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ライオン歯磨本舗でコピーライターだった詩人大手拓次

2006-05-13 02:14:42 | Weblog
大手拓次(おおて・たくじ、一八八七―一九三四)は、明治の終わりから昭和初期にかけて旺盛な詩作活動を展開した象徴派の詩人である。一九一二年(明治四十五年)、北原白秋の「朱*(ざんぼあ)」に吉川惣一郎の名で「藍色の蟇(ひき)」、「慰安」を発表して詩壇にデビューした。
このとき、大手拓次は二十五歳で、大学卒業の年。一方、二歳年長だった北原白秋は、既に詩壇の大御所的存在であった。以下は、「藍色の蟇(ひき)」という詩の冒頭の三行である。
                  ○
森の宝庫の寝間(ねま・・ルビ)に
藍色の蟇派黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかのひとつの絵模様をかく。
                  ○
 大手拓次は、生来の孤独癖、含羞癖から詩壇と交わることもなく、生前一冊の詩集も刊行せず、四十七歳で茅ヶ崎の病院で結核のため死去した。多くの女性に思いを寄せたが、生涯一度も結婚していない。萩原朔太郎や室生犀星と並び白秋門下三羽烏とみなされていたが、他の二人に比べて大手拓次の名はそれほど人口に膾炙されていない。
処女詩集『藍色の蟇(ひき)』が逸見亨の編集でアルスから刊行されたのは、没後の一九三六年。しかし、白鳳社からは『大手拓次全集』(全五巻)が一九七〇年から翌年にかけて刊行されている。また、岩波文庫版『大手拓次詩集』(一九九一年)も刊行された。今日では、大手拓次の評価は定まったといってよいだろう。これらの文献が現出するにあたっては、原子朗(はら・しろう)の功績が大きい。原子朗は、大手拓次の詩作を原点に立ち返り二〇余年にわたり調査研究し、それまでの“伝説”に修正を施した。

大手拓次は、今日でいう「異色サラリーマン」だった(宮本惇夫「ライオン歯磨の異色社員」一九九二年十月二十三日付日本工業新聞)。その生涯を辿ってみよう。大手拓次は、群馬県碓氷郡西上磯部(現安中市)の生まれ。名門旅館鳳来館を継ぐはずであったが、家業は弟秀男に譲る。前橋中学(現前橋高校)を経て、早稲田大学英文学科を一九一二年に卒業する。中学時代に中耳炎等で一年休学、大学時代は成績不良で二度の留年。そんなことから大学卒業時の年齢は二十五歳になっていた。就職先が見つからず苦労したが、四年間のブランクの後にライオン歯磨本舗に入社する。二十九歳だった。その後、亡くなるまでの十八年間をサラリーマンとして過ごす。勤務の傍ら詩作に没頭する。大手拓次が所属したのはライオン歯磨本舗の広告部。ライオン歯磨本舗の正式社名は一八九一年(明治二十四年)創業の小林富次郎商店(一九一八年に小林商店と改称)。この会社は、現在のライオン(歯磨き、洗剤等のメーカー)の前身会社である。大手拓次は、ライオン歯磨本舗に“文案係”として採用された。“文案係”というのは、今日の言葉でいえばコピーライター。この時代の大手拓次は、いつも和服の着流し姿。フランス語の本と辞書を手元に置いていた(「ライオン歯磨の異色社員」)。

 大手拓次は早稲田大学“英文科”に学んだ。しかし、学生時代の“フランス語”の勉強には気合が入っていた。大手拓次が二十三歳のとき、日本橋・丸善でボードレールの『悪の華』の原書を購入する。以後ボードレールの詩に心酔する。生前の詩作の数は二三七八篇という膨大なもの。加えてフランス語等外国語からの訳詩も多い。これらの訳詩についても、前掲岩波文庫版『大手拓次詩集』に多数収録されていて、今日でも容易に読むことができる。語学力に秀でていた大手拓次。海外情報に強く、外国の商品情報にも明るい。このような能力は、日本で初めて粉歯磨の製造に成功した会社にとっては、必要であったと推測される。コピーライターとしてはきわめて優秀だったことはもちろんのこと。香料に関する外国文献の紹介をするなど、大手拓次の語学力は会社に貢献した。こんなエピソードがある。詩を通じて知り合った北原白秋に頼み、「ハミガキの歌」を書くよう依頼したことがあった。もっとも、白秋はこの仕事には気が乗らず、「こういう仕事は今回限りにしたい」と大手拓次に伝えたといわれている(「ライオン歯磨の異色社員」)。
 大手拓次は優秀なコピーライターであった。その一方では、持ち前の気むずかしい性格からサラリーマンとしては不適格な言動もあったようだ。「ライオン歯磨の異色社員」には、当時の社内報が引用され、サラリーマン大手拓次の姿を浮き彫り似にしている。大手拓次の死後、追悼座談会が開かれた。当時の重役の一人が大手拓次について「・・・・生前を追想するに大手君は頑固な所があって偏屈で不規則で不仕鱈で陰気であった。吾々としても広告部の事務上の統制上非常に困った事だと考へる事も度々あった。折りにふれ注意し忠言した事もあり・・・・」と語っている。また別の幹部は、「ともかくも大手君は道徳的に反省出来ない人であった事、女に縁のない人であった事、宗教的でなかった事などは、思へば気の毒な人であった。それは遺伝か、病気か、悪詩にかぶれたのか、不明である・・・・」と述べている。
 大手拓次の陰気さ、偏屈さ。これは深刻な詩を書く詩人気質からくるものであったのだろう。それだけではなく、病気から来る要素もあったにちがいない。子供時代から続く耳疾は、左耳難聴や頭痛となって生涯悩まされる。更に、眼疾、痔、結核と次々と病気を背負い、欠勤や入院加療を繰り返す。これが、サラリーマン大手拓次の姿でもあった。 大手拓次には、生涯童貞説もつきまとっている。しかし、決して女性が嫌いだったわけではない。それどころか、女性に関するエピソードも幾つか残っている。眼科の看護婦に思慕をよせた。和服の似合う美人女子社員にエレベーターでラブレターを渡す。新入社員の山本安英(後の大女優)に熱烈な片思いをした。そんなことが『大手拓次詩集』巻末の年譜等に記録されている。
 大手拓次の生涯で忘れてならない人物。それは逸見亨である。逸見は画家で、職場の同僚。入社の年、この二人を中心に八人の仲間が「異香社」を結成する。以後、詩歌と版画誌「異香」を発行する等の活動を行った。大手拓次の死後、一九三六年から一九四三年にかけて出版された四冊の詩集(二冊目以降の出版社は竜星閣)は、すべて逸見亨の手により編集・出版されたものである(野口武久編『大手拓次』)。


東日本で豪雨、磐越東線列車が激流に転落等各地で被害――昭和10年

2006-05-13 01:59:32 | Weblog
磐越東線は福島県を東西に走り、郡山駅と平駅(現いわき駅)を結ぶ路線である。一九三五年(昭和十年)十月二十七日、磐越東線平駅行の旅客・貨物混合列車が、同線川前・小川郷間で脱線、転覆した。原因は、折からの雷雨のため線路の土砂が一二〇メートルにわたり流出したことによる。先頭の機関車、郵便車、客車二両(二・三等客車と三等客車)の計四両は、まず一丈五尺(約三・五メートル)下の県道に墜落、さらに下にある激流の夏井川に突っ込んだ。客車の乗客は、二両で約七十名だった。死者は十名。三十名が重傷、軽傷者は二十名であった。奇跡的に死を免れた機関手と二人の機関助手(ともに重症)、軽傷の車掌(最後部車両に搭乗)が、近くの小野新町駅に辿りつき事故発生を報じた。事故発生は午後六時頃。午後九時になっても豪雨はやまず、救援作業は困難を極めた。
 転落した機関車は夏井川の奔流の中に車体を埋め、半分は土砂に埋まった状態。郵便車と二両の客車は木端微塵(こっぱみじん)となり、これに鮮血が生々しく染まるという惨状である。一方、転落を免れた客車一両は、辛うじて線路に引っかかり危うく転落しそうな状況だった。
 この時代、既に航空機による取材が行われていた。事故の翌日の十月二十八日早朝、羽田空港を出発した小型機プスモスが事故現場に向かった。現地では、八〇〇メートルの谷間から吹き上げる悪気流、やエアポケットに翻弄されながら取材をし、写真撮影を行った。その記事と写真は、十月二十九日付東京朝日新聞の紙面を飾った。「機上から一点凝視」、「死魔躍る山峡」、「北側の崖が無残に崩れ、支離滅裂の鉄路」という見出しとともに事故の惨状を読者に伝えている。

 一方、十月二十七日の“帝都”は、水漬けの状態。市内各所で異変が起きた。関東大震災からは免れた日比谷の帝国ホテルは水に弱い。豪雨のため地下に濁流が流れ込み、ボイラー二基が水没する。職員がバケツで水を掻い出す状態。消防署からポンプ車が駆けつけ排水作業を行ったがかなわず、停電のため蝋燭(ろうそく)で明かりを採る有様だった。地下鉄には大量の水が流れ込み、朝から運転はストップした。必死の作業で、神田・新橋間は午後三時四十五分にようやく開通したが、浅草・上野間は翌朝の始発までストップした。同じ日の夕方、麹町区丸ノ内の日本興行銀行では、同行地下の電気室で大爆音が発生した。次いで黒煙が噴き出す。電気室には三千三百ボルトの電流が流れている。水をかけると危険なので、防火用の砂をかけるなどして三十分後にようやく鎮火した。原因はオイルスイッチの絶縁不良から漏電発火し、その火が配電盤の土台の板と椅子に燃え移ったもの。日本興業銀行から電力供給を受けていたのが同じく丸ノ内にある工業倶楽部。その夜、住友合資会社の晩餐会に集まっていた“紳士たち”は、暗闇のなかで蝋燭を片手に「もたもたやっていたが、とうとうあきらめて、全部逃げ出してしまった」と戯画調の報道がなされていた(十月二十八日付東京朝日新聞)。帝都の中心街丸ノ内、日比谷あたりは混乱の極みだった。東京市では前月も水難に会っている。すなわち、九月二十四日に関東地方は暴風雨に襲われた。雨量は百二十五ミリ。特に被害が大きかった群馬県での死者は一九〇人に達した。