「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

貝原益軒に学ぶ⑤「清福といふ事あり、楽をこのめる人、必ずこれを知るべし。」

2021-03-30 11:56:03 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第四十六回(令和3年3月30日)
貝原益軒に学ぶ⑤
「清福(せいふく)といふ事あり、楽をこのめる人、必ずこれを知るべし。」
「清福は、いとまありて身やすく、貧賤にしてうれひ無きを云ふ。」

              (『楽訓』巻之上)

 「楽訓」の中で益軒は、「清福」は得難いが、そこに至高の楽しみがあると強調している。

「清福という事がある。楽しみを好む人は必ず知らねばならない。是は見識のある者が好む所で、俗人は知らない。(略)清福は、富貴の齎す享楽による福では無い。貧賤で時の栄華とは関係なくとも、その身は安らかで、心に憂いのない事を清福と言う。」

「清福は、時間にゆとりがあって身が安らかで、貧賤ではあるが憂いの無い事を言う。書物を読んで古の聖賢の道に通じ、又山水月花の楽しみを抱いている。この事は財利に富む様な福に優っている。或る時は静かな部屋で安坐して書を繙いて道を楽しむ、又良友に相対して人の道を論じ、共に清風霽月を愛でる、これこそが清福のとても優れた楽しみである。」

 世俗の価値では無く、清貧に安んじ、心の富貴を求めて道を求め続けた益軒の姿が髣髴と偲ばれる様な言葉である。「福」は幸せを授けるものであり、幸せはその人の価値観が反映する。至上の幸せは「清福」清らかな境地の福にあると言うのだ。しかし、一見誰でも抱く事が出来そうな「清福」だが、それを得る事の出来る人は極めて少ない、と益軒は言う。

「生きている者で、静かに時間のゆとりを持てる者は稀である。富貴の人は、昔から時時に出てはいるが、心安らかで憂苦が無く、身の回りが静かでゆとりがあり常に楽しんでいる人は、世の中で稀である。(略)愚かな人は、清福を得てもそれが解らずに楽しむ事が出来ない。又、清福という言葉を知ってはいても、自分の身に清福がなければ此の楽しみは無い。この様に清福を得る人が世の中に少ないのは、天も清福を与える事を惜しんでおられる訳で、最も得難いものだと言わなければならない。もしも此の清福の楽しみを知って、清福を得る事の出来た人は、世の中で類のない幸せな人なのである。」

 現代人は、他者との比較によって富貴を羨む習性がついている。それ故、清福の価値も解らず、その様な境遇を得ても楽しむ事が出来ない。心が貧しいからである。富貴では無くとも「心安らかで憂苦が無く、身の回りが静かでゆとりがあり常に楽し」む事が出来るならば、清福を得る可能性があると言え様。だが、「モア・アンド・モア」と限りなく、求める事をエスカレートさせて行く時代風潮は、我々をして清福の境地にも惑いを生じさせる。それ故、益軒はこの後で、「天は二つの事を与えない」と、清福を得た者が更に富貴を願う事の非を戒めている。その迷いが生じれば、せっかく得た清福自体が失われてしまうのである。

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