百醜千拙草

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農耕民族と民主主義

2021-02-23 | Weblog
テニスの全豪オープン、日系の大坂ナオミ選手が二度目の優勝。テニスに加え、社会問題にも関しても信念に基づいて発言し行動する姿勢は素晴らしいと思います。

日本以外の多くの国では社会問題というのはイコール個人の問題です。個人が集まってできたものが社会であり、それは社会の構成員一人一人の意志によって形作られるものという考えが根底にあると思います。一方、島国で封建制度が長く続き、外圧と敗戦で民主主義を外から与えられた日本という国では、民主主義はいまだに形だけです。現在の政治では江戸末期に外圧を利用して権力を手にした薩長の子孫の世襲政治屋が、まるで国の支配者であるかのように振る舞っています。かれらは下々の国民が納めた年貢は自分たちのものであり、それを自由にで使うのは当然だとでも思っているのでしょう。

フランス革命では、コンコルド広場で国王はギロチンにかけられ、この時の革命歌で現在フランス国歌となったラ マルセエーズのサビでは、「武器を取れ 市民らよ、隊列を組み、進め。汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで」と歌われます。市民が自らの手で民主主義を手にいれました。先日のトランプの扇動によって議会に乱入し議員を拘束しようとした人々も、その行動の源には、おそらく、西洋の自由主義と民主主義もあったのだろうとは想像できます。権利は勝ち取るものだという意識があると思います。だからこそ、市民の目の前で国王は処刑されなければならなかったのでしょう。

一方、日本は和の文化であり、東洋思想の仏教の陰陽のバランスを重視してきました。悪人には悪人の意味があると考えるのが東洋的な考えだと思います。敵と味方で戦って勝敗によってやりかたを決めるというやりかたを嫌います。それは土地から離れられない農耕民族であるという条件が大きく影響しているという話を聞いたことがあります。土地から離れられないのに、近隣に住むもの同士が、敵味方でとことん争うことはダメージが大きすぎるからだろうと思います。個人の権利よりも、その土地全体の安定が第一となるわけで、日本人や中国人が論理的(logical)ではなく実際的(pragmatical)であり、そして全体主義に馴染みがいいのはそういう理由であろうと思います。

しかるに、民主主義は西洋で生まれ、それは原則的に二元論にしたがって論理的な議論の勝敗によって政策を決定してくというプロセスだと思います。そして土地という現実に縛られがちな農耕民族とは違い、西洋の論理的思考は現実の束縛の外を自由に考えることができるという長所があるのではないかと思います。

民主主義のプロセスというものは、現実的であるということ(つまり与えられた現状の中で最大利得を目指す)とは相入れない部分があります。現状を変えて、理想とする世界を描きそれに向かって努力する、あるいは困った状況を予測しそれを回避するように工夫する、ということができるためには論理的思考力、想像力が必要であり、それは、現実的であることや人間の感情としばしば対立すると思います。日本人は、空気を読んだり、忖度したり、付和雷同して、丸く収めることを好みますけど、西洋型民主主義という観点からみると、丸く収めるのを目指しているという段階で、民主主義プロセスは機能不全に陥っていると思います。国会で、ごまかし、その場をやり過ごすのが目的としか思えないような官僚答弁を聞いていると、彼ら「支配者層」が民主主義を形骸化していることがよくわかります。

「理に働けば角が立ち、情に竿せば流される」と言われる通り、論理は理性に基づき、人間の行動は感情に基づくので、実際的である日本人や中国人は感情に注意を払います。そのために「理」が曲げることもしばしばある。戦後民主主義という枠組みが西洋(アメリカ)から与えられて、それに沿って国家運営を行うことになったのに、全体が個人より優先し、感情が理屈よりも優先し、理想の実現よりもその場を丸く収めることを優先する農耕民族のやりかたが、日本の政治を極めて未熟なものにしていると思います。

つまり、日本の政府、特に、今の自民党政権には、「理」がありません。ついでにいうと「情」も身内と自分に対してあるだけで、国民に対しては極めて冷酷です。だから、やって悪い事がわからない。モリカケ、サクラみたいな事件が平気で起こり、追求されると国会で数えきれない数のウソをつく。GoTo、 オリンピック、やってはならないこと、できるはずのないことをやろうとする、つまり理性的な思考力がない。原発にしてもそうだし、少子化にしてもそう、パンデミックや災害にも満足に対応できない。批判を正直に受け止めて、とるべき責任をとれば、それで進むのに、絶対に非を認めようとしない。非を認めたら「負け」だとでも思っているのでしょう。その感情を理屈よりも上位においてしまうことが、アベの119回目のウソに繋がっている。国民側も農耕民族思考で民主主義的プロセスに反対する自民党応援団がいるのが大きな問題でしょう。彼らの「野党は批判ばかりするな、対案を出せ」、「国会でサクラをいつまでやっているのだ、もっと大事なことを議論しろ」、「終わったことをいつまでもグダグダ言って時間を浪費するな」みたいなズレたことを言う。論理的な議論を拒否し、嘘を並べて議論の進行を阻止し、多大な時間と金を浪費しているのは自民党の方ですよ。

幸い現在の日本では国民はフランス革命の時のように力ずくで自民党議員を広場に引き摺り出して処刑する必要はなく、選挙にいって落とせばいい。それがなかなか実現しないのは、民主主義という西洋の精神が自ら勝ち得たものではないこと、それから、連綿とつづく農耕民族の思考のくせではないでしょうか。つまり、将来の理想の社会の実現のために戦うのではなく、与えられた目の前の現状を丸くおさめることを優先する農耕民族の本能的指向です。

よく言えば和を尊ぶですけど、それは同時に個に犠牲を強いることに繫がっています。この農耕民族思考が悪く出ると、和を乱すものをイジメることになるのでしょう。露骨にイジメるとイジメる方も和を乱す者と思われる可能性があるので、こっそりイジメるかみんなで責任を分散して輪になってイジメる。よりよい社会に変えていこうとする努力は冷笑され、出る杭は打たれることになる。これが、日本人の奥ゆかしくて親切であると同時に一方では意地悪く陰湿な性質の元なのではないでしょうか。
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