真梨幸子著「殺人鬼フジコの衝動」(徳間文庫)を読んだ。
殺人鬼フジコの衝動 (徳間文庫) | |
真梨幸子 | |
徳間書店 |
怖い話。読んだあとの後味も悪い。沼田まほかるさんや湊かなえさんよりももっと悪い。だけど真梨幸子さんのほかの著作も読みたい!とおもった。
カバー写真は嶋本麻利沙さん、カバーデザインは印南貴行さん・河野朱美さん(THOMAIN)。
この頃、小説の表紙絵に携わっている方を検索する癖がついた。絵を描くおかげでヴィジュアルアートに興味があるのだ。
嶋本麻利沙さんは透明感のある写真を撮られる写真家の方だった。鳥かごとバラの花びらをその透明感で撮影した写真を加工している、カバーデザインが秀逸。凍えた感じ。またフォントが怖さを際立たせている。
「殺人鬼フジコの衝動」を読むと、常識は人によるというのがよくわかる。タイトルのとおり殺人を繰り返す女性の話。快楽ゆえというよりは、恐怖心からどんどん常識が侵食される。
そして誰の中にも狂気があり、その人にとってはそれが普通。
話を大きくすると違う文化で育った人の当たり前や普通のことが、あたしたちと大きくかけ離れていても自然なんだなとおもった。宗教の違う国、経済環境の違う国など。
話を身近にすると、同じ日本でも育った環境が異なれば、考え方が大きく異なるのは当たり前なのかもしれないね。
だから親は子どもでどこを育てるか考える。うーんどういう育ち方がしあわせかはわからない、本当にわからにゃい。
あたし自身について考えてみると、やっぱり育ちにも親の価値観は大きく投影されている。親の癖でそうなってしまった部分、親があえて選んでやった部分、両方ある。ひとついえることは、いまはそんなあたしとこの人生やっていこうとおもっていて、自分から何を生み出せるかわくわくしている。
子どものころの育ち方を自分で選べない。選べないけれど、どうやって育ってきたかを大人になってから見つめなおし、置き換え、今の自身の価値観というかこうありたいという世界観と混ぜるといいんじゃないかなとおもうよ。
いまは寿命が延びた。今後どうなるかはわからないけれど今のところ伸びている。科学技術の発展で人が一生の間にできることとても増えた。だから昔は育つときに獲得した価値観でそのまま人生を終えたかもしれないけれど、いまは再選択し続けること大切になってきているんじゃないかなあ。
そんなことを考えながら、あとは自分の個人的なことを振り返りながらこの本を読んだ。
あたしはどちらかというと不幸なこともよいように置き換えるという発想が強い。よく言えばポジティブかな。
だから 沼田まほかるさんや湊かなえさんの小説を読んでいるときは、自分が嫌われる理由に出遭う気がする。彼女らの小説の登場人物はきっとあたしのこと嫌いな気がして、わわわわ、あたしよくこれやるよね、すいません!!とおもいながら読んでいる。
人間誰しもそうなのかもしれないけど、いつの間にか嫌われていることがある。あたしもあり、昔は気になったけれど最近は強気なのかさほどでもない。
むしろ人に非難されるのが怖くて萎縮してしまっていた時期があったから、また嫌われるくらい動けるようになってきたなとうれしくおもったりすらしている(すいません)。
それでも嫌われたいわけでは決してない。だから彼女らの小説を読むと自分が嫌われるポイントがわかる気がして、だから勉強の意味でも読んでいる。
ほんとう、できる限り嫌われずでも自分を表現したいなあ。そんなときアートってすごくいい。人の気分を害することが少ない気がする。だからあたしはアートに惹かれるだとおもう。
ではまた
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