百醜千拙草

何とかやっています

神、自然、便所の穴

2009-02-06 | Weblog
今年は、ダーウィン生誕200年、「種の起原」の出版から150年の、ダーウィン年ということで、科学界ではダーウィンに因んだイベントが多々あるようです。ダーウィンの現在に残る偉大な業績の多くは、彼が、神経性と考えられる数々の病気に苦しみながら中で書かれたものらしいです。
 進化論の話になると、よく、「宗教と科学」の対立図式がすぐ持ち出されるのですが、私はこれらがなぜ対立せねばならないのか、いつも理解に苦しみます。 昨年亡くなったJohn Templetonは「宗教と科学の融合」とかいう目標を掲げて、Templeton foundationを創立したわけですが(宗教と科学)、「宗教と科学の融合」などと聞くと、私にとっては、洗濯もできる冷蔵庫とか、自転車としても使える飛行機とか、醤油味のケチャップとかのようなナンセンスさを感じます。
 生物種が、(神によって)独立して創造されたものなのか、あるいは共通の祖先から、変異や自然選択を経て枝分かれしてきたのかは、今でも論争が続いています。私は「種」という(恣意的な)概念への妙なこだわりが悪いのではないかと思います。そもそも「種」という概念は、本来「人間と猿とは似ているけど歴然と違う」という直感的理解に基づくものであったはずです。これは、「白人と黒人は違う」と思うのと同じことです。黒人と白人を(例えば)肌の色で区別するように、「種」を交配可能かどうかという単純な基準で定義することは、その直感的理解を正当化するための後付けの理屈にしか過ぎません。事実、最近の発見では、交配不可能な独立種であるとされていた二種のげっ歯類が、一遺伝子の違いだけで、交配可能となるという例も示されていますから、「種」の独立性など怪しいものです(Mihola et al)。
 「生物の多様性」を説明する理論として、ダーウィンを含む数多の人々の研究によって、進化論を支持する証拠は数多く示されて来てます。一方、種が独立して(創造主によって)創造されたという説を支持する科学的証拠はありません。しかし、これは「進化の証拠」に比べて、「種が独立して創造主によって創造された証拠」というのを見つけることが、極めて困難であるという理由が大きいことも原因であると思います。一方、進化の証拠も原則的には間接的なものです。ヒトやサルやマウスの遺伝子配列がよく似ていて、遺伝子産物も同様の働きをすることが多いことから、これらの種は、共通の祖先から枝分かれしたという仮説を考え、それを進化と名付け、「生物の多様性」の研究の方便として使うことは、結構なことであろうと思います。現に、私自身も、「進化的に保存された遺伝子」といういうような表現を躊躇無く使います。一方、「人間を含む地球の生物は共通の祖先から進化したのである」と断言し、「人間は神によって独立に創造されたのではない」とでも主張するなら、それは科学的ではないと言えます。進化論が方便であるということに意識的でなく、「進化」が事実であると信じる人は、聖書に書いてあることを文字通り真実であると信じる原理主義者と同様に、ちょっと困ります。
 神は自らに似せて人間を創ったそうです。そうすると、人間と神の格好が似ているからといって、人間と神は共通の祖先から変異や自然選択で枝分かれしたのだ、と言う様な人はいないでしょう。

ところで、Wikipediaのダーウィンの記事には、次のようなエピソードが書かれてあります。

決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。

そのようにダーウィンを確信させるために、神は彼から長女を取り上げたのかも知れません。また、もし本当にダーウィンが、「死は神と関係がない自然現象である」という確信を持ったのだとしたら、「なぜ生き物は死ぬのか」という問いに誰も答えられないこと、「自然現象」という言葉自体、その意味するところは不明であるということ、を意識的または無意識的に無視したということで、私はその理由を知りたいと思います。
 自然現象も自然選択もまた神の行いであると考えるのが、私には自然に思えます。(「神」というのも、いわばまた方便です。臨済も「仏は便所の穴である」と言って、このことを表しました)
コメント
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