百醜千拙草

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人生の短さについて

2021-06-03 | Weblog
若い頃、旅行先の書店で中島義道さんの本「人生を半分降りる」を買って以来、数冊の中島さんの作品を読みました。友達になるのは難しそうな人だなあと思いながらも、本は面白く、飛行機の中でグレゴリア聖歌を聞いている間に人生を半分おりると決心した、みたいなキザっぽいエポソードが若い私にはなかなかツボで、それがきっかけでグレゴリア聖歌を聞いてみたりもしました。カント哲学が専門のようですけど、ストア派のセネカの言葉がよく引用されていたのを覚えております。

最近、老後をどう生き延びてどういう形でこの世から去るかということをよく考えるようになりました。体力と気力の衰えを実感するとと気弱になるもので、「何があってもなんとかなる」という五年前にはあった気分を維持するのが難しくなりました。昔を振り返ることが多くなり、人生は意外に短いものだなあ、と思う一方、これから先を思って、人生まだまだ長いなあ、とため息をつくという困った状況です。

そんなこんなで、セネカの「人生の短さについて」の中のいくつかの言葉を思い出しました。名言というのは双刃の刃です。若い時は背中を押されて元気づけられるのに、年をとって俯きだした今は背中を押されたら転倒して大腿骨骨折です。

「ノート」に公表されている佐々田 法男さんのこの本に関してのエッセイにとりあげられた二、三の言葉をその中から抜き出しておきます。

われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。、、、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。・・・われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。

次に財産のことに移ろう。それは人間の苦難をもたらす最大の原因である。・・・財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らねばならぬ。

さすがはストア派ですね。ただ、今になって振り返って思うのは、確かに私は大量の時間を無駄に非生産的なことに費やしてきて、実際に後悔していますけど、もう手遅れです。資本主義社会の現代では、財産を持たないことはそのこと自体が持続性の苦痛の種だし、期待を持つことは失望につながりはしますけど、不安しかもたない人間よりははるかにマシではないだろうかと感じています。

時間を浪費してしまったという後悔は誰しもがするもので、私も若い頃に志したことの1%も成し遂げぬまま人生が終わりそうですけど、ならば、もう一度やり直したいかと聞かれたら、「結構です」と答えるでしょう。最近、数年後に引退を予定しているある女性教授は雑談の中で、「年を取っていてつくづくよかったと感じる」と言うのでした。その気持ちがわかるようになりました。結局、いろいろなことをして暇をつぶしてきたが、人生は短かかったなあ、と思いながら終えるのがベストなのではないか、と思うようになりました。
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