読書と著作

読書の記録と著作の概要

「図書館にいってくるよ」

2006-05-08 05:47:50 | Weblog
「図書館にいってくるよ」 (近江哲史著)

図書館員が、本書の目次を開くとギョッとするだろう。なぜなら、本書の第一章は「ひまつぶしに出掛ける」とある。この本の著者は、「ひまつぶし」のために図書館を利用しているのだ。図書館はそもそも教育のための施設。「ひまつぶし」のために利用するなんて、怪しからん。そんな意見もあろう。しかし、現実を直視してみよう。平日の昼間の図書館。そこには退職者と思われる五十歳代から七十歳代までの男性の姿を数多く見かける。株式投資のためか、または会社員時代から惰性からか、日本経済新聞や日刊工業新聞を丹念に読む。ダイヤモンドや東洋経済をひざの上に置いたまま居眠りをする。中には辞書や参考書を広げて、細かい字で執筆中。そんな姿をチラホラとみかける。印刷・出版される当てもない「自分史の原稿」をひたすら書き綴っている高齢者もいるだろう。これらの人々を総称して「ひまつぶし」の目的で図書館に来ている。そういって差し支えないだろう。
しかし、考えてみて欲しい。これら高齢者たちは大正から昭和初期の生まれ。戦争で苦労し、日本の高度成長時代を支えて来た。しかも、過去においてたっぷり税金を納め、そのお蔭で図書館も建設出来た。会社人間として四十年前後勤務して、ようやく解放され「家でゆっくり」と思いきや、妻の見解はちがう。夫に家でゴロゴロしてもらっては困る。出かけてもらいたいのだ。ゴルフに行くにはお金がかかる。何しろ年金生活者だ。碁会所、パチンコ、カラオケ、駅前の書店・喫茶店・居酒屋等々行くところは多少あるが、図書館で過ごすのが最も経済的。少なくとも新聞は「日替わり」で変化する。毎日行っても飽きない。それに、冷暖房完備。

「ひまつぶし」に紙幅をとりすぎた。著者は退職した元サラリーマン、基本的には真面目な人物。調べ物をするために図書館を利用している実践家だ(第二章)。イギリスに旅行した後で、湖水地方のいわれやそこに住んだ文学者たちの跡を追い文献を探す。一九世紀イギリスの詩人・画家ラスキンについて調べた。また、満州で過ごした子供時代を回想し「満州国国歌」の歌詞を見つけるために努力を重ねる。チャント図書館の本来の活用法も身につけている。また、第五章では図書館でのイベントを紹介する。著者は、近所の千葉県流山市の市立図書館で、ボランティア団体の一員として映画会を開く。この会では、往年の名作「カサブランカ」、「エデンの東」の上映を行った。

以上のように本書は定年退職者を対象とした「図書館利用マニュアル」といった性格の本。しかし、マニュアルでありながら、「読み物」という編集態度に徹している。巻末には丁寧な索引(人名・件名等が混在)がある。この索引の中から、アメリカの図書館、郷土史、自分史図書館、電子図書館等々気になる事項が出てくるページをめくってみる。そんな利用法もあろう。本書を購入するのは決して「ひまつぶし」に図書館を利用する高齢者のみではなかろう。

(2003年、日外アソシエーツ、1900円+税)



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永井龍男と火災保険証券

2006-05-08 05:21:11 | Weblog
永井龍男と火災保険証券  


 一九九〇年十月十三日、作家・永井龍男(ながい・たつお 一九〇四年生まれ)は、横浜の栄共済病院で死去する。八十六歳だった。一九二七年(昭和二年)、横光利一の紹介で文藝春秋社に入社した永井龍男。戦前、戦中期に同社で編集の仕事に携わり、「オール讀物」「文藝春秋」などの編集長を務めた。戦後間もない一九四六年(昭和二十一年)に、永井龍男は同社を辞め文筆活動に専念する。短編集『一個その他』(一九六五年刊)で野間文芸賞、芸術院賞を受賞、一九六九年に芸術院会員に推され、一九八一年には文化勲章を受賞した。また、東門居(とうもんきょ)の号を持つ俳人でもある。

 おだやかな作風、私生活を大事にする生き方。そんな永井龍男の生涯の中で、少々異彩を放ったのが、芥川賞選考委員の辞任劇である。一九七七年、池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞受賞に反対し、その受賞決定後に芥川賞選考委員を辞したのだった。久米正雄(一八九一~一九五二)、大佛二郎(一八九七~一九七三)、小林秀雄(一九〇二~一九八三)、高見順(一九〇七~一九六五)などの諸先輩に連なる鎌倉文士の一人として知られていた永井龍男である。鎌倉に住みはじめたのは一九三四年(昭和九年)のこと。今日出海(一九〇三~**)の手引だった。永井龍男の生まれは東京・神田。かつて夏目漱石が在学していた錦華小学校を経て、一ツ橋高等小学校を卒業し、蛎穀町の米穀取引所仲買店林松次郎商店に奉公に出た。この店の近くに谷崎商店(谷崎潤一郎の生家、後に町名変更)もあったそうだ。
 文学の出発は早い。一九二〇年(大正九年)十六歳の時、「活版屋の話」が「サンエス」誌に掲載されたというのがスタート。「サンエス」という雑誌は、同名の万年筆の会社が宣伝を兼ねて出していた文芸誌であった。 永井龍男の随筆(自分では「雑文」と呼んでいた)の一つに火災保険証券が登場する。それは「北風」という作品の中。この作品は、朝日新聞に掲載された他の随筆とともに『落葉の上に』(一九八七年・朝日新聞社)に収録されている。永井龍男は、「北風」の中で神田が火事が多い町であったことを回想する。そのあとで次のような形で火災保険証券が登場してくる。

 …北風が吹きすさんで、横丁の裏店のトタン屋根までガタピシ突っ込んでくる冬の夜は、お袋はまず位牌と火災保険の証書を枕もとに置き、シャツ・モモヒキ類は、火急の際にも身に付けられるように命令を下した。
 それに加えて、私は学校のカバンと学帽、はかまに足袋を忘れてはならない。汚れ放題のはかまなどには愛着はなかったが、左右とも親指のむき出しになる古足袋は、冬中私を悲しませた。大晦日の晩に、正月用として渡してもらう一足のほかには、お袋の給与はないのである。
そのお袋は、生命保険のことなどこれっぱかりも知らないが、火災保険だけは無理に無理をして再契約していた。
 町の要所要所には、梯子を町屋の横に一脚立て、そのてっぺんに、半鐘がつるしてあった。番所へ出火の知らせが入ると梯子をあがって鳶の若い衆が半鐘を打つ。

 「北風」の最後の部分には、火災保険をたっぷりかけていたおかげで焼け跡にすぐ家を建て直した金持ちが描かれている。この人物は、周囲から「ごらん焼け太りの見本だよ」と後ろ指をさされたという。そんなエピソードも紹介されている。「北風」に出てくる火災保険は、永井龍男の生年と年齢等から推測すると、明治から大正に元号が変わった一九一二年前後のことであろうと思われる。「焼け太り」というコトバはけっこう長い歴史があるようだ。

 永井龍男は一九八四年(昭和五十九年)八月十九日から九月十七日迄、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載する。その中にもごく僅かであるが火災保険に関する叙述を見つけることができる。

 北風の強い夜は、位牌や保険証書の類を枕許に、シャツ股引は布団と布団の間に挟んで温め、いつでも役に立つよう用意して寝る。昼の疲れでぐっすり眠っていても、遠い半鐘の音が聞こえると、必ず一家のうちの誰かが眼を覚した。

 「私の履歴書」は、永井龍男の死後一九九一年になって単行本となる。永井龍男の手によって、新聞連載時のもの多少の手が加わっているらしい。本のタイトルは『東京の横丁』。講談社から出版された。


エスペラントと情報整理学についての自分史

2006-05-08 05:16:39 | Weblog
エスペラントと情報整理学についての自分史

私が初めてエスペラントのアルファベットの現物に接したのは1957年5月。神戸高校に入学直後のことだ。海外文通クラブというクラブ活動があり、文化祭の展示で見た。このときの海外文通クラブの部長(3年生)は池上徹。現在、神戸市で弁護士を開業している。
文化祭での展示は、神戸市外国語大学貫名美隆教授(英文学・参考科目としてエスペラントを講義)の援助で作成したと聞いている。その年の秋、私は伊東三郎「エスペラントの父ザメンホフ」(岩波新書)を読み“感動”した。そして城戸崎益敏「エスペラント第一歩」(白水社)を購入、独習を始めた。翌年には日本エスペラント学会に入会する。更に1959年1月には、神戸エスペラント協会の新年会に参加、そこで初めて音声としてのエスペラントを耳にした。由里忠勝、宮本新治等全国的にも有名なエスペランティストを知る。
神戸大学経済学部に入学したのが1960年、エスペラントを学習していたので、迷わず第二外国語は(ラテン系の言語である)フランス語をとった。経済学部の約90%の学生はドイツ語を選択する。そのため、文学部・工学部の学生たちで構成されるクラスに配属となる。同じクラスに後年落語家となった桂枝雀(文学部中退、本名前田達、1939-1999)がいた。桂枝雀は、落語家になってからエスペラントを学んだらしい(週刊現代1981年3月12日)。しかし、彼の死により、フランス語の教室の思い出やエスペラントについて語り合う機会は永久に失われてしまった。大学入学直後は、所謂「60年安保」の嵐が吹き荒れる。神戸高校の4年先輩にあたる樺美智子の死の衝撃は大きかった。神戸大学では、高校の同級生として生前の本人を知る人も多く、また樺美智子の父(樺俊雄)がかつて神戸大文学部教授であったことから子供時代の樺美智子を知る教授もいた。この年の秋、中央公論社から『学者商売』が出た。著者は一橋大学の野々村一雄教授(ソビエト経済論)。大学教授の貧乏話があるかと思うと、色っぽい話もでてくる。その後、20年近く経った1978年に、『学者商売』は新評論社から新版が出た。もうひとつ、『学者商売その後』という続編も同時に刊行された。野々村一雄は大阪商大(現大阪市大)予科時代にエスペラントを学んだことがある。そのことが『学者商売』に出ていた。なお、『学者商売』という本は「情報整理学に関する先駆的文献である」という説が1978年11月6日付読売新聞に出ていた。確かに『学者商売』の目次には「書物の集め方について」、「書物の整理について」、「読書について」といった項目が並んでいる。まさに至言だ。後年分かったことであるが、野々村一雄は亡くなるまで日本エスペラント学会の会員だった。それなら一度ぐらいは謦咳に接するチャンスはあったのに、今更ながら残念に思う。
大学4年の時、父が東京転勤。私はカトリック教会が経営する学生寮六甲会館で一年間を過ごした。この寮の一部の部屋を利用して語学教室が開かれていた。そのためドイツ人エスペランティストS.Knorr神父の姿を時々見かけた。寮の食堂でKnorr神父と交わしたエスペラント会話。約40年前の懐かしい思い出である。
大学卒業間近の1964年1月、学生寮の石油ストーブで暖をとりながら、加藤秀俊『整理学 いそがしさからの解放』(中公文庫)を読んだ。この本は『学者商売』を除くと初めて読んだ情報整理の本。今でも折に触れ参照している。『整理学 いそがしさからの解放』に、「無限の情報のなかから使うに価する情報を主体的にえらぶ」(136ページ)という箇所があり、傍線が引いてある。情報整理の真髄は、この言葉で十分に言い尽くされている。要るものを保存・整理し、不要のものは廃棄するか(それを必要とする)友人・知人に贈呈する。または、図書館に寄贈する。また、近所の図書館で容易に読める「ありふれた本」は、買わない。以上は、私が日常的に心がけていること。一人の人間があらゆるテーマに関心が持てるわけがない。個人個人の関心事はおのずから絞り込まれているはずだ。 
社会人になってからの1969年、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)が刊行された。この本は発売と同時に購入、7月21日付の初版本をいまだに所持している。エスペランティストの著者だけあって、エスペラントについての言及があり、そこには同じく傍線が引いてある。この本では、カード式情報整理に特色があるが、この点について私は全く影響を受けていない。本以外の紙情報としては(古典的な)一件一葉のスクラップファイルを使い、必要に応じてそのファイルに封筒を綴じ込み、その中に来信ハガキや封書を入れたり、小型のチラシを放り込んだりもしている。このファイル帳の増加が悩みの種。40年間続けているので、自宅内の棚を占領しはなはだ評判が悪い。しかし、モノを書く身になると、このファイルが極めて役に立つ。リアリティーのある文、説得力ある文を書くためには独自に集めた資料が必要だ。本稿冒頭で読売新聞の記事を紹介したが、これは現物を持っているからこそ可能となる。情報整理の本は好きなので板坂元『考える技術・書く技術』(1973年・講談社現代新書)、立花隆『「知」のソフトウェア』(1984年・同)なども読んだ。野口悠紀夫『超整理法』(1993年・中公新書)も読んだが、これは走り読み程度。
最近になって、情報管理のオーソリティー中村幸雄(1917-2002)のことを少し詳しく知った。中村幸雄は東京帝大理学部卒。逓信省勤務を振り出しにNTTに勤めたり大学で情報論を講じたりした。おびただしい数の情報管理の本や論文を書き、1981年から1992年まで情報科学技術協会の会長の職にあった。外国語が得意で英独仏西伊にはじまりフィンランド語やインドネシア語も学んだ。エスペラントも勉強し、一時は日本エスペラント学会の会員だったこともある。ただし、エスペラントに関して自分はEsperanto-uzanto(エスペラント使用者)であり、エスペラントの「使徒」ではないとチョット距離を置いている。中村幸雄とは一度だけ会ったことがある。赤坂泉クラブ開かれた記録管理学会の会合で、丁度前の席にいて差しさわりのない話をしていたが、「外国語を色々勉強している」との発言があったので、「エスペラントを話しますか」と、エスペラントで質問したところ、直ちにエスぺラントで答えが返ってきた。ここまで書いて気づいた。情報整理の本を書く人たちに何故エスペラント関係者が多いのだろうかということだ。これはおそらく「合理主義的考え方」をする人はエスペラント(例外のない文法規則、例えば名詞はtomato、piano、banano、bombo、societo等すべて“o”で終わる)に惹かれることによるのだろう。

株式会社アモール・トーワ

2006-05-08 05:11:48 | Weblog
株式会社アモール・トーワの牽引車となったのは、なんといっても代表取締役田中武夫氏の個性・熱意・リーダーシップである。
1970年代から80年代の繁栄を享受していた東和銀座商店街。しかし、相次ぐ大型店の駅前進出に伴い客足は次第に減少、空き店舗が目立つようになる。株式会社アモール・トーワは、このような現状を「何とかしよう」という強い思いから商店街の有志41名の出資により設立されたものである。加えて、「地域の維持・発展のためには、地元の商店街がしっかりしていなければならない」という理念が、この会社には存在する。すなわち、自分たちの利益追求のみを求めて、この会社が設立された訳ではない。遠くまで歩いて買い物に行けないお年寄り、寝たきりや一人暮らしのお年寄り、地域で働く場所を見つけたい障害者やその父兄、母親が働いている小学校低学年の子供たち。これらの人々にとって、地域の商店街は不可欠な存在。また、災害時の助け合いや、不作による米不足の際の「商店と固定客とのあいだの商品の融通」、お祭りや盆踊りに代表される地域のイベント等は、地域の商店街により維持されていく。健康で文化的そして安全な地域住民の生活は、地元商店街が支えているといってよい。残念ながら、このことを当の地域住民が認識しておらず、価格と品揃えが多い大型店に商品・サービスをもとめてしまう。これも現実だ。

東和銀座商店街から魚屋やパン屋が廃業によりなくなってしまう。商店街の魅力が激減してしまう。そんな危機感から株式会社アモール・トーワが設立された。商店街が協同して魚屋やパン屋を維持していこう。そこから始まった事業が宅配弁当(高齢者用・イベント用)の製造・供給、地元周辺の学校給食の受託(現在13校)、ビル管理(清掃等)、商店街の空き店舗を利用した学童保育所と広がっていった。この広がりは一朝一夕に出来上がったものではない。着実に一つ一つの仕事を成し遂げていき、信用を勝ち得ていった株式会社アモール・トーワだからこそ成し遂げられたもの。組織形態は株式会社であるが、「あくなき利潤の追求」は行わない。地域のため、地域あっての商店街だからだ。しかし、会社が経営破綻に陥っては元も子もない。商店街経営者のボランティア精神、パート主体の労働力等様々な努力が重ねられ、これまでの13期中10期が「有配当」となっている。会社が行う多種多様の事業は、有機的に結びついてプラスを生む。廃業した時計店の店主は株式会社アモール・トーワが行うビルメンテナンス事業に転進した。学校給食や宅配弁当の食材は(結果的に)商店街の商店から供給を受けることがあり、これは商店の売り上げ増に結びつく。学童保育のため毎日商店街に来る小学校低学年の生徒たちは、将来の顧客だ。

JR常磐線亀有駅前にある大型店で働く人たちは、しょせんサラリーマン。支店長は顧客の顔を見てはいるが、究極的には「本店」に顔を向けている。採算に合わなければ店舗撤退ということもありうる。そんな「地元無視」は、突如として起きる。そのような体験を経て、株式会社アモール・トーワやその母体の東和銀座商店街の経営者たちの熱い思いは、少しずつ地元に浸透していく。

株式会社アモール・トーワには全国各地の商店街から見学者が来る。田中代表も講演を頼まれる。しかし、第2第3のアモール・トーワが他の地域には生まれていない。形式だけを取り入れようとしても成功には至らない。地域商店街は地域のためには必要不可欠の存在。そのような強い確信と(自分たち目先の利益でなく)「地元のため」という強い思いがなければ成功する訳がない。強力なリーダーシップも不可欠だ。田中武夫氏(滋賀県草津市生まれ)の資質や育った環境、そして八幡商業学校(旧制、卒業時は八幡商業高校)入学時の最初の一ヶ月に徹底的に仕込まれた「商人の魂」。1950年に高校を卒業して勤務した東京日本橋の繊維問屋での10年弱の労働体験。これらが渾然一体となってアモール・トーワを牽引するバックボーンとなっているのだろう。

江戸時代以前から脈々と伝わってきた、いわゆる近江商人の精神とスキル(マーケティング、企業会計、人事管理)。そんな「DNA」のごときものがある。これが田中代表に会ったときの印象である。

(参考)
小倉栄一郎「近江商人の系譜」(1980年・日経新書)によると、日本橋繊維問屋街に滋賀県出身者が多いのは、徳川時代初期に遡る。徳川幕府が江戸開府とともに八幡商人に土地を与えたことに始まる。



神戸時代の小森和子さん

2006-05-08 05:09:35 | Weblog
神戸時代の小森和子さん

「おばちゃま」の愛称で呼ばれていた小森和子さんが今年一月八日に亡くなった。東京生まれ、東京育ちの小森さんが神戸にやって来たのは昭和の初期のこと。外国映画、ダンスが好き。英語、タイプライターが得意。外国にあこがれた小森さんは、横浜で働いてお金をため外国に行こうと考えた。時代背景を考慮すると、「とんでもない」お嬢さんだった訳である。当時、外国へは船で行く。港町横浜で働いてお金をためよう。そう思った。ところが、横浜は東京に近く、両親に連れ戻される可能性が大きい。そこで同じ港町の神戸に行くことにした。神戸では、イギリスの船会社のタイピストとして雇われる。後に秘書に昇格、けっこう良い給料を貰い、オシャレのために出費することもできた。神戸の生活は二十二歳から三十二歳までの十年。ハイカラな港町神戸で「外国の空気」を存分に吸った。これが、戦後になって映画評論家として活躍する下地となったに違いない。
神戸時代の体験については、自伝『流れるままに、愛』(一九八四年、集英社)があり、その中で詳しく述べられていた。また、神戸のタウン誌「神戸っ子」(一九八五年、六月号)に、「第二の青春」というタイトルのエッセイを寄稿している。そこには、中国人の下着専門店、ユーハイム、ドンバル、元町、トーアロード、トーア・ホテル等、神戸時代を回顧した様々なキーワードがちりばめられていた。その頃から、映画は一人で見るのが好きだった由。小森和子さんが、映画評論家としてのスタートを切るのは、戦後東京に戻ってきてからのこと。映画評を書き、淀川長治さんに何度も書き直しを命じられたのも、東京に戻ってきてからのことだ。