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アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

なぜ、声が出ないのか?

2009年02月28日 13時56分08秒 | メンタルの謎
先日、練習開始前に
選手達に対して、声の無さを強く指摘した。



5分近くは声の必要性を選手達に話していただろうか?
寒い中、長々と声の必要性を聞かされる選手達には
辛い時間だったかもしれない。



ただ、
選手達に「声の必要性」を
なんとしてでも伝えたかったし、
「声の大切さ」を伝えなければいけないような
何か義務感のようなものに駆られていた。



その日の練習が終わって、
仕事の休憩中に
「なぜ、あれほど〝声の必要性〟を説くことにこだわったのか?」
選手達に説教した動機を
自分なりに振り返っていた。



〝下級生を中心に、声が出ていない〟という現象があるのは
間違いない事実だが、
人間、急に変われるはずもない。



なんだかんだいって変わらない人も少なくないし、
変わるにしても、少しずつしか変われないのが人間、
ということをわかっているはずなのに、
なぜ、あれほど選手達の声の無さに憤ってしまったのだろうか。



選手達のサッカーノートを読んでも、
『声の必要性』は一人一人は感じている。
ただ、実際はなかなか声がグランド上で出てこない。
その矛盾がが許せなかったというわけではない、とは思うが・・・。



怒鳴ったり、選手に何かをキツく指摘した時は
練習後一人になると、選手に発した言葉が
自分自身に突き刺さる。
そこでいつも自問自答する。
「何が伝えたかったのか?」
「何に対して感情的になったのか?」



完璧な自己分析はできてはいないのかもしれないが、
この作業はいつも行うようにしている。



行うようにしている・・・というよりも、
行わざる得ない・・・というのが素直な感覚だろうか。



「〝声が出ない〟という現象には、
 何らかの理由があるのかもしれない・・・」



その漠然とした感覚を少しずつ紐解いていくというか、
原因の分析を進めていき、
自分なりに、ある結論に辿り着いた。



自分の分析が正しいとは限らないし、
自分の分析が正しい部分があったとしても、
全ての選手に当てはまるとは限らないが、
その次の練習前に
「〝声が出ない〟という現象に対する自分なりの分析」を
選手達に伝えた。



私自身はカウンセラーでも何でもないし、
臨床心理の勉強をしたこともないので
自分の分析に自信などはない。



ただ、
たとえ自分の分析や仮説が間違っていたとしても、
自分の分析や考えを正直に伝えることが
選手に対する誠実さに繋がると思い、
練習開始時に選手達に自分の考えを伝えた。



「声の有無は、他人と関わろうとする気持ちの有無」

「関わりたくない人とは話などしない、声など掛けない」

「その人と関わりたい、という気持ちが声になる」



聖人君子など居ない。
人間の心の中には
キレイな部分もあれば、汚い部分もある。
固い部分もあれば、柔らかい部分もある。



そういった人間同士が関わり合えば、
衝突もするし、喧嘩もする。
時にはイジメなど陰湿な弱者に対する暴力になることさえもある。



そういった経験が人間を、選手達を、子供達を
人間関係に対して臆病にさせてしまうのだろうか。



無意識的にそういった煩わしさを避けるために、
選手達は声を出さなくなっていくのかもしれない・・・。



自分なりの平静を保つために、
適度に他人と距離を置き、
基本的に自分からは声を掛けなくなっていく・・・。



それが、たどり着いた自分なりの結論だった。



その私なりの分析を言った後で
「それでも、人との関係を怖がらないでほしい」
「サッカーで人と関わりあってほしい」
「味方と対戦相手と向き合ってほしい」
「できれば、人との関係を楽しんで」
と選手達には続けて伝えた。



人間一人でできることなど限られている。
もちろん、サッカーなど一人でできるはずもない。
一人で出来なかったことが、
味方となら出来る。



対戦相手と真剣な駆け引きができれば、
熱い試合になる。
自分達だけでは、
熱い試合にはならない。



試合では、時として、
自分の限界を知り、
己の無力さを知り、
他人に対して絶望的な気持ちを持つことさえある。



私自身の経験から考えても
味方があまりにも自己中心的なプレーをしていたり、
相手に思いっきり削られた時などは
他人に対して絶望的になることは正直あった。



でも、
今考えると
その時のプレーヤーとしての自分こそが
最も自己中心的だった・・・。



今は指導者として、一人のサッカー好きの大人としていつも思う。

「サッカーが絶望であってはいけない」と。

むしろ

「サッカーこそ、全てのプレーヤーにとって、
 ポジティブなものであってほしい」



他人との関係や声を出すことについても、
サッカー部の活動の中で
ポジティブに捉えらてほしい、
と心から思っている。



選手達の短いサッカー経験の中でも
時として人の言葉に傷つき、
己の未熟さに絶望したとしても、
自分に対して諦めないでほしいし、
他人に対しても絶望しないでほしい。



たとえ、
時にぶつかり合ったとしても、
それは他人との関係を近づけるための
いいきっかけになるはず。



「人間に対して、他人に対して絶望しないでほしい」
というメッセージは
もしかしたら自分自身に対するメッセージでもあるのかもしれない。



「選手に対して、諦めてはいけない」
「チームに対して、諦めてはいけない」
「指導者としての自分自身に諦めてはいけない」



人間の可能性を信じていれば、
他人に対して、
自分自身に対して、
声に対して、
サッカーに対して、
もっと前向きになれるはず。



時として、
辛い思いや苦い経験もあるかもしれないが、
前向きや気持ちやポジティブな気持ちで
サッカーを通じて、自分以外の人間と向き合えば、
必ず何かが残るはず。



選手にそういったメッセージを伝えるには
まず、自分自身がそう信じたい。
「もっといい指導者になれる」
「もっといいチームになれる」



サッカーが
他人に対して絶望的な気持ちを生むものではなく、
他人を信じられる、
他人を信じたくなるようなものであってほしい。



選手達が心からそう思えるように、
まずはチーム内でお互いにそう思えるように、
これからもまず自分自身から、
声を出し続けたい。
選手達に声を掛け続けたい。


4 コメント

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Unknown (とおりすがりのコーチ)
2009-03-03 14:45:17
はじめまして。

熱いブログを拝見しました。

声が出ない(出せないのは)、ボキャブラリーが無いのでは?と聞いたことがあります。

中高生年代で、サッカーに必要な具体的な声だしをしている選手、そのことを教えている指導者はどのくらいいるのでしょうか?

なぜ声がでないのか?出せないのか?

ボールを奪われる危険を感じていないのか?
ボールを奪うチャンスを感じていないのか?

声を出すのには理由がありますよね。

なぜなんでしょうか?

空気が読めないのでしようか・・・

同じ指導者として考えさせられる内容でしたので、コメントさせていただきました。

頑張ってください!

返信する
とおりすがりのコーチさん、コメントありがとうございます (バカボンのおやじ)
2009-03-04 12:15:04
何故、選手達が声が出ないのか?
正直、自分にも本当の所はわかりませんし、一人一人の、原因も理由も異なるのかもしれません。
今の子供達の気質なのか?小学校・中学校で関わった指導者が声について、何も言わなかったのか?
声については、相手との駆け引きを考えて、相手に次の動きを読まれるのを嫌がって、声を否定する指導者の方もいるのかもしれません。
ただ、個人的には、相手との駆け引きと声の存在は充分両立すると思っていますし、万が一、多少、相手に意図を読まれたとしても、味方同士で意思の疎通を図れないよりも、声を出し合って、連動しようとする方がよっぽど建設的だし、スムーズにプレーできると思っています。

また、試合の空気や雰囲気、相手の狙いや気迫を感じるのは大切だとは思いますが、変に「空気を読めよ」というのも何か違う気がしています。「空気を読めよ」という考え方は、「俺は何もしないけど、お前は考えて、何とかしれくれよな」という受身なニュアンスを個人的には感じています。
〝受身〟では何も始まらないし、「わかってくれよ」とただ相手のリアクションを待つだけよりも、一言、言葉で伝えた方が時間も短くて済みますし、自分の意図が正確に伝わる、と思っています。
選手達は「声の必要性」自体は感じているとは考えています。あとは、声を出すこと自体に対する慣れの問題と、選手同士の距離感、人とかかわろうとする意識の問題、がクリアーできれば声が出るチームになるのではないか、と自分なりに仮説を立てています。
今は自分の分析や仮説を前提に、個人のレベルアップ、チーム戦術の構築、声を出すことの習慣化、コミュニケーションの習慣化に取り組んでいくつもりです。
サッカーにおいて、技術は大切だとは思いますが、「指導者として、一人の大人として、サッカーを通じて選手達に何を伝えたいのか?」ということを考えた場合、
「一人ではできないことでも、一緒だったらできる」
「そのために人とかかわろうとすること」
「人とコミュニケーションを取ること」
「縁あって、同じチームでプレーし、縁あって、試合をするなら、人との関係を楽しもう」
というのが自分の指導者としての、また大人としての哲学であり、信念です。
もしよければ、とおりすがりのコーチさんの信念や哲学を、機会があれば教えて下さい。
コメントありがとうございました。
指導する環境や場所は違いますが、お互いに頑張りましょう。
これからも、よろしくお願いします。
返信する
Unknown (むら)
2009-03-05 10:38:38
はじめまして。
「声の必要性」とても重要にかんじています。サッカーだけでなく生活していくうえでも、親や兄弟 妻 友人 恋人など思ったことを口に出して話、理解しあう事は大切な事とおもいます。頑張ってください。
返信する
むらさん、コメントありがとうございます (バカボンのおやじ)
2009-03-05 14:22:31
コメントをいただき、ありがとうございます。

自分はサッカーの指導と真剣に向き合いはじめて、また結婚してはじめて、自分の色々な部分が見えてきました。
特に、自分では意識できていなかった自分の影の部分というか、自分自身の悪い部分を認識できました。できました、というよりも、認識させてもらった・・というのが、正直なところでしょうか。
いい加減で、だらしなく、一人よがりで、自己中心的。人に甘え、無意識で依存して、痛いところを突かれると逆ギレとも取れるような反応をしたことまでありました。
それでも、中学・高校時代は、顧問の先生や監督、親に散々殴られ、蹴られ・・・少なくとも、サッカーの時間や家にいる間は、自分の悪い部分が押さえられていました。
ただ、大学に入って程無く一人暮らしをするようになってから、自分の悪い部分がまた顔を出し始めました。
社会人になると、様々な不満を抱え始めると同時に、自分が何をしたいのか?考え始めるようにもなり、嫌でも少しずつではありますが、自分自身と向き合うようになってきました。
それでも、まだ自分自身の悪い部分を直視することをどこか無意識で避けていた気がします。「今のままでは・・」という気持ちは持っていましたが、「どうしたらいいのかわからない・・」というのが、正直な気持ちだったかもしれません。
そんな中、縁あって、家内と結婚し、子供ができるのを機に、「家庭とサッカーの指導を最優先したい」という気持ちが強くなり、タクシーの運転手に転職して、サッカーの指導と家族との時間を自分の中で、最優先するようになっていきました。
今は、この選択は自分にとって間違いではなかったし、むしろベストな選択だったと心から思っています。
家族と真剣に向き合う中で、自分の弱さやダメさに気づくことができました。家内は自分の悪い部分をはっきり指摘してくれました。指導をする過程で、選手に発した言葉が自分に突き刺さりました。選手達は、直接は言いにくかったのか、サッカーノートを通じて、本音を伝えてくれました。
そうした過程を経て、自分が感じたのは「自分の悪い部分も認めながら、それでも、もっと良くなれる、まだまだ自分は変われるんだ、という自分の可能性を信じたい」という自分の本音と、「大事な人達と時間を積み重ねていくこと」の意味と、「コミュニケーション」の大切さでした。
いい人間関係は自然とできるものではなく、お互いがお互いのことを考え、少しずつでもよくしていこう、という意識を持ち続け、さりげない言葉やありふれた挨拶、ちょっとした気配りや優しさを重ねていくことこそが、いい人間関係を作っていくはず・・いつの間にか、そう思えるようになりました。
家族との時間やサッカーの指導で選手と向き合う過程で、自分は一人の人間として、本当に心からそう思えました。
もちろん、人間ですから、すれ違いも喧嘩する時もあるかもしれません。天気が、晴れの日ばかりでないように、曇りの日も、雨の日もあるとは思います。
そんな中でも、たとえ自分にとって、どんなに厳しい言葉であっても、自分に真剣に言葉を投げかけてくれた人を拒絶するのではなく、その人と真剣に向き合い、自分も真剣に受け止め、真剣に言葉を投げ返す。言葉の意味を理解したり、言葉の重さを消化するのに、時間がかかったとしても、真剣に自分のことを考えて投げかけてくれた言葉は受け止めたい、と思っています。
同時に、言葉のやり取りは、ディベートのような正解や落しどころを探すためのものだけではなく、お互いの関係を形にしていくものではないか。最近、強くそう思うようになりました。「言葉を大事にすること」や「声を出すことを意識すること」は、「縁あってかかわることになった自分の周囲の人達を大切にすること」だとも思っています。
だからこそ、これからも「言葉を大切にしたい」「声を出すことを大切にしたい」と心から思っています。
こんな長々とした返信コメントになってしまって、本当にすいません。
初めて自分のブログを読んでくれた、むらさんがくれたコメントや言葉は本当に嬉しかったです。もちろん、むらさんだけでなく、前回コメントをくれた、とおりすがりのコーチさんや、今までコメントをくれた方々の言葉は暖かく、またその暖かさが嬉しく、わざわざコメントを書いてくれた行為、言葉をかけてくれた行為を本当に有難く思っています。
もし機会があれば、むらさんの言葉や声に対する考え方をもっと詳しく聞かせてください。
今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございました。
失礼します。
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