百醜千拙草

何とかやっています

生き延びるために泳ぐ

2024-07-30 | Weblog
パリ オリンピックが開幕しました。今や商業主義に陥り、4年前は、賄賂、利権に中抜きと、その腐敗ぶりとボッタクリ男爵の悪名ばかりが印象に残った競技会でしたが、今回は、オープニングセレモニーで、世界から大反発をうけました。平和の祭典という建前のオリンピックのオープニングで、あれをみて世界の平和への意図を感じますかね?あれで、多様性の尊重とか人類愛への賛美を感じますかね?近代民主主義の確立へと導いたフランス革命をモチーフに使うのはわかります。しかし、それを断頭したマリー アントワネットで象徴させるというのは余りに短絡的で、かつチープな演出と言わざるをえません。そして、「最後の晩餐」のパロディーを思わせるパフォーマンスは、嫌悪感を抱かせるものでした。これはどうも「最後の晩餐」ではなく、ギリシャのオリュンポス12神を意図したものだったようですが、このパフォーマンスを「最後の晩餐」のパロディーだと思い込んだ人が圧倒的だったようで、特にクリスチャンの人々から多くの文句がでました。クリスチャンだけではありません。イスラム教ではイエス キリストは重要な預言者の一人で、それを揶揄したことにイスラム教徒の少なからずも怒りました。実際、イスラム国家であるイランはこの演出に怒り、フランス大使を呼びつけて抗議しました。それだけではなく、聖書の故事から偶像崇拝、拝金主義を象徴する「金の牛」を配置したステージ、そして「蒼い馬」の疾走。蒼馬はヨハネの黙示録に出てくる第4の騎士が乗る馬であり、複数の小説のタイトルにも使われているように、それが意味することは「死」です。これらを見て不愉快になる人は多いでしょうが、啓発的だと感じる人は余りいないでしょう。
 芸術は人間の感情を揺さぶるものですけど、感情を揺さぶるものがすべて芸術とはいえないでしょう。感情が揺さぶられるのはあくまで芸術そのもののエクセレンスに伴う二次的な結果であって、人の感情を刺激することそのものを目的とした打算的で浅薄な演出は邪道であります。刺激的であること自体が目的なら、ポルノビデオでもいいのです(実際、出演者の一人は睾丸がパンツからはみ出していたみたいですが)。

このパフォーマンスを監督したのが、フランスの役者で劇監督のThomas Jollyという42歳の男で、ネットではユダヤ人の同性愛者であるという噂が飛び交っています。その真偽はともかく、平和の祭典のオープニングで、これほど多くの人を不愉快にさせるような演出をするというのは、それが意図的でないならば、観る人の立場に立って心情を思いやる能力を欠いていると言わざるを得ません。先日の東京知事選でも思いましたけど、寿命が伸びたせいなのか教育の問題なのか、現在の40歳というのは精神年齢は10歳ぐらいになってきているのではないでしょうかね。かつては「不惑」の年と呼ばれたものですが。

さて、オリンピックの偽善性は、昔から指摘されてきており、スポーツと平和の祭典という建前であっても、従来から国威発揚の道具として、政治的に利用されてきた催しものでした。自国の選手が勝てば国旗を振りかざす心理というのは自然な同胞愛に根ざす一方、それは同時に、差別思想に利用され「愛国心」という名のもとに、大衆のコントロールや戦争に利用されてきました。(正直、私は「愛国心」などという言葉をためらいなく振り翳す人間は詐欺師だと思っております)それは別にしても、そもそも、仮にもオリンピックが平和の祭典というのなら、どうしてイスラエルを参加禁止にしないのでしょう。そうした抗議の声は開会前からありました。ICJは、先日、正式に「イスラエルはアパルタイト国家であり、不法にパレスティナを占拠している」と判決を述べましたが、アパルタイト国家であった南アフリカは1964年から1988年まで、同じ理由でオリンピック出場禁止処分を受けていたのです。南アフリカはダメでイスラエルは良い、ウクライナが攻撃されるのはダメでもパレスティナなら良い、こうしたダブルスタンダードを見ていると、一体どういう連中がオリンピックや西側諸国を牛耳っているのかよくわかります。しかし、観客は正直です。入場式でのイスラエルの入場には会場はブーイングの嵐、ユーロビジョンの時を思い出しました。

そして、日本は史上最多の400人を超える選手団が盛大に入場しました。一方で、パレスティナと言えば、総勢15人にすぎません。最小の選手団です。

その理由は、この十ヶ月で、300人以上のパレスティナ人競技者がイスラエルに殺されたからです。

そのパレスティナ選手団の旗手を務めた24歳の水泳のValerie Taraziが開会に先立ち、述べたメッセージを下に紹介します:
、、、スポーツは人間の基本的な権利の一つです。私たちは競技に参加できることを光栄に思いますが、すべてのパレスティナ人が、日々、直面している厳しい現実を、私たちは無視することはできません。
 私たちは世界中で、最も幸運なパレスティナ人です。私たちは、競技に参加することができます。しかし、その権利はパレスティナの子供からは奪われてしまいました。彼らはスポーツをする自由がありません。生き延びるための泳ぎを覚えることでさえ、彼らにとっては今や贅沢なのです。
 パリでの競技に備えている中で、私はニュースを見ました。そして、パレスティナの人が(海に落とされた)援助物資を手に入れようと泳いでいる姿を見ました。私は競技のために泳ぎます。しかし、彼らは生存のために泳いでいるのです。、、、
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