百醜千拙草

何とかやっています

筆を置いて立つまでに

2013-11-29 | Weblog
このブログは、身辺雑記で、遠くに住む知人親戚に、私の近況を知らせるのが主目的の一つです。
しかし、一方で、日本と世界の国々の権力者と呼ばれる連中が、看過出来ないデタラメをやり、人権を蹂躙し、環境を破壊してきたことに、黙っておられず、話題にしたくない話も綴らなければならなくなりました。私、「人権」というヨーロッパ人が編み出した(?)言葉は好きではありませんが、帝国主義、差別主義の本場のヨーロッパで、人々の進歩のためには「人権」というのは必要な言葉であったのだろうと思います。

明治以後、武力による「開国」という第一の敗戦を経て、日本はヨーロッパ式の物質主義、帝国主義に邁進し、日清、日露戦争での「まぐれ勝ち」ですっかり調子にのり、ヨーロッパが言う二流国の中での一番を目指してきました。しかし、第二次大戦での敗戦によって、欧米流のカースト制の関係をねじ込まれ、現在では、中間管理職たるアベ氏が、上(欧米)には腰低く、下(日本国民とアジア諸国)には威丈高に、国民の奴隷化を目指して「国民の生活の破壊が第一」というでもいうような「カバルのアジェンダ」を着々と実現すべく、官僚に言われるがままロボットのように忠実(?)に職務にあたっている、という悲しい現実があります。

世の中で起こっている理不尽なことは、そういう欧米の(より端的には、戦争産業と中央銀行制度を牛耳っている連中)意図、世界歴史というコンテクストの中での理解が必要であろうと思います。確かにアベ氏の頭のレベルは問題でしょう。かつて「私は権力の頂点にいる!」と恥ずかしくも叫んだごとく、本人は、自分には何らかの力があるのだと勘違いもしているでしょう。そして、私も世間の人々もこのxxxは弱いが官僚の言う事をよく聞く(小沢氏、亀井氏の言葉によれば)「いい子」を非難するわけですが、結局、彼も、複雑に絡み合った世界の支配者とその追従者の利益互助集団のネットワークに操られている使いパシリのロボットにしか過ぎない、ということを理解しておくべきだと思います。アベ氏は「カバルのアジェンダ」を実現するためのツールに過ぎず、用が済んだら、捨てられて別の使い勝手の良いのに交換されるだけの存在にしか過ぎません。いくら、国民がアベ氏に何をいっても、右耳に入った言葉は、両耳の間の空洞を一瞬で通過して左耳に抜けてしまうだけだし、アベ氏を使っている連中にしたら、いつでも替えがきく消耗品ぐらいにしか思っていないのです。連中は、そうやって国民の怒りを反らしたり、ちょっとでも国民の意見にそうようなことを言う人間に首相を替えて国民に希望を持たせたりしながら、着実に「カバルのアジェンダ」を実現化していきます。なぜ選挙公約がいとも簡単に破られていくのか、なぜ政治家は必ず国民を裏切るのか、ほとんどの職業政治家は国民の代表ではなく、体制側の利益互助活動の手先であるという観点から眺めれば、簡単に理解できることです。

現代の社会は「カネ」と「戦争」を中心に回っています。カネも戦争も、「富」を手に入れ、人々を支配するための道具であり手段です。戦争の目的は自明ですが(それでも、平気でシャーシャーと「民主主義のため」だとか言った英語に問題のある大統領がかつておりましたが)、カネはもっとSubtleです。本来、「ものやサービスの交換のための手段」であるというカネの性質を悪用して、作り上げた詐欺システムが現在の管理貨幣制資本主義というものでしょう。現代の経済が、需要と供給の関係で「神の見えざる手」に導かれた自己制御されるシステムだと思っている人は、現在ではさすがにいないでしょうが、中央銀行制度の歴史と問題を正確に言える人も少ないだろうと思います。私も、そう知っているわけではありません。ただ、リンカーンとケネディーとガダフィーは、同じ理由で殺されたのだと私は信じています。リンカーンとケネディーが共通してやったことは政府発行の貨幣を流通させようとしたこと、ガダフィーがやろうとしていたことは、イスラム圏で基軸通貨としてドルを排してディナールに変えることでした。いずれも、貨幣制度を改革しようとしたのが、暗殺の原因だろうと思います。

話がずれました。そもそも、私はこの手の話はもう余りしたくない、ということを言いたかったのでした。ただ、人は「知らなければ」自分の身は守れない、と言いたかったのです。自分や家族や郷土や社会を守るために、何が起こっているのかを知り、それを考察し解釈すること、が必要です。我々は学び、知り、考えなければなりません。そうでなければ、アベ氏のような使い捨てのロボットにされてしまう、そう言いたかっただけです。

与党の「数の暴力」で性急に衆院を通過させた「秘密保護法」の採決の日のいきいき箕生通信のエントリーでは次のようにあります。

「お任せ民主主義」の隙をつけば、安倍という大した識見もない男にも、こうも簡単に国の根幹を変えることができる。国民主権という国家の根幹が、官僚主権という形に根底から変えられてしまう。

 民主主義は、それを支える大衆自身が普段の努力を欠くようなら、たちまち「衆愚政治」に陥ってしまう。これを地で行っているのが、今の私たちの日本ということになるようです。残念ながら。
 、、、
いつ、何の罪で逮捕・拘留されるか分からない不気味な社会。当然、言論が委縮します。それ自体が政権の狙いでもあります。突然逮捕されることがないよう、危なさそうな内容は発信しない。ネット空間から政権に都合の悪い言論を労せずして消すことができるのです。

 昨日の福島県で行われたこの法案に対する地方公聴会で、自民党推薦の意見陳述者を含め7人全員が「法案に反対」を陳述しました。しかし、そんなことは一顧だにせず、本日押し通す。こうしたことが、さらに当たり前に行われるようになります。

 繰り返しますが、私たちがぼんやりしていた結果です。日本の民主主義は、どん底から立て直すしかないようです。もともと自分たちの手で勝ち取らなければ魂のこもった民主主義とはならないのだから、腰を据えて努力しましょう。今度こそ本物の民主主義を私たちのものにするために。


民主主義というものは、国民が自ら勝ち取る努力をしたものでなければ続かないということですね。そもそも民主主義は、国民を支配し搾取しようとする体制との戦いの中で団結と抵抗によって、勝ち取られたものでした。日本の民主主義は、敗戦後にアメリカからトップダウンで与えられた「なんちゃって民主主義」にしか過ぎませんでした。今後、体制側の国民への締め付けは、真綿で首を絞めるがごとくでしょう。だんだんと崖っぷちに追いやられて切羽詰まらないと戦いのために立ち上がることはできないのかも知れません。ソ連崩壊のことが頭に浮かびます。この調子でいけば日本も同じ道を辿るのではないかな、と思ったりします。大多数の国民が自らの生活と社会を自らの手でつかみ取るための覚悟ができるようになるまでは、このまま下がり続けるのでしょう。

というわけで、それまでは、私、今後、少しずつ、この手の話は少なくして、もっと好きな話、研究の話とか、を増やしたいな、と思っている次第です。ウルトラマンほどではないにせよ、私が地上にいる時間は限られており、そろそろ、やることのプライオリティーを考えるべきだろうと思い始めました。

私は、ニュース番組を見すぎましたし、遊びすぎました。本も読みすぎましたし、音楽も聞きすぎました。一方で、やらずに後悔していることも沢山、残っています。

試験終了のベルがなって、筆を置いて立たねばならない時に、そこそこ満足できる答案を書けるようでありたいと思っています。そのためには、ニュースも本も音楽もほどほどにしておくべきだろうと思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 良心に基づいて立ち上がる | トップ | cloud funding »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事