TAKE-LOG 竹ログ

壬生織・木綿の会 明治13年に始まる二俣の綿紡績の歴史

徳川信康廟に手を合わせてから、二俣城に向かう途中
皆原の丘から二俣の町並みを見下ろすと二俣川が見える。

江戸時代から明治時代の遠州一帯は綿の産地であった。
その綿の産地に目をつけた遠州の先覚者岡田良一郎氏や竹山謙三氏などが発起人となり、
二俣町の有志を誘って明治13年[遠州二俣紡績株式会社]を設立した。
これは全国に先がけた一大事業と言われる。



工場は二俣城の城山の下にトンネルを堀り、天竜川の水を引き二俣川に落し動力を起こした。
その後遠江紡績合資会社となり、その後十数年で廃業するところとなった。
白糸町の名もこの紡績工場から起こったものである。

昭和8年にこの水路は埋め立てられ5000坪の耕地となったそうである。
私は水路の跡を探したが分からない。

私は日本の棉の渡来地天竹神社の三河種の棉の栽培とガラ紡の研究をしているが
遠州二俣紡績株式会社が明治13年の始まりであるのは、鹿児島県の薩摩藩の起こした鹿児島紡績工場以外では
、明治16年渋沢栄一氏らが起こした近代紡績発祥の大阪紡績会社よりも古いのである。

ミュール式紡績機が当時の二俣にあったとは思えないので、遠州二俣紡績工場は臥雲辰致の作った
臥雲式紡績機の工場ではなかったかと推測している。

内国勧業博覧会が明治10年に東京で開かれて臥雲式紡績機が出品されてるので
それを見た岡田良一氏らが全国に先がけて紡績機を導入して開業したと考えられる。

その後十数年で廃業になったのも全国で新しい紡績機の導入が始まり大阪紡績等の
近代紡績が起こったのと、三河の矢作川流域のガラ紡の浸透により大事業のワリが
合わなくなって廃業に至ったのかも知れないと思っている。

そして大正、昭和の二俣は日本一の繭の集産地となっていったのである。



私が現在三河の蒲郡において、三河木綿から和棉と臥雲式紡績機に取り憑かれて
いるのも不思議に思えてならない。


蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「浜松市天竜区と壬生織木綿」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事