私が炊き込みご飯を作るのは春と秋が多い。一年で最も過ごしやすい時期に美味しい山(と海)の幸が市場に出回るからだろう。春は特に山菜がおすすめだ。
早速アク抜きしたワラビを使ってご飯物にした。タイトルを炊き込み&混ぜとしたのは薄い下味をつけたワラビとニンジンを後添にしたため。米と一緒に炊くのが普通とされるが、素材がグジュグジュになるのが嫌いなので蒸らし工程の時に入れるのだ。
今回は干し海老・油揚げ・シイタケ・レンコン・ワラビ・ニンジンの六目、出汁には薄口醤油・日本酒・少量の塩で味をつけた。一口目は「ちょっと薄いかな」という感じを受けるが、各素材の味を活かした味わいである。旨みがもっと欲しいという人は鶏肉を入れるとよい。
早速アク抜きしたワラビを使ってご飯物にした。タイトルを炊き込み&混ぜとしたのは薄い下味をつけたワラビとニンジンを後添にしたため。米と一緒に炊くのが普通とされるが、素材がグジュグジュになるのが嫌いなので蒸らし工程の時に入れるのだ。
今回は干し海老・油揚げ・シイタケ・レンコン・ワラビ・ニンジンの六目、出汁には薄口醤油・日本酒・少量の塩で味をつけた。一口目は「ちょっと薄いかな」という感じを受けるが、各素材の味を活かした味わいである。旨みがもっと欲しいという人は鶏肉を入れるとよい。

東深津町5丁目から三枚橋と水辺公園を望む。子どもの頃、蓮池川ではよく鮒釣りをした。戦前この辺りで(寒)鮒を獲って売る人がいたという話を聞いたことがあるが、幼年期の記憶では既に汚れた川で薬師寺前の下井手川の透明度とは雲泥の差があった。ある日西深津の方から来たおっさんが真剣にモリでショッコン(食用ガエル)を突くのを見たことがある。
私たち悪ガキは「おっちゃん、ショッコンはどうすんなー」と聞いた。おっさんは澄ました顔でこう言った。「これか、もちろん食うんじゃー」。ガキが「嘘じゃ。こんなきたにゃー所に住んどるショッコンを誰が食おうに」と真っ向から否定して大笑いするとおっさんはバツの悪そうな表情になって「ほんまに食うんじゃ」と呟き北の方へ帰って行った。夕暮れ時のほろ苦い思い出(昭和50年代の初め)だ。
佐藤吉助氏の業績を讃えて建てられた石碑は元は北向きだったと『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』に書かれている。三枚橋周辺の歴史についても詳しい記述があるので紹介しておこう。

三枚橋
辻の坂を越えて薬師寺の前で右折し松原通りを過ぎると、福山城の外堀であったといわれる溜池があり、水辺公園がある。木之庄から流れてきた助七川の注ぐところで、その昔、かんがい用水として一定の役割をはたしていたこの沼も、都市化の中で泥沼となり、わずかに岸辺の柳並木が心の安らぎを与えていたが、昭和四十七年には、その岸も改修された。
公園の北側に三枚橋がかかり、西側に大きな「三枚橋の碑」が建っている。数十年の風雪の中で、刻まれた文字の判読がむずかしくなっている…
江戸初期のこの付近の状況からひもといてみると、一六三〇年ごろまでは遠干潟の海で、西浜といっていた。東深津、手城あたりが干拓によって開けてきた。一六四〇~七〇年代ごろから東西の交通要路として三枚橋の役割(三昧ともいう=心を一事に集中して他念のないこと)がましてきた。
貞門の七俳仙の一人、野々口立圃(一五九五~一六六九)は慶安から寛文にわたる十一年間、俳諧の師として福山藩に仕えている。彼の著した「草戸記」によれば「東方に薬師如来の御堂あり。得聞是経、病即消滅、不老不死を願ふ人、あゆみを運びて、光り絶せぬ霊地也」とあり。
当時、城下町から今の三枚橋附近をとおって薬師寺(本堂ができたのは少しのち)におまいりしていた人が多かったことがわかる。ややくだって茶山編集の「福山志料」(一八〇九)の巻六十二、深津郡の項に三ツ橋の説明として「土橋ナリ、三吉村ノ界溜池ニアリ。中橋ノ中ヨリワカレ、三吉村に属す」とあり、おそらく現在の三枚橋あたりのことを描写したものと考えられる。
明治のおわりごろまでは大きな丸太を並べ、上に土がもられていた。近くに住む古老の話によると、木の間から土がおち、渡るのがおそろしいこともあったという。橋げたも木をくんだもので、朽ちるごとに改修していた。
明治のおわりごろ、三和土(たたき)のしごとをしていた入船の「吉っあん」は交通路として重要な役割をもつ三枚橋が、その用を果たしていないのをみかね、私財を投じて、独力で現在の橋をかけた。…橋脚を二つおき、すべて石材を使用して完成されたものである…
…橋は明治のおわりに完成。これを記念して村の人たちが碑をつくった。翁は大正三年になくなっている…
佐藤翁がどんな人であるかは、碑文によって大体のことが想像される。橋の両側の右手欄干に「三枚橋」と記しその横に寄附者佐藤吉助と刻んでいるのは、完成を喜び自分の名を残しておきたいという吉助翁の自然の発露からだと考えられる。
…水辺公園の改修がすすみ川幅は半分以下となった。石碑も昭和四十七年夏に現在地へかわり、向きも前とは正反対となった。この橋も昭和の大改修工事が完成、この碑が遠き昔を懐慕しているようです。
三枚橋の碑
架橋者 佐藤吉助翁
翁名ハ吉助佐藤氏天保十三年備後三吉村ニ生ル父ヲ浅八ト謂ヒ之レカ長男タリ資性朴直ニシテ自ラ持スルコト倹素ナリ平素職業ニ勵ミ其得タル零碎ノ財ヲ蓄積シテ悉ク公共慈善ノ事業ニ投セリ三吉村青年倶樂部ヲ建設スル二百金ヲ寄附シ又深津三吉両村ニ跨ル三枚橋ノ改造ヲ企畫スルコト多年遂ニ獨力架橋ニ従事シ資ヲ投スル八百餘圓ニシテ堅窂ナル石橋トサシ以テ交通運輸ニ便セリ起ユ以来茲ニ三旬ニ及ブ老軀ヲ以テ自ラ任シ工ヲ督シ勞役ニ服ス又佛門ニ歸依シ良田ヲ喜捨シテ永世供養ノ貲ニ充ツ其家産ヲ傾盡シテ而シテ身ハ倹薄ニ安シ其徳ヲ行フコト是ノ如シ所謂孳々トシテ善ヲ為ストハ斯ノ人ノ謂カ郷閭咸其徳ヲ稱スル亦偶然ニ非サルナリ翁ヤ齢古稀ヲ踰エ家ハ其嗣子ニ譲リ自ラ幽栖ニ居ルト雖モ矍鑠トシテ猶稼穡ヲ力ム家庭ハ雍穆シテ子孫益々榮ユ是レ積善ノ餘慶ト謂フヘキナリ今ヤ架橋工竣リ関係村ニ於テ建碑ノ挙アリ乃チ之ヲ記シテ翁カ美績ヲ不朽ニ傳フ
大正元年十一月(一九一二年)
深安郡長正五位勲五等
吉田弘蔵篆額並撰文
水野上文造書之

三枚=三昧ということだが、実は墓地(火葬場)の意味も掛けていたのではないかと私は考えている。専故寺(再興されず廃寺となった)の念仏塔が深津村と三吉村の間を移動した歴史を考えれば強ち見当違いでもないだろう。

私たち悪ガキは「おっちゃん、ショッコンはどうすんなー」と聞いた。おっさんは澄ました顔でこう言った。「これか、もちろん食うんじゃー」。ガキが「嘘じゃ。こんなきたにゃー所に住んどるショッコンを誰が食おうに」と真っ向から否定して大笑いするとおっさんはバツの悪そうな表情になって「ほんまに食うんじゃ」と呟き北の方へ帰って行った。夕暮れ時のほろ苦い思い出(昭和50年代の初め)だ。
佐藤吉助氏の業績を讃えて建てられた石碑は元は北向きだったと『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』に書かれている。三枚橋周辺の歴史についても詳しい記述があるので紹介しておこう。

三枚橋
辻の坂を越えて薬師寺の前で右折し松原通りを過ぎると、福山城の外堀であったといわれる溜池があり、水辺公園がある。木之庄から流れてきた助七川の注ぐところで、その昔、かんがい用水として一定の役割をはたしていたこの沼も、都市化の中で泥沼となり、わずかに岸辺の柳並木が心の安らぎを与えていたが、昭和四十七年には、その岸も改修された。
公園の北側に三枚橋がかかり、西側に大きな「三枚橋の碑」が建っている。数十年の風雪の中で、刻まれた文字の判読がむずかしくなっている…
江戸初期のこの付近の状況からひもといてみると、一六三〇年ごろまでは遠干潟の海で、西浜といっていた。東深津、手城あたりが干拓によって開けてきた。一六四〇~七〇年代ごろから東西の交通要路として三枚橋の役割(三昧ともいう=心を一事に集中して他念のないこと)がましてきた。
貞門の七俳仙の一人、野々口立圃(一五九五~一六六九)は慶安から寛文にわたる十一年間、俳諧の師として福山藩に仕えている。彼の著した「草戸記」によれば「東方に薬師如来の御堂あり。得聞是経、病即消滅、不老不死を願ふ人、あゆみを運びて、光り絶せぬ霊地也」とあり。
当時、城下町から今の三枚橋附近をとおって薬師寺(本堂ができたのは少しのち)におまいりしていた人が多かったことがわかる。ややくだって茶山編集の「福山志料」(一八〇九)の巻六十二、深津郡の項に三ツ橋の説明として「土橋ナリ、三吉村ノ界溜池ニアリ。中橋ノ中ヨリワカレ、三吉村に属す」とあり、おそらく現在の三枚橋あたりのことを描写したものと考えられる。
明治のおわりごろまでは大きな丸太を並べ、上に土がもられていた。近くに住む古老の話によると、木の間から土がおち、渡るのがおそろしいこともあったという。橋げたも木をくんだもので、朽ちるごとに改修していた。
明治のおわりごろ、三和土(たたき)のしごとをしていた入船の「吉っあん」は交通路として重要な役割をもつ三枚橋が、その用を果たしていないのをみかね、私財を投じて、独力で現在の橋をかけた。…橋脚を二つおき、すべて石材を使用して完成されたものである…
…橋は明治のおわりに完成。これを記念して村の人たちが碑をつくった。翁は大正三年になくなっている…
佐藤翁がどんな人であるかは、碑文によって大体のことが想像される。橋の両側の右手欄干に「三枚橋」と記しその横に寄附者佐藤吉助と刻んでいるのは、完成を喜び自分の名を残しておきたいという吉助翁の自然の発露からだと考えられる。
…水辺公園の改修がすすみ川幅は半分以下となった。石碑も昭和四十七年夏に現在地へかわり、向きも前とは正反対となった。この橋も昭和の大改修工事が完成、この碑が遠き昔を懐慕しているようです。
三枚橋の碑
架橋者 佐藤吉助翁
翁名ハ吉助佐藤氏天保十三年備後三吉村ニ生ル父ヲ浅八ト謂ヒ之レカ長男タリ資性朴直ニシテ自ラ持スルコト倹素ナリ平素職業ニ勵ミ其得タル零碎ノ財ヲ蓄積シテ悉ク公共慈善ノ事業ニ投セリ三吉村青年倶樂部ヲ建設スル二百金ヲ寄附シ又深津三吉両村ニ跨ル三枚橋ノ改造ヲ企畫スルコト多年遂ニ獨力架橋ニ従事シ資ヲ投スル八百餘圓ニシテ堅窂ナル石橋トサシ以テ交通運輸ニ便セリ起ユ以来茲ニ三旬ニ及ブ老軀ヲ以テ自ラ任シ工ヲ督シ勞役ニ服ス又佛門ニ歸依シ良田ヲ喜捨シテ永世供養ノ貲ニ充ツ其家産ヲ傾盡シテ而シテ身ハ倹薄ニ安シ其徳ヲ行フコト是ノ如シ所謂孳々トシテ善ヲ為ストハ斯ノ人ノ謂カ郷閭咸其徳ヲ稱スル亦偶然ニ非サルナリ翁ヤ齢古稀ヲ踰エ家ハ其嗣子ニ譲リ自ラ幽栖ニ居ルト雖モ矍鑠トシテ猶稼穡ヲ力ム家庭ハ雍穆シテ子孫益々榮ユ是レ積善ノ餘慶ト謂フヘキナリ今ヤ架橋工竣リ関係村ニ於テ建碑ノ挙アリ乃チ之ヲ記シテ翁カ美績ヲ不朽ニ傳フ
大正元年十一月(一九一二年)
深安郡長正五位勲五等
吉田弘蔵篆額並撰文
水野上文造書之

三枚=三昧ということだが、実は墓地(火葬場)の意味も掛けていたのではないかと私は考えている。専故寺(再興されず廃寺となった)の念仏塔が深津村と三吉村の間を移動した歴史を考えれば強ち見当違いでもないだろう。


三原城跡発掘調査現地説明会終了後、曙橋へと移動した。この位置からは帝人と内港がよく見える。三原港フェリーターミナルからは瀬戸田(生口島)行きの船などが出ている。

市営内港東駐車場(城町3丁目1‐21)北側の公園内に興安丸の錨(いかり)が保存されている。私は元関釜連絡船(敗戦後は引き揚げ船として使用された)の激動の歴史を刻んだ銘板に目を留めて胸が熱くなった。
興安丸
昭和十一年三月十四日 三菱重工株式会社長崎造船所で起工
昭和十一年十月二日 同造船所で進水式
昭和十二年一月三十一日 関釜連絡船として就航 下関釜山間百二十二海里を七時間三十分で運航
昭和四十五年十月 三原市木原沖で解体

駐車場の東側には三原の名割烹・錦潟(城町3丁目2‐14)がある。5年以上前になるが、大柄な2代目主人と瀬戸内の魚について色々話をした。年々満足のいく魚が入手困難になっている状況を聞きながら鰆(さわら)の炙りなどを食べた。福山の料理屋とのスタンスの違いが私には新鮮であった。福山人も時々城下町三原に出掛けて食事をしてみるといい。


市営内港東駐車場(城町3丁目1‐21)北側の公園内に興安丸の錨(いかり)が保存されている。私は元関釜連絡船(敗戦後は引き揚げ船として使用された)の激動の歴史を刻んだ銘板に目を留めて胸が熱くなった。
興安丸
昭和十一年三月十四日 三菱重工株式会社長崎造船所で起工
昭和十一年十月二日 同造船所で進水式
昭和十二年一月三十一日 関釜連絡船として就航 下関釜山間百二十二海里を七時間三十分で運航
昭和四十五年十月 三原市木原沖で解体

駐車場の東側には三原の名割烹・錦潟(城町3丁目2‐14)がある。5年以上前になるが、大柄な2代目主人と瀬戸内の魚について色々話をした。年々満足のいく魚が入手困難になっている状況を聞きながら鰆(さわら)の炙りなどを食べた。福山の料理屋とのスタンスの違いが私には新鮮であった。福山人も時々城下町三原に出掛けて食事をしてみるといい。


上野ガラスから西へ50mほど行ったところで道は丁字路になる。上田商店ガス容器置場の前を通過して梅観橋(ばいかんばし)を渡り南西方向に進むのが西国街道であるが、私は広島県道155号を北上した。


国道2号三原バイバスの下で西宮2丁目から西野4丁目に変わる。私は梅観橋バス停付近から西宮トンネルを見上げた。車で広島へ行く時にはよく利用する道で大概猛スピードで通過している。

私が大学に入った頃はまだバイパスが存在せず三原の渋滞は頭痛の種であった。夕方の沼田川(ぬたがわ)沿いの混み様は尋常ではなく、ロー発進の連続で足が攣りそうになったものだ(笑)。三原・赤坂バイパスができて運転者は随分楽になった。

県道は益々寂しい様相を呈してきた。市営住宅近くの郵便局で時刻を確認した私はそろそろ引き返した方がいいと判断した。そして西野川沿いの梅を観ながら再び市中心部へと急いだのである。



国道2号三原バイバスの下で西宮2丁目から西野4丁目に変わる。私は梅観橋バス停付近から西宮トンネルを見上げた。車で広島へ行く時にはよく利用する道で大概猛スピードで通過している。

私が大学に入った頃はまだバイパスが存在せず三原の渋滞は頭痛の種であった。夕方の沼田川(ぬたがわ)沿いの混み様は尋常ではなく、ロー発進の連続で足が攣りそうになったものだ(笑)。三原・赤坂バイパスができて運転者は随分楽になった。

県道は益々寂しい様相を呈してきた。市営住宅近くの郵便局で時刻を確認した私はそろそろ引き返した方がいいと判断した。そして西野川沿いの梅を観ながら再び市中心部へと急いだのである。


昨年5月13日の火災発生で多くの死傷者を出したホテルプリンス。建物が取り壊されて更地になっていた。岡山市南区の不動産会社アートビルドの管理地という表示が出ている。新しい建物が出来る頃には人々の記憶もかなり薄れていることだろうが、悪夢の再来だけは避けねばならぬ。


