岩切天平の甍

親愛なる友へ

反戦活動は抑止力になったか?

2003年06月21日 | Weblog

反戦活動は抑止力になったか?
あるいはたとえ阻止するには及ばなくても、せめてそれに向けての助力と成り得たのか?
  なぜ多くの国々が反対したのかという事を考えると、もちろん「アメリカの論理がとても同意できるようなものではなかったから」「各国の国益の事情」ということがあるでしょうが、では「民意」は影響力を持ったのでしょうか?政府の方針が決定されるにあたって、政権やそれぞれの政治家にとって「民意」がその他の諸々の事情よりも高い価値を持つ場合(例えばそうしなければ政権の存続にかかわる、あるいは次の選挙に不利であるといった様な)、それなりの影響力を持ち得ただろうと考えます。

人間は何を学んできたのだろうか?
  以前見たNHKスペシャルで、韓国と日本の高校生が連絡を取り合い、歴史のわだかまりに捕らわれない新しい関係を作ろうという試みを紹介していました。その中で両国間の歴史について、韓国の高校生は皆よく知っているのに対して、日本の高校生はほとんど知識がなかった。これはなぜだろう、という話があって、番組では結論めいたことは言わなかったのですが、僕が思ったのは「やった方とやられた方の違い」ではないかということでした。なぐられた事のない者になぐられる痛みは想像できない。アメリカはヒロシマからほとんど何も学んでいない。ではヒロシマはなぐられて、自分がなぐった韓国のことに思いがいっただろうか?
  なぐるばかりでなぐられた事のないアメリカが、精神的に発展することができないまま、その社会は深い病をかかえて、内外に悲惨な犠牲者を出し続けている、可哀相な人たちにも思えます。


殺された側の視点

2003年06月21日 | Weblog

6/20/03 週刊金曜日投書欄
殺された側の視点が欠けたイラク戦争の美化

テレビや新聞でイラクの人々の姿を見ながら、「みんな喜んでいるのだから、この戦争は結局正しかったんじゃないのか」という声が出るだろうと考えていました。

そんな折、五月二八日付の『毎日新聞』の「記者の目」という欄に、同紙記者による「イラク戦争がもたらしたもの」という文章が掲載されました。解放された市民の喜びを見ると、この
“人道的介入”に反対したのは間違いだったのではないかという論旨でした。言うまでもなく、この侵攻は「人道的介入」などではまったくありません。逼迫する危機もないのに、数千、数万もの人間の死が予想される攻撃を行うこと自体が人道に対する罪です。

我々がメディアを通して見るイラク市民の姿は、さまざまな意図を介したものであり、何らかは隠されていると考えなければなりません。そしてそこには、大きく抜け落ちているものがあります。それは殺された者の視点です。死人に口無し、我々には死んでいった何千人もの人々の声は届きません。戦争に反対した人々のその理由はさまざまだったでしょうが、その第一義は「理由もなく人を殺すな」と言うことでしょう。

記事の最後に筆者は、戦争に反対した人々に、「自分たちだけの『平和』にしがみつくことが他人の犠牲や苦しみを長引かせることになりかねない現実」を考えるべきだと呼び掛けています。 しかし、それはこの戦争を推進した者にあてはまるようであっても、世界中で自分の無力さを嘆きながら、殺されてゆく“他者”に心を震わせ、反戦を唱え続けた人々に送るには、まったくふさわしくないように思えます。