"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“百里への道の半分は九十九里”

2011-09-09 05:08:08 | 日記

 致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/9/8】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

      北海道銘菓として人気が高い
      「マルセイバターサンド」などの商品で
      全国に知られる六花亭製菓。

   同社の事業を二十一歳で引き継ぎ、発展させてこられた
   小田豊四郎氏(当時社長)の約二十年前の
   貴重なインタビュー記事をご紹介いたします。


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       「百里への道の半分は九十九里」
       
       
            小田豊四郎(六花亭製菓代表取締役)
        
            『致知』1993年1月号
             特集「奇蹟」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。


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【記者:最も厳しかった時期はいつごろでしょうか?】


やはり、(母の弟から)事業を引き受けた当時が
一番厳しかったですね。
二十一から二十三歳までの三年間です。
寝る間も惜しんで働きました。

そのときに私を支えてくれたのは、
札幌の千秋庵のご主人からいわれた二つの言葉でした。


一つは

「ともかく一所懸命に働け」、


もう一つは

「どんなに高くてもいいから一番いい原料を使って、
 だれにも負けない一番おいしいお菓子を作れ。
 百しか売れないときには利益がなくても、
 五百売れるようになると必ず利益が出るようになる」と。



この二つの言葉を、いまも経営の基本方針にしております。

困ると、「札幌のご主人からこんなことをいわれたな。よし
もう一遍頑張ろうか」ということで、非常に頼りになりました。


【記者:最初の三年間を乗り越えたきっかけのようなものは
    ありましたか?】


はい。三年間、母と二人で毎月、支払いに追われ、
売り上げは伸びずで、


「豊四郎、なかなか儲からんから駄目だろうか」


と母がいえば、私が


「せっかくここまで頑張ったんだから、もう少しやってみよう」


といい、私が


「おっかさん、やめようか」


といえば、母が


「いやいや、このお正月、クリスマスから
 年の暮れをやってみたら何とかなるかもしれない」
 
 
という具合に、お互いに積んだり崩したりしながら
やっとやっていましたんですがね、
昭和十四年の夏に、お金にいよいよ詰まってしまいました。

そして二人でようやくやめる話がついたんです。


それが八月のことで、九月に札幌の原料屋さんが来まして、
私の顔を見るなり

「おっ、おまえは金が欲しいな」というのです。
「わかりますか」といいましたら
「う一ん、おまえの顔に書いてある」というのですね(笑)。

そして「いくら欲しいんだ」というので

「五百円あったら当座の借金は返せる」

と話したら、


「五百円貸してやるから、
 これを借金を払うのに使っては駄目だよ。
 これで砂糖を買ってこい」


というのです。

それで砂糖屋さんに買いにいきました。
大きな馬車に二台分はありましたね。
そうしましたら、その年の十一月に
物価統制令が施行になりましてね。
それで砂糖が配給になったんです。

本当に間一髪でした。
それまではお菓子を買ってくださいといって売りにいったものが、
砂糖が配給になりますと、お菓子も配給になる。

配給になると、もらっておかないと損ということになり、
皆さん配給券を持って買いにこられる。
つい先だってまでは作っても売れずに処分していたのが、
全部売り切れになる。


戦争のおかげというととんでもないのですが、
僕の場合は本当に戦争のおかげで危機一髪のところを
何とか乗り越えたのです。

いま、社内の者にもよく話をするのですが、
やっぱり最後まであきらめないで、
本当に最後の力を振り絞ってやってこそ、
人生の味のようなものがあるような気がします。


百里への道の半分は五十里ではなくて、
九十九里が半分ですね。


実にタイミングよく恩人ともいうべき人が現れ、
まさに奇蹟のようなものですが、
それも、その前の三年間のどん底の経営、
いわば九十九里の努力の下地があったからこそだと思っています。


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“百里への道の半分は五十里ではなくて、
九十九里が半分ですね。”

この言葉に触れた時、思わず目の前が霞み、そして、鳥肌が立ちました。


小田さんが「辞めようか」と言えば、お母さんが「もう少しやってみよう」と言い、
お母さんが「辞めようか」と言えば、小田さんが「もう少しやってみよう」と言い、

お互いを励ましながら、ぎりぎりのところまでやって来て、

でもついに限界が来て、いよいよやめようか、と二人で決めた時に、

「おっ、おまえは金が欲しいな」と言って(笑)、お金を貸してくれる方が現れたということ。


“百里への道の半分は五十里ではなくて、
九十九里が半分ですね。”

この言葉の中に、一体どれだけの体験、そしてその思いが込められているのでしょうか。


“どんなに高くてもいいから一番いい原料を使って、
 だれにも負けない一番おいしいお菓子を作れ。”

昨日日記で書いた、私の先生の絵を思い浮かべました。
http://blog.goo.ne.jp/tera-3/e/b2f38d111a65a70dc2d46d2ed539401a


“「五百円貸してやるから、
 これを借金を払うのに使っては駄目だよ。
 これで砂糖を買ってこい」”

神様は、ここまでやった方に、このようにして手を差しのべるのですね。