かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

祖父と薪取りの思い出

2014-11-03 | 気ままなる日々の記録

 昭和20年は約明治80年ですから、私の祖父は明治12年の生まれだと思います。晩秋のぽかぽか日和の日には必ず祖父と林へ薪取りに出かけたことを思い出します。私の子ども時代は、どの家も晩秋に其の冬に必要な薪を取りに出かけていました。当時はまだ電気ストーブもガスストーブもなく、暖を取るには専ら火をたくしかなく、お風呂なんかも沢山の薪が必要でお風呂を立てた家へ貰い湯に出かけたり来て貰ったりしたものです。学校がお休みの日はお弁当持ちで家の林に出かけました。林に着くと祖父はまずその日の全体の計画を説明しました。最初は下草刈りといって鎌のしごとをします。ススキやハギなど、1~2メートルほど伸びた灌木を刈り取ります。

祖父は残しておきたい灌木に印をつけ、この木はここで大きくする,と数年先の林の姿をデザインしながら下草を刈ります。子供には鎌の使い方が難しいから主に剪定ばさみで灌木を根元から切らせていました。切った灌木は集めて束にして縄で縛ってリヤカーに載せます。予定の場所の下草刈りが終わると、次は「熊手」と云う道具で落ち葉をかき集めます。落ち葉は「繭籠」と云っていた大きな竹で作った籠に入れます。落ち葉は焚き付けに最適です。次に風などで折れた枝を拾い集めて束にして縄で縛ります。結構太い枝が落ちていたりしました。最後がチョット太い木を切り倒します。隣の木が大きくなって込み合ってきた木を間引くのです。この時は直径20cmくらいの木も伐りました。こうして倒した木は枝を落とし細かくしてリヤカーに乗せました。

 

お昼になると風の来ない陽だまりでお弁当を広げました・当時としては珍しい魔法瓶でお茶を持って行っていました。おかずは野菜〈サトイモやカボチャや大根)の煮つけでしたが、働いた後のご飯は本当に美味しいものです。お爺ちゃんは話好きで紙芝居屋さんのような口調で声色まで使って講談のようなお話をするのが得意でした。「おじいちゃんお話して」というと「いいよ。何のお話がいい?」と聞きますから

「楠正成の桜井駅の別れ」というと「よーし、といって立ち上がり身振り手振りを交えて「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずの一席」と始めてくれました。この他忠臣蔵の○○茶屋の一席とか、織田信長の謀略とか、祖父の十八番(おはこ)が沢山ありました。

《祖父の十八番『織田信長の謀略』》の概略をここで紹介します。真偽のほどは分かりません。

織田信長は政略結婚で隣国美濃国の斉藤道三の娘濃姫と結婚します。この頃斉藤も織田も何時かは京都に攻め上り天皇を警護する役に付き天皇から将軍職に就くよう命ぜられることを望んでいました。つまり、自分が京都に攻め登っている間に隣国から攻め込まれないように同盟関係を結んでおこうという、魂胆でした。その信長が毎夜3時ごろになるとソット寝室を抜け出し清洲城の天守閣に登り北に在る斎藤道三の居城のある金華山の方を見ている。妻は意を決してある日夫に何を見ているのか聞く。信長は妻を正座させて「お前も織田家の人間になった。これから話すことは極秘中の極秘だ。間違っても斎藤家へもらすことのないように」と口止めしてから、「実は斎藤家の有力武将5人が俺の味方になって、準備が整ったら狼煙を揚げるのでそれを合図に攻め込んできてください」といっている。其れで狼煙の有無を毎晩見ているのだと話した。ここを話す時の祖父は迫真の演技で力を入れていた。濃姫は信長の言いつけを破ってそのことを手紙に書いて父道三に知らせました。やがて信長は斎藤家の有力武将5人が謀反の疑いで道三から切腹を命じられ腹を切り、その部下たちは無実だと騒ぎ道三の軍隊は大混乱に陥っているという噂を聞き、時来たりと金華山に攻め込みやすやすと美濃国を手中に収めた。

お話が終わると祖父は必ず「今日のお話で大切なことは何か」と訊ねた。そしてそれにどんな答えをしても「なるほど」と感心した振りをし、「もう少し詳しく話してくれないか」と説明をもとめることはあったが、「そうじゃなくて、大切なことはここだよ」等と云ったことは一度もない。信長の話で大切なことは人の云うことを鵜呑みにするな」ということで、私はいつもそう答えて褒められていた。人が何か言ったら本当かなあと自分で調べたり考えたりしないといけない。斎藤の父娘は二人ともそれが出来なかった。これが祖父が喜ぶ答えだった。

 

祖父は大規模自作農の後妻(先妻は病死)の長男として生まれ、最終的には曾祖父の家督を相続しましたが、小学校を卒業後に隣村にあった高等科に進学、卒業後母校の先生に頼まれて小学校の代用教員になります。代用教員時代、教師を続けるなら師範学校に行った方がいいというアドバイスを受け、その気になって師範を目指します。その時募集があるのは岡崎師範の秋募集のみで、これを逃すと来春までまたねばならないということがわかり、岡崎師範を受験し合格します。卒業まで寮生活をしたと云っていました。長期休暇が終わって寮に帰るときは朝4時ごろお弁当を二つ持って岡崎まで歩いたという話をよく聞きました。御昼近くなると、農家の井戸端に行って、水を貰い弁当を使わせて下さいと云うと、どうぞどうぞといって、お漬物や野菜の煮つけをもってきてくださったものだとのこと、岡崎の寮に着くのは夜の八時頃だったそうです。昔の人は皆親切だったというのが祖父の口癖でした。ところで、今調べてみると、明治28年日清戦争が終わってこの年に東海道線は新橋から神戸まで開通し急行列車が走り始めていますので、岡崎尾張一の宮間は普通列車が運行されていたと思われます。と云うことは運賃節約のための16時間徒歩だったと推定されます。

ところで、薪取りの方ですが、切り倒した太い木を、リヤカーに乗るように祖父が短くノコギリで切るとき、その木にまたがってその木がころころしないように押さえているのが子どもの仕事。さらに、切った木をリヤカーに乗せるまで、手伝うのも子どもの仕事だ。そのころには下草刈りを束ねたものや、落ち葉をかき集めた繭かごでリヤカーは一杯だ。そんな時には幾重にもロープをかける。

 夕方4時半ごろになると、帰宅する小学校の生徒が通り始める。多分、日曜日にも学校へ遊びに行っていた子どもたちが4時の下校時刻になって、日直の先生に帰るよう言われて帰りはじめたのだろう。しばらく生徒たちの動きを見ていた祖父が突然ピーッとホイスルを吹く。なぜか祖父はいつもホイスルを首から掛けていた。『○○小学校の生徒集合!』と云って右手を挙げる。よく通る大きな声だ。声に力があり無視できない迫力が込められている。生徒たちは何事かときょろきょろしながら集まってくる。その中の体が大きいガキ大将のような一人の生徒に「チョットこちらへ来て」と声を掛け「君の名前は?」と聞き出す『伊藤くんか。お父さんの名前は?」「ああそうかそうか、オジサンはお父さんをよく知っている」と話す。 

 集まった生徒が10~15人ほどになったところで「注目!」「礼!」「ただ今から○○小学校北東地区報国少年団の結団式を行う。[報告国少年団の「報国」は、ここで急に小さい女の子の声の真似をして『この前のお祭りの日、私はおばあちゃんに連れられてバスに乗って一の宮の針綱神社へお参りにいきました。お婆ちゃんは家族の健康を神様にお願いしたそうです。私は、勉強がよくできますようにお願いしました。帰りに綿菓子を買ってもらいました。これが、私の今年のお祭りの日の報告です」という報告ではないぞ!大きい子たちがどっと笑う。「報国少年団の報国は、今皆が通っているこの道や学校を作ってくれた日本と云う国に感謝しお礼をするという意味だ。皆のお父さんやお母さんが皆で助け合って高い税金と云うお金を国に払っている国はそのお金で学校や道を造ってるんだ。皆は道を通るたびに学校へ行くたびにお父さんやお母さん、お爺さんやおばあちゃんに感謝しお礼を言い、いつかはお返しをしなければいけない。分かりましたか?」分かった人は大きな声で返事を!」皆が大きな声で「はい!」というと「はい、皆お利口さんでいいこばかりだ!」「どういうお礼をするか?」『それはお父さんやお兄さんが兵隊さんに行っていてこの取入れの秋に働き手がいなくて困っておられるお家へお手伝いに行くことでお礼にする。」「伊藤君前へ!」「注目!この伊藤君を○○小学校北東地区報国少年団の団長に任命する。」「全員が団長の指示に従い一致協力して農家のお手伝いをすること。今日はその練習をする。その前に自分は伊藤君の友達だと思う人は前へ!」5~6人の男の子が間へに出てきた。「友達はいつも伊藤君を助けなければいけない。いいか!」この5人を○○小学校北東地区報国少年団の班長に任命する。一人ずつ自分の前に立たせて頭の上に手を置きながら第1班の班長。名前を大きい声で』と云って名前を云わせて次の子に移る。

 

結団式が終わった後、祖父は団長に指示して残りの荷物をリヤカーに乗せて自宅まで運ぶように指示した。伊藤君の指示は適格で、山盛りになったリヤカーにはロープを掛け、引きロープも3本ほどつけ班によって引き組と押し組に分けリヤカーが動き出した時には小走りするほどの速さになっていた。祖父はそれを厳しく注意しゆっくり進めた。事故や怪我をおそれていたからだ。リヤカーは無事自宅の庭に到着し祖父が子供たちに『今日はみんなよくやりました。皆で力を合わせておおきな仕事をするという体験をしました。団長さんもよく号令を掛けていました。班長さんもよく隊長さんを助けていました。皆もよく協力しました。○○小学校の生徒さんは皆立派です。それでは解散します。道草をせず急いでお家へ帰ってください。道は分かりますねお家の近くまでは皆一緒に帰って下さい。解散!」。

 このお話は昭和18~22年ころの出来事ですが、現代ではこんなことはできないと思います。当時は地域のお年寄りが近所の子どもたちをよく叱りよく褒めていた。それに当時は祖父の行為をズルいとみなす人はいなかったと思う。地域の大人たちの結束も強く、それぞれの人の個性を知り尽くしたうえでの付き合いで助け合っていたと思う。祖父に関して言えばあの人は子供好きで子どもと一緒に何かをしたい人だからなあ、ぐらいであったと思われます。今思い出しても祖父は子供たちの心をつかみよく笑わせ、子どもたちを思うように動かしていたと思う。これが真の指導力なのでしょう。多分これは師範学校の付属小学校での教育実習中に指導教官に教えられて身に着けたものと思われます。戦後の教育改革はこうしたものも全部壊してしまいました。

そう云えば、晩御飯が終わるごろ近所のお婆さんがよく祖父を訪ねて我が家に来ていました。戦地の息子から手紙が来たというのです。祖父と同年配の女性で読み書きができない女性は沢山いました義務教育は小学校4年までで小学校5~6年になると弟や妹の子守りを仰せつかる立派な働き手で学校などへ行かせてもらえない家庭が多かったのです。

祖父はまず、手紙を大声で何度も読んであげます。次が返事を書くことになります。どういう返事を書くか文章まで相談して手紙を書いてあげ切手を貼って或いは封筒に入れ切手を貼って「これをお宮の前のポストに入れやあ。と云ってお婆さんに手渡します。祖父の机には切っても封筒も便せんもハガキも全部そろっていて、返事を書いてあげるということは何でもないことだったのです。でもお婆さんは大変喜んで何度もお礼を言っていました。このように、当時の田舎はの大人たちは全員が家族か親戚のような強いきずなで結ばれていました。これも戦後無くなりました。

 


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