"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“坂本龍馬が目指したものとは”

2011-09-18 23:55:55 | 日記

致知出版社よりお送り頂いている「人間力メルマガ」よりです。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/9/18】 致知出版社編集部 発行
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本日は『致知』の人気連載コーナー「致知随想」の中から、
特に反響の多かった記事をセレクトしてご紹介します。

今回は2011年9月号の『致知』より、
高知県立坂本龍馬記念館館長・森健志郎氏の
随想をご紹介します。

ぜひ最後までお読みください。


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■「致知随想」ベストセレクション 
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      「坂本龍馬が目指したもの」
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                   森健志郎(高知県立坂本龍馬記念館館長)


             『致知』2011年9月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


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高知県・桂浜にある県立坂本龍馬記念館は
今年開館二十周年を迎えました。

昨年放映された大河ドラマ『龍馬伝』の影響で再び
“龍馬ブーム”が巻き起こり、
しばしば入館規制を行うなど、
全国から多くの方に足を運んでいただいています。

前任の方の急逝により五年前に館長に就任しましたが、
私自身はそれほど龍馬に対して傾倒していたわけではなく、
以前は「なぜそんなに人気があるのだろう?」というのが
率直なところでした。

しかし、来館される方々の龍馬ゆかりの品々を
見つめる真剣なまなざし、そして龍馬宛に書いてくださる、
ほとばしるような熱きメッセージから、
その偉大さを教えていただいたように思います。

龍馬は天保六(一八三五)年、
土佐藩の下士(下級武士)だった
坂本家の二男として生まれます。

坂本家は下士とはいえ、土佐有数の豪商「才谷屋」の分家で、
非常に裕福な家庭でした。

龍馬の人格や思想のベースとなったのは
「裕福でありながら身分が低かった」という、
この生まれにあると私は考えています。

例えば、貧しかった岩崎弥太郎などは
日々の食い扶持を確保するのに必死で、
身分がどうのと考える時間的・精神的余裕はなかったでしょう。


しかし、龍馬は違いました。
なぜ同じ人間でありながら、士農工商と身分を分けるのか。
なぜ同じ武士でありながら、生まれによって
上士と下士に決められてしまうのか。

この葛藤が、龍馬の「平等」という理想へと繋がり、
後に師と仰ぐ人物との邂逅を引き寄せることになります。
それが勝海舟です。

勝海舟もまた、貧しい旗本の出身です。
民に対して公平であるべき役人が
生まれによって階級が決まる。

そうやって登用された役人たちが、
公平ではない対処や裁きを行っている現実を
たくさん見てきました。

だからこそ、勝は「公平な世」を目指すようになったのです。

平等を理想とする龍馬と公平を目指す勝海舟――。
二人が出会ったのは文久二(一八六二)年、
土佐を脱藩した龍馬が幕府軍艦奉行並だった勝を訪ねました。

世界情勢や海軍の必要性を説かれた龍馬は
大いに感服してその場で弟子になったといわれ、
勝を「日本第一の人物」と賞賛するほど心服しました。

その勝の下、龍馬は神戸海軍操練所の設立のために奔走しますが、
当時、姉の乙女に宛てた手紙にこう記しています。


「国のため、天下のためちからおつくしおり申候。
 どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ」


 天下国家のために全力を尽しています。
 どうぞお喜びください――。
 

坂本龍馬という人物が、当時も、
そしていまなお多くの人々から愛されるのは、
この「私心」のない生き方が感動を与えるからだと思います。

龍馬は土佐藩の脱藩浪人でした。
しかし勝海舟はもちろん、
福井藩主の松平春嶽や薩摩藩の実力者・小松帯刀らに
信頼を置かれるとともに、桂小五郎と西郷隆盛の間に立って
薩長同盟を成し遂げました。

日本を二分するほどの勢力を持っていた薩長が、
なぜ一浪人の龍馬の働きかけに応じたのか。

それは龍馬に「これによって自分の名を上げてやろう」とか
「権力を握ってやろう」という私心が
なかったからだと思うのです。

こいつは本当に天下国家のために捨て身で生きている。
そう思わせるものがあったのでしょう。

強烈な身分社会の中にあって、多くの志士が
「自分は薩摩の西郷隆盛」「長州の桂小五郎」と
名乗っていたところ、「俺は日本の龍馬」と言ったのが
坂本龍馬でした。

国内で争っていたら外国にやられてしまう。
だから、薩摩も長州も幕府も
皆で一緒になって新しい国をつくろうと呼びかけ、
大政奉還まで漕ぎ着けました。

しかし、そのわずか一か月後の
慶応三(一八六七)年十一月十五日、何者かに暗殺され、
三十三年の生涯を閉じました。

その後の日本は龍馬が目指したものとは
異なる道へと進んでいったのではないでしょうか。

新政府は討幕へ向けて戊辰戦争を始め、
その結果、薩長中心の「富国強兵」をスローガンにした
軍国主義体制が敷かれ、
そうして明治期に日清・日露戦争へと突き進んでいきました。

もしも、坂本龍馬が生きていたら……、
おそらく戊辰戦争は起きなかったと思います。

戊辰戦争がなければ、日清・日露もなかっただろうし、
日清・日露がなければ、太平洋戦争も起きなかったはずです。
そうしたら、日本はどんな国になっていたのでしょうか。

歴史に「もしも」はありませんが、
そんな壮大な夢物語を抱かせてくれるのも
龍馬の魅力の一つでしょう。


「日本を今一度せんたくいたし申候」

これもまた龍馬が乙女に宛てた手紙の中の一節です。
最近あちこちでこの言葉とともに
「平成の龍馬、出でよ」という声が聞かれます。

政治も経済も家庭のあり方も、あらゆる面で
筋が通らないことが多く見受けられます。
だからこそ龍馬のように日本を洗濯し直す
存在の出現が待ち望まれているのでしょう。

しかし、考えてみてください。

龍馬だってもともとは地方の一下級武士でした。

その彼が私心をなくし、天下国家のために命懸けで動いた時、
日本は大きく変わったのです。

日本を変えるのは政治家でも大企業の社長でもない。
いまを生きる誰もが平成の坂本龍馬になれることを、
当記念館を通じて感じていただけたらと思っています。

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“私心をなくし、天下国家のために命懸けで動いた時、
日本は大きく変わったのです。”

坂本龍馬さん、本で読んだりTVで見たりしても、まだ全貌がつかめないような、不思議な魅力を感じます。

地方の一下級武士が、土佐藩を脱藩したりしながらも、薩長同盟、大政奉還の立役者となり、新しい日本をつくるために走り回る姿に感動します。

 

そうはさせじの敵は多かったのでしょう。

とりあえずの目標は達成したので、もう用はない、ということもあったのかも知れません。

志なかばで、暗殺されてしまいます。

 

“日本を変えるのは政治家でも大企業の社長でもない。
いまを生きる誰もが平成の坂本龍馬になれる”

私は、今回の変化にあって、平成の坂本龍馬が一人登場する必要ないと思っています。

逆にそれでは、全体の変化に結び付けるのは難しいような気がします。

 

そうではなく、多くの普通の人々が、新しい時代を一緒に創って行くのだと考えています。

そしてそれは、それぞれが、自分の出来ることを少しずつやっていけば、十分なのだと思っています。

 

“放射線に打ち克つ食事法とは”

2011-09-18 23:38:04 | 日記

致知出版社よりお送り頂いている「致知一日一言」よりです。


件名: 【号外】放射線に打ち克つ食事法とは

「致知一日一言」読者の皆さま

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

福島第一原発事故以降、放射線被曝の問題に私たちの生活は脅かされています。

そんな中、私たちは放射線と正しく付き合い、それに対処していく必要があるといえましょう。

前回反響の大きかった、マクロビオティック界の第一線で活躍されている大場淳二氏の記事から、

本日は長崎で被爆したにもかかわらず、ある食事法によって原爆症にならなかった方のお話をご紹介します。

実例から見えてくる放射線との付き合い方とは。

 * * *

ここでご紹介したい記録があります。

長崎で被爆された医師・秋月辰一郎先生が残された『死の同心円』です。

「死の同心円」――。被曝した人たちは「吐き気がする。身体がだるい。血便が出る。頭髪が抜ける。皮膚に斑点が出る。歯茎から血が出る」
  
と原爆症の症状を訴え始め次々と倒れていきました。

発症が、きょうは爆心地から半径500mで被曝した人たち、きょうは1kmの人たち、といったように、同心円状に広まっていった恐怖感を表した言葉です。

秋月先生が被曝したのは、爆心地から1.8km離れた診療所でした。

いよいよ半径2km内で被曝した人たちが次々と倒れていく中で、不思議なことに秋月先生とそこで働く看護婦たちは原爆症にならなかったのです。

それはなぜか。秋月先生には二つの原体験がありました。

一つは玄米菜食によって生来の病弱を克服したこと、もう一つは長崎医大付属病院で放射線教室に助手として勤務していたことです。

『死の同心円』によると、秋月先生はご自身も含め、被曝した人たちが訴える症状がX線治療の後に患者が見せる「レントゲン宿酔」という症状に類似していることに気づきます。

そして、その治療法は濃い食塩水を飲ませることだったと想い起こしました。

「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかん」

秋月先生は、被曝した職員や周囲の人たちにこう指導した結果、原爆症の発症を免れたのです。

そして先生は89歳で亡くなられるまで医療活動や反核平和運動に献身的に従事されました。

ここで特筆すべきは、先生と職員の方々は玄米と塩、味噌汁を積極的に食べたということです。

(転載以上)


政府、東京電力、マスコミは、最近になってようやく、福島原発事故によって多大な被害が出たことを認めるようになって来ました。

しかし、問題は、その後も、大量の放射線が放出されており、空気や、水、土を汚し続けているということです。

今の取り扱われ方は、なにかもう過去のものとなっており、今足元の、そして今後も続く問題として取り上げられていないことがなんとも歯痒く感じます。

守るべきは、まず子供たち、そしてそれに続く子供たちだと思います。

 

日本の食事は、いいようですね。

食の回帰にも繋がっていけばいいと思います。