百醜千拙草

何とかやっています

型通りの挨拶

2007-04-04 | Weblog
エレベーターで、顔は知っているがそれほど親しくない人と乗り合わせて、二人きりになったときというのは、何となく気まずいですね。そこで、どうでもよい話題で1分以内に終われる話をしないといけないという感じになります。どうでもよい話題でなければならないので、共通してそれなりに距離のある話題を選ぶのですが、当然のことながら天候の話がもっとも多いことなります。「いい天気ですね」というと相手は「そうですね、あったかくなって良かったです」とか返してくるわけですね。天気は悪くても良くても、それなりに話題にできるし、どのように話してたとしても、今日の天気がその人の人生に極めて重要である可能性は低いので、相手の気分を害することはまずないでしょう。日記が天候の話題から始まるときは、それ以上に重要なことが思い浮かばないということかも知れません。
アメリカでは、How are you? I'm good, thank you. How are you? と 教科書通りの挨拶を、まずはじめにするので、短いエレベーターであれば、天候の話題に入る前に終わってしまうこともあり便利です。この決まり文句を省略することはほとんどないし、お互いに相手の健康など気にかけてないのは明らかなのにとりあえず、型通りに言うのは、この挨拶が間を埋める言葉として必要とされているからなのでしょう。以前、満員電車の中で二人の若い女性のそばに乗り合わせました。一人は座っており一人はちょっと離れて立っていて、明らかに二人の関係は顔だけ知っているというレベルの関係のようでした。二人の視線が合いどちらからとも無く会話が始まったわけですが、型通りのHow are you? I'm goodの後、話題が無くなってしまい、ふたりとも愛想笑いを浮かべてどうしたものか状態でした。満員電車の駅から駅まではエレベーターより長いのです。なんとか無難な話題へ飛ぼうと必死なのはわかりましたが、会話はもりあがらず、再び、So,how are you?と最初に戻ってしまったのを見て、吹き出しそうになりました。
型通りの挨拶、若い頃は無用のものだと思っていました。手紙文では時候の挨拶に最初の一、二行を割きますが、忙しい時に事務的な用事で書かねばならない手紙にこれを書いているといらいらしたものでした。しかし不思議なもので自分がそういった事務的な手紙を受け取る場合に、時候の挨拶が断り無く省略されていると、手紙の主に余りいい印象をもたないのも事実なのですが。最近は、「言っても言わなくても本質に関わりのないとうでもよい」話をわざわざすることの意味がなんとなくわかってきました。車のハンドルのあそびと同じく、いわば社会の潤滑油なわけですね。こういったことは、忙しく個人主義の傾向の強い現代社会でなおさら必要だと痛感します。朝おきて「おはよう」といい、「おはよう」と返す。知らない人と目があったら微笑み、微笑み返す。これらは、「相手の存在を認めていますよ」という意思表示なわけですね。若い時はこうした周囲のことに気が回らなかったものです。自分から周りに働きかけることで、自分の周囲に快適な環境をつくる事ができるわけですが、そのための道具として型通りの挨拶、どうでもよい天候の話題があるのですね。最近の若い人や自分の若かった頃を見ていると、積極的に周囲に働きかけることで自分の快適な環境をつくるという動的な方法をとらず、むしろ周囲と自分を遮断することでそれを実現しようとする傾向が強いように思えます。これは当然ながら柔軟性に乏しく脆い方法で長期的にはうまくいきません。相手の存在、周囲の存在を積極的に認めていく、そのために挨拶し、一緒にお茶を飲むのですね。忙しすぎる日常だからこそ、あそびが必要なのでしょう。
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