの志士が
「自分は薩摩の西郷隆盛」「長州の桂小五郎」と
名乗っていたところ、「俺は日本の龍馬」と言ったのが
坂本龍馬でした。
国内で争っていたら外国にやられてしまう。
だから、薩摩も長州も幕府も
皆で一緒になって新しい国をつくろうと呼びかけ、
大政奉還まで漕ぎ着けました。
しかし、そのわずか一か月後の
慶応三(一八六七)年十一月十五日、何者かに暗殺され、
三十三年の生涯を閉じました。
その後の日本は龍馬が目指したものとは
異なる道へと進んでいったのではないでしょうか。
新政府は討幕へ向けて戊辰戦争を始め、
その結果、薩長中心の「富国強兵」をスローガンにした
軍国主義体制が敷かれ、
そうして明治期に日清・日露戦争へと突き進んでいきました。
もしも、坂本龍馬が生きていたら……、
おそらく戊辰戦争は起きなかったと思います。
戊辰戦争がなければ、日清・日露もなかっただろうし、
日清・日露がなければ、太平洋戦争も起きなかったはずです。
そうしたら、日本はどんな国になっていたのでしょうか。
歴史に「もしも」はありませんが、
そんな壮大な夢物語を抱かせてくれるのも
龍馬の魅力の一つでしょう。
「日本を今一度せんたくいたし申候」
これもまた龍馬が乙女に宛てた手紙の中の一節です。
最近あちこちでこの言葉とともに
「平成の龍馬、出でよ」という声が聞かれます。
政治も経済も家庭のあり方も、あらゆる面で
筋が通らないことが多く見受けられます。
だからこそ龍馬のように日本を洗濯し直す
存在の出現が待ち望まれているのでしょう。
しかし、考えてみてください。
龍馬だってもともとは地方の一下級武士でした。
その彼が私心をなくし、天下国家のために命懸けで動いた時、
日本は大きく変わったのです。
日本を変えるのは政治家でも大企業の社長でもない。
いまを生きる誰もが平成の坂本龍馬になれることを、
当記念館を通じて感じていただけたらと思っています。
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“私心をなくし、天下国家のために命懸けで動いた時、
日本は大きく変わったのです。”
坂本龍馬さん、本で読んだりTVで見たりしても、まだ全貌がつかめないような、不思議な魅力を感じます。
地方の一下級武士が、土佐藩を脱藩したりしながらも、薩長同盟、大政奉還の立役者となり、新しい日本をつくるために走り回る姿に感動します。
そうはさせじの敵は多かったのでしょう。
とりあえずの目標は達成したので、もう用はない、ということもあったのかも知れません。
志なかばで、暗殺されてしまいます。
“日本を変えるのは政治家でも大企業の社長でもない。
いまを生きる誰もが平成の坂本龍馬になれる”
私は、今回の変化にあって、平成の坂本龍馬が一人登場する必要ないと思っています。
逆にそれでは、全体の変化に結び付けるのは難しいような気がします。
そうではなく、多くの普通の人々が、新しい時代を一緒に創って行くのだと考えています。
そしてそれは、それぞれが、自分の出来ることを少しずつやっていけば、十分なのだと思っています。